39.かつての殿下を裏切ると
人気のない放課後の図書室。
エルフリーデは読んでいた本を閉じてテーブルに置き、窓を見やった。レースカーテンの奥からは橙色の光が漏れ、美しい金色の髪に僅か、色を移している。
少し一人で集中したいと言って側仕えを廊下へ出し、二時間ほど経っただろうか。有用な本をじっくり読めたにも関わらず、心には達成感も満足感もなかった。
口角はやや下がり、光を避けるように窓から目をそらす。
かつてのエルフリーデは勉強にやり甲斐を感じ、こつこつと楽しく取り組めていた。全ては未来への糧だと。
それがどうした事か、ここ最近はまったく楽しくなどなく、義務として淡々とこなすばかりだ。
――学べば学ぶだけ、わたくしの力になる。誰とどう関わる人生になろうと、学ぶ事の価値は変わらないはずなのに。
公爵家に生まれたエルフリーデは、次期王妃に相応しくあれと教育を施された。
幼い頃に出会った男の子と生きるために、いずれ彼を王にして自分が隣で支えるつもりだった。
けれど忘れられ、思い出してもらえる気配はなく。「城の庭で会った彼」は変わってしまって、もう失われていた。
エルフリーデだけが、あの庭に取り残されている。
「惨めだわ」
誰もいない図書室でぽつり、認めたくない言葉を吐く。
まるで、エルフリーデのこれまでの努力も夢も、希望までもが泡と消えたようで。前を向こうにも、再び歩き出そうにも、その気力も無ければ目標も無かった。
王妃の座は所詮、エルフリーデ自身が望んだものではないのだから。
『幼い頃であろうと、自身で決めた事ならば。それを貫く姿の何が惨めでしょう』
ユリアにそう言われた事を思い出して、エルフリーデの唇が微かに引きつる。
あの茶会ではとても、本心で話すわけにはいかなかった。彼女達が何を言おうとも。
――わたくしが貫けば、何の罪もない殿下と貴女を引き裂く事になるけれど。
『そんな殿方は放っておけば良いと思いますわ。約束を覚えている健気な女性には、もっと相応しい男性がいるはずですもの。』
――ええ、いるでしょうね。わたくしの血筋や能力を、この見た目を欲して愛を囁く男達が。
『会いに行って、こんな人もういい!って思ったら、切り替えられるかもしれないし。人って変わるから、昔は良い人でも今は微妙だったりするかもですし!!』
――単純に切り替える事ができたら、どんなに良かった事か。八年もの月日は少し、長かったのです……もういないのに馬鹿だと、自分でも思うけれど。
『隣にいようともいなくとも、約束があろうとなかろうと。自分がどこにいたいか、どなたと共にありたいか……それさえわかっていれば、剣がぶれる事も、盾が割れる事もないものです。』
――どこに、誰と?………そんなもの、浮かばないわ。
時を告げる鐘の音が響いた。
もう半刻ほど籠ったら流石に側仕えから声がかかるだろうと、そう考えたエルフリーデの耳に物音が聞こえる。視線がそちらへ向く。立ち並ぶ本棚の奥からだ。
来た時に側仕えが見回って、誰もいないと判断したからこそ廊下へ出たはずなのに、どうやら見逃したらしい。エルフリーデは心の中でため息をついた。父が知ったら解雇だろう。
衣擦れと足音が近づいてきた。静かに立ち上がり、エルフリーデは平静を装って姿勢を正す。
「ん……?」
やがて歩み出て小さく呻いたのは、イザーク・メルツァー公爵令息だった。
肩を越す長さのシルバーブロンドを低い位置で結び、チェーンがついたフレームレスの眼鏡をかけている。
あちらも人がいると思っていなかったのか、エルフリーデに気付いた彼は足を止めて瞬いた。切れ長の目を眩しそうに細めている。
「――エル、フリーデ嬢…か。」
「ご機嫌よう。側仕えがここに人はいないと判断していたのですが、いつからどこにいらしたのかしら。」
「…これは失礼。少々見辛い位置に居たので、見逃しても無理はないでしょう。」
ゆるりと笑みを浮かべながら、イザークはぐっと目を閉じ、幾度か瞬いた。疲れと眠気が見てとれる。エルフリーデが少し眉根を寄せた。
「まさかとは思いますが……メルツァーの後継者が、このような場所で寝ていたのですか。」
「…ふふ」
「何か可笑しくて?」
「失礼、寝てはいませんとも……私はただ目を閉じ、黙って神に祈りを捧げていただけです。」
わかりやすい冗談を言ったイザークは、実際は寝ていたという事を隠す気がないようだ。
普段なら嫌みめいた小言の一つでも差し上げるところだが、エルフリーデはただ「そう」と返した。
彼が寝不足なのは遅くまで教会にいるからだ。
夜中に教会の明かりを見た翌日、エルフリーデは令嬢達からそれとなく最近の様子を聞き取っていた。
エルフリーデにとっては意外な事に、イザークに心を救われる生徒は少なくないらしい。
これまでも教会には神父とシスターが常駐していたが、やはりメルツァー公爵家は別格だと涙を流す者すらいたそうだ。
普段より教会を訪れる生徒が増えているらしく、単に今までは行く気になれなかっただけの者も、イザーク自身が目当ての者もいるだろう。
時間が遅くなろうと、それらにきちんと対応しているのだ。
そんな彼が人知れず休息を取っていたならば、責められるものではない――とはいえ。エルフリーデはちらり、彼の後方を見やってみせる。
「せめて護衛くらい、連れた方が良いのではなくて?」
「おや、私を心配してくださるのですか。」
「…メルツァー公爵家の安泰は、国にとって大事なことですから。」
楽しそうな声色に「勘違いなさらないで」と言いたくもなるが、生憎とエルフリーデとて少し疲れているのだ。
事実をぴしゃりと言いつけて、エルフリーデは本を片付けようとテーブルに目を向けた。
「エルフリーデ嬢」
彼への印象にはなかった静かな声に驚いて、考える間もなくそちらを見てしまう。
眼鏡の奥で、穏やかな瑠璃色の瞳がエルフリーデを見つめていた。咄嗟に困惑を隠したエルフリーデの表情が僅かに強張る。
そんな眼差しは知らない。
「少しだけ、私と話でもいかがですか。」
緊張を察したように自然に目を離して、イザークはエルフリーデの向かいから一つ隣の椅子を引いた。どうしてかそれをテーブルと平行に置いて座る。
エルフリーデからはイザークの横顔が見えても、彼は振り返らないと見えない位置だ。
言葉を返すことはできずに、エルフリーデは置きっぱなしの本の前、使っていた席に座り直した。普段の気力さえあれば、「気遣いなどいりません」と言って、イザークの視界に入る席へ移動してもよかったのに。
了承する声が聞こえなくても、立ち去らない足音が、衣擦れの音が、椅子に座る物音が答えとなる。イザークが僅か眉尻を下げた事に、自分の手元を見ていたエルフリーデは気付かなかった。
とん、と音がする。
エルフリーデから背表紙が見えるように、イザークがテーブルに一冊の本を載せたのだ。彼はその上に片手を置いた。
「神に誓って、ここでの話は他言しません。」
聖書に手を置いて神に誓った事は、メルツァー公爵家にとって非常に重い意味を持つ。その程度、この国の貴族には常識だった。
イザークに見られていないとわかっているからこそ、エルフリーデは小さく唇の裏を噛む。
――…メルツァーには、迷う者を見極める目でもついているのかしら。
「…わたくしには、話など……。」
「近頃少し、お辛そうに見えました。貴女が誇りを重んじる淑女だとはわかっていますが……もし胸につかえる事や、重苦しく感じる事があるのなら。」
――貴方など…メルツァーに生まれながら随分軽薄な男だと、思っていたのに。
「誰にも言えず抱えている、行き場の無い重荷があるのなら……神のみぞ知る今ここで、少しでも下ろしていかれませんか。」
それは間違いなくイザークの声であるのに、普段の彼のような軽い明るさがなかった。
物音ひとつ無い図書室は教会の如く静かで、落ち着いた低い声は耳に心地よく、心にまで沁み込んでいくようだ。
慈悲深きメルツァーは神の信奉者であり、惑う人々に方向を示す道標である。
「……わたくしには、幼い頃から思い描く未来がありました。」
あのメルツァーが神に誓ったのだからと、エルフリーデは心の中で言い訳をした。
決して、イザークに心を許したわけではないと。
「そのために努力してきましたわ。ずっと…ずっと。わたくしはこうなるのだと決めた未来があった。目指したものを勝ち取って、誇らしいわたくしの姿を見てほしい人がいた」
膝の上で手を握り、こみ上げる感情に声が震えないよう気を付ける。
もし気付かれるならばせめて、涙ではなく怒りを。情けなく縮こまる女ではなく、誇り高く毅然とした淑女として。
「ですがどうやら、そんな未来は来ないのです。あの人はもういなくなってしまいました」
エルフリーデの言葉の真相など、イザークにはわからないだろう。
親族か、恩師か、想い人か、彼女のもとを去ったのか、亡くなったのか。エルフリーデは、どうとでもとれる話し方を選んでいる。
「……だからと言って、全てを諦めたら…わたくしは過去の自分も、かつて居たあの人をも裏切る事になります」
アイレンベルクの娘として、強く、誇り高く。
そう考えながらもエルフリーデは、少しずつ足元が沈んでいくような心地から抜け出せない。
――だって、諦めなかったとして、何が得られるというの?
庭で出会った男の子を失った今、彼と道が別れてしまった今。エルフリーデに選べる道といえば、ただ「王妃」を目指す事くらいだろう。
他に目指していたものなどないのだから。
「…けれど、家の義務を果たしたところで……あまりにも」
虚しい。
その一言を口にする事はできなかった。取り繕う必要のない表情は抜け落ちて、碧の瞳は暗く、誰もいない向かいの椅子を映している。
「――本当に、真面目な方ですね。」
エルフリーデと関わった事などさしてないくせに、イザークの声には実感が伴っていた。
貴方に何がわかるのと思いながら見やったエルフリーデの事を、彼は振り返らない。今この話の間、彼女の顔を見ないという言外の約束を守っている。
「人は逃げていいし、立ち止まっていいものでしょう。たとえそこに義務があろうと、心を殺すくらいなら。」
「……わたくしはアイレンベルクの娘です。」
「それ以前に、貴女は人です。道というものは進むばかりが正解ではなく、神は、懸命に生きる人が迷う事も、逃げる事も禁じていない。…無論、誰かの手を借りる事もね。」
イザークは自分の方を見ていないのに、エルフリーデはその微笑みが正しく自分一人へ向けられたものだと理解した。
その温かな声も、気遣う言葉も。
「もう少し、心を楽にして過ごす時間も必要では?気が進まない時は、無理にそちらへ行くべきではないのかもしれません。」
「怠惰は悪です。……貴方と一緒にしないでくださいな。」
ここで寝ていた事を責めるべきではないと考えたはずなのに、エルフリーデは反抗心からついそう口走ってしまった。子供のように愚かだと恥じて頬が赤くなる。
イザークは必要な仮眠を取っただけで、それを怠惰と罵るのは浅はかだ。彼は気分を害した風でもなく、嫌みのないからりとした笑い方をする。
「はは、貴女にとって私は怠惰ですか。」
「…今のは」
「構いませんよ、エルフリーデ嬢。」
失言だったという謝罪をさせる事なく、イザークの声は穏やかなままだ。
エルフリーデを偉そうだと嫌がるでもなければ、恐ろしいと萎縮するでもない。所詮は女と侮る事も、弱気になった事を嘲笑うでもなく。
彼はただ当たり前のようにエルフリーデを受け入れている。
きっとそれが、神に仕えるメルツァーの在り方なのだろう。
「疲れたと感じる事があれば、どうぞ気軽に教会へいらしてください。人目を避けたければ裏手にも入口がありますし……休み方がわからない時は、私が怠惰をお教えしましょう。」
今すぐ答えを出す事はないと言って、イザークが聖書を手に立ち上がる。
ここで立ち去られては弱い人間だと認める事になると、エルフリーデも腰を上げた。
「イザーク様」
きちんと、いつものように凛とした声が出る。
それが許可である事が伝わったのだろう、イザークはゆっくりとエルフリーデに向き直った。瑠璃色の瞳と目が合う。
「…お気遣い頂き、ありがとうございました。ですが実際のところ、何も問題はありませんので。教会へ伺う事はありませんわ」
この男を頼るようになれば、自分は弱くなる。
エルフリーデにはそんな確信があった。心の内を吐露するなど、アイレンベルクの娘が容易くしていい事ではない。
気丈に振舞うエルフリーデに、イザークはふと微笑んだ。
「では、貴女のもとに私が伺いましょうか。天使の翼でも借りて」
「…貴方のような人に、翼は似合いませんわ。」
エルフリーデは少しばかり眉を顰めてそう言ったが、彼は「これは手厳しい」と笑うだけだ。
そしてどういうわけか、椅子を戻したイザークはすたすたと窓へ向かう。
意味がわからない。
瞬いたエルフリーデが見つめる先で、さっとカーテンを開けた彼は窓の鍵も開けた。開かれたガラス窓から風が吹き込む。
「ではエルフリーデ嬢――」
「ま、待ってください。何をしているのですか貴方は?」
ここは三階だ。
額縁にひょいと上がったイザークを危ないと止めるべきか近付かないべきか、エルフリーデは彼女らしからぬ焦った様子で半端にそちらへ駆け寄った。
風に揺れるシルバーブロンドが夕日に照らされている。
目をまん丸にしたエルフリーデを意外そうに見下ろし、イザークは「ふはっ」と笑った。
「危ないでしょう、落ちたらただで済みませんし…も、戻ってください!なぜ、どういうつもり――」
「しーっ。」
先程までの穏やかな神父顔はどこへやら、唇の前に人差し指をかざしたイザークはまるで悪戯っ子のようだ。楽しそうに目を細め、彼は「大丈夫ですよ」と言う。
「そこの木を下りればすぐ教会なので。これはただの近道です」
「はい……?」
「…っふ、ふふ。」
何が可笑しいのか、イザークは堪えきれないというように歯を見せて笑っている。
そうしてなぜか、ひどく優しい目をして手を差し伸べた。
「お嫌でなければ、貴女をお連れしましょうか。」
返事をするまでもなく、エルフリーデは一歩後ずさっていた。今その手を掴んだら、助けを求めて縋る弱者のように見える気がしたのだ。
イザークはあっさりと手を引っ込める。
「――冗談です。それでは、また。」
エルフリーデの返事を待たず、彼は軽やかに姿を消した。外からは木の枝葉が揺れる音がする。
そろりと、聞こえやしないのに足音を忍ばせて、エルフリーデはそっと窓から外を見下ろした。先程までここにいた男が、何事もなかったかのように堂々と歩いている。着地は無事に済んだらしい。
ほっと息をついて、エルフリーデは崩れ落ちそうな脱力感を堪えて一歩、二歩と窓から離れた。手は勝手に胸元の服を握っている。
神に仕える者として人に語っておきながら、なんて突拍子もない事をする男なのか。
「……やはり、貴方に翼は要りませんわね」
呟いた声が静寂に消えていく。
翼など借りなくても、彼はきっとその足でどこへでも行けるのだろう。
それは自分には無い強さだ。
少しの間、エルフリーデはカーテンが揺れる窓を見つめていた。




