38.殿下と別れてとある午後
アイレンベルク公爵邸。
僅かな汚れも許されない白壁に、曇りなく磨かれた調度品。使用人は全員が伯爵家以上の出身であり、たとえ客人が平民まがいの無作法を働いても眉一つ動かさない。
窓から見える花壇には配色まで徹底して整えられた花々が咲き誇り、ティーテーブルに敷かれたクロスは新品同然の眩い白。
青空に白い雲が浮かぶとある休日の午後のこと、アイレンベルク公爵邸の応接室には五人の令嬢が揃っていた。
彼女達は穏やかに――ただし、一人だけはぎくしゃくと――、招待や出席への感謝を交わしている。
「それでは皆様どうぞ、お座りくださいな。」
茶会の主催であるエルフリーデは、優雅に微笑んで他の四人に着席を促した。
艶やかな金の長髪を上品に結い上げ、きらりと光る瞳は碧。次期王妃の筆頭候補とされる公爵令嬢だ。
「ありがとうございます。エルフリーデ様」
――我が家のそれと違って、椅子やテーブルに仕掛けはなさそうですね。毒の匂いもしません。
癖のない黒の長髪に赤紫の瞳。
円卓においてエルフリーデの右側を選んだのは、第三王子ディートリヒの婚約者ユリア・シュミット侯爵令嬢。
彼女の視線も動きも至って自然で、その身に幾つ暗器を仕込んでいるかなど周囲に一切気付かせない。
「ふふ、もう良い香りがしていますね。お腹が空いてきました」
ほんわりとそう言ったのはダニエラ・ラングハイム侯爵令嬢。
代々頑強な身体を持って生まれる血筋に違わず、この中の誰より背が高く頼もしかった。常に高い位置で一つに結っている金の長髪に、今日は花飾りを添えている。
彼女はエルフリーデの左側を選び、椅子を壊さないようそっと腰かけた。
「よ、よろしきゅお願いしまぅ……っ」
舌を噛んだらしいリリアン・カルク伯爵令嬢は痛そうに眉を顰め、くっと唇を閉じて耐えている。
ピンクブロンドの髪に挿した飾りも、身に纏うドレスも首飾りも新品だ。
弟妹が多くお金のない彼女は、サイズの合わない中古のドレスで公爵家に行くよりは、エルフリーデが「誰からの贈り物か」知らない事に賭けていた。
さっそく失敗したと落ち込んだ様子でユリアの隣に腰かける。
「失礼致します。」
落ち着きのある、しかしはっきりと通る声で、ヴィルマ・フューラー伯爵令嬢も席に着く。
ニクラス・レヴィン伯爵令息の婚約者である彼女は、今日もキャロットオレンジのボブヘアを耳にかけ、左のサイドだけ三つ編みにして後ろへ流している。それを留めるヘアクリップは勿論、ニクラスが贈ったものだ。
全員の着席を確認して、エルフリーデも自分の席に座る。
公爵家の侍女達が流れるような動きでティーポットを手にし、それぞれのティーカップに注いだ。ふわり、湯気と共に上品な香りが漂う。
「ダニエラ様やヴィルマ様とはよくお会いしますが、ユリア様とは以前ご挨拶をした程度ですものね。今日は色々とお話できたら嬉しいわ」
「わたくしにできる話であれば、何なりと。」
「ふふ、リリアン様も。」
「ハイッ!」
跳び上がる小動物のように肩を跳ねさせ、激しく瞬きしながらリリアンが返事する。
茶会に誘われてなお、エルフリーデに名を呼ばれる心の準備はできていなかったらしい。
「ここ数か月、第二王子殿下ととても懇意にされていたでしょう?」
「いえその、そんなことは」
「今日はぜひ楽しんでいかれてね。」
「はい……。」
縮まったリリアンは今にも消え入りそうな声だが、ダニエラは小動物の集まりでも見るようにニコニコと皆を眺めている。
紅茶を一口含み、ユリアは淑女の微笑みを浮かべたままそれを飲み下す。思った通りの味がした。
――やはりブライトナー領の茶葉、それも高地の加工場で作られた物ですね。クセがなく渋味も弱いので、毒を仕込むには向いていない。
事前に得た情報では、普段エルフリーデが好むのはもう少し渋みがあり、ほのかにマスカットのような甘い香りがする茶葉だ。
客人が好みで飲み方を変えられるよう、テーブルにはミルクもレモンも用意されている。
「…デルプフェルト領のドムス大橋は、このところ不穏な話を聞かなくなりましたわね。」
ヴィルマはそう切り出してエルフリーデに目を向けた。
ドムス大橋はブライトナー領を含む南方の一部地域にとって流通の要だが、一時期は他国の傭兵崩れが居着いてしまい、通るには護衛が必須となっていた場所だ。
エルフリーデはヴィルマと目を合わせてゆるりと頷く。
「ええ、どうやら手引きしていた不届き者も捕えたそうで。ようやく収拾がつきそうだと兄が言っておりましたわ。ダニエラ様の父君にも礼をしなければと」
「まぁ……光栄ですけれど、父の仕事も的確な指令あってこそですから。今こうして私達が楽しめているだけで、父は充分満足しているかと思います。」
「謙虚ですのね。…ユリア様はいかが?」
「美味しく頂いております。隣のノイチュ産も好んでいますが、こちらは色々な飲み方が楽しめますね。」
ユリアがエルフリーデに微笑んでからリリアンを見やると、彼女はこくこくと頷いて紅茶を飲んだ。ノイチュ領はブライトナー領のすぐ東に位置している。
エルフリーデがくすりと笑う。
「気に入ってくださったようで嬉しいわ。どうぞお好きなように、食事も楽しんでくださいね。」
ダニエラが嬉しそうに「はい」と返し、頷くヴィルマは少し緊張が解けた様子で肩の力を抜いた。ユリアは「ありがとうございます」と微笑み、リリアンはぱちぱちと瞬いた。
――…食べていい、のよね?
ケーキスタンドにそろりと手を伸ばしながら、四人の顔を見回す。
唐突に治安の話を始めたヴィルマに対し「やっぱり真面目な方だなぁ」と、急に紅茶の話をしたユリアに対し「やっぱり不思議な方だなぁ」と考えた。
一段目に載っていた小ぶりのサンドイッチを手に取り、両手に持ってぱくりとかじる。
間近で見るエルフリーデは一分の隙も無い完璧令嬢といった風で、ダニエラは圧倒的な包容力で場の空気を和らげていた。
――四人ともすごく落ち着いてるし、なんていうか、そう。私とは品格が違うって感じ。
『信じられないわ。あんな無作法な子を選ぶなんて』
『これまで優勢だったのに、第二王子派はもう終わりでしょうね。』
学園でひそひそと聞こえていた陰口を思い出し、リリアンは少し目を伏せた。パンと野菜に挟まれたスモークサーモンが味わい深くておいしい。
旅立った彼は今、無事なのだろうか。
そのナントカ大橋のように、危ない人に遭ってはいないか。考えてもわからない事だ。
今できるのは、この茶会でせめて失敗を重ねないこと。
リリアンは背筋を伸ばし、失礼にならない程度に四人の作法を見ておこうと決めて、サンドイッチの横に置かれたシーフードキッシュへと手を伸ばした。
「そういえば、リリアン様にお聞きしたい事があったのだけれど」
歓談の最中、不意にエルフリーデがそう言ってリリアンは心臓が止まるかと思った。
ひいと叫ばなかったのは、ちょうどスコーンを飲み下したところだったからだ。咳き込みかけたが辛うじて「はい」と掠れた声を絞り出し、身体をエルフリーデの方へ向けながら紅茶を喉へ流した。
「第二王子殿下と親しくなった、きっかけのような事はあったのかしら。」
「き、きききっかけ、ですか。」
「…私も気になっておりましたわ。お二人に目立った接触はなかったと聞いたものですから。」
ヴィルマまでもがリリアンをじっと見て、ダニエラは片頬に手をあてて「あらあら」と楽しそうにしている。
リリアンは助けを求めてユリアを見たが、こくりと頷かれた意味がわからない。
じわじわと額に滲む汗もそのままに声を絞り出した。
「その、正直に言……申し上げれば。わ、私には全然覚えがなくて」
一瞬。
ほんの僅かだけエルフリーデの顔から笑みが消えかけた事に、ユリアだけは気が付いた。ヴィルマやダニエラはリリアンを見ている。
「どうして私の…事を、気にかけてくださるのか、全然……。」
「そう……まぁ、そういう事もあるのでしょうね。」
「すみません…」
「フフ、謝らなくてもよくてよ。」
「すみまっ……!」
なんとか唇を閉じたリリアンを、ヴィルマは若干呆れつつも心配そうに、ダニエラは仔リスでも眺めるように微笑ましく見ている。
リリアン・カルクが第二王子エドゥアルトと会ったのは学園に来てからが初めてだ。
そんな事は知っているのに、エルフリーデは口走ってしまった。
「――実は、幼い頃に会っていたとか?」
「私が、王子殿下とですか?ないです、ないない…!」
「まぁ!幼い頃にお会いした殿方と再会なんて、なんだか素敵ですね…!乙女心がくすぐられます。」
ダニエラが胸元で両の拳をギチリと握り締める。胡桃を持っていたら見事に殻を割っているだろう握力だ。
小さく咳払いしたヴィルマが、「リリアン様の件は別としても」と前置きする。
「幼少期、再会を誓って離れ離れになる……小説や歌劇でも見かける展開ですわね。きっとまた二人で遊ぼう、そう約束した親友に会うために戦っていたのに…まさか…まさか、彼の正体が敵国の」
「ヴィルマ様」
物語の世界に入りかけた所でエルフリーデが声をかけ、ヴィルマはハッとして居住まいを正した。キャロットオレンジの髪をさらりと耳にかけ直す。
「っ……失礼致しましたわ。私とした事が、先の展開を。」
せめて小説の題名は伏せますと言い、ヴィルマは心を落ち着けるためにティーカップへと手を伸ばした。
その横のリリアンは続きを言ってほしそうな顔だったが、ユリアは気にせず口を開く。
「何にせよ、再会できたのは良いことですね。」
「…ですが」
エルフリーデはぽつりと呟き、自分は今笑えていると確認しながら続けた。
「再会したとて……もし片方が約束を忘れていたら、それほど虚しい事もないですわね。」
知っている誰かの話か、あるいはエルフリーデ自身に覚えがあるのか。
そんな事は何もわからないけれど、リリアンの脳裏には遠ざかっていく馬車が浮かんだ。自然と眉が下がり、おずおずと聞き返す。
「片方って……女の子は覚えてるのに、男の子は忘れちゃったって事ですか?」
「…何も男女に限りませんけれど、ええ。」
「そんな殿方は放っておけば良いと思いますわ。約束を覚えている健気な女性には、もっと相応しい男性がいるはずですもの。」
どんな物語を思い出してか、ヴィルマが熱のこもった声で言う。
黙ってミルクジャムをスコーンに塗りながら、ユリアは苦笑するエルフリーデを見ていた。リリアンの声は沈んでいる。
「忘れられちゃった女の子は、つらいですよね。…すぐには、気持ちの切り替えができなさそう。」
「――……でも、片方しか覚えていないのでは」
唇を笑みの形にしたまま、エルフリーデは全てを否定する言葉を吐いた。
「最初から、約束などなかったも同然ではなくて?」
「それは違います」
ユリアがきっぱりと言い切る。
断言した彼女に視線が集まり、瞬いたエルフリーデはきちりと淑女の微笑みを浮かべた。
「一人しか覚えていないなら、幻や妄想と変わらないと思うけれど。」
「いいえ。一人でも記憶があるのなら、思い出も約束も、確かにそこにあったのです。殿方が覚えていないなら、こちらが会いに行けばいいだけのこと。」
「…会ってどうするのです。相手が思い出さないなら、惨めなだけでは?」
「幼い頃であろうと、自身で決めた事ならば。それを貫く姿の何が惨めでしょう」
碧の瞳が何を諦めているのか、ユリアにはわからない。
赤紫の瞳が何をそこまで信じているのか、エルフリーデにはわからなかった。
「そうね、ユリア様が言う通りかも。」
話に夢中になっているのか、敬語が抜け落ちたリリアンが呟く。
エルフリーデはあまり聞く気もなさそうにちらと彼女を見やった。普段の怯えはどこへやら、リリアンは純粋な眼差しでエルフリーデを見る。
「会いに行って、こんな人もういい!って思ったら、切り替えられるかもしれないし。人って変わるから、昔は良い人でも今は微妙だったりするかもですし!!」
「リリアン様。わたくしが言ったのはそういう意味では――」
むっと眉を顰めたユリアが言いかけたが、ぱちりと、否、パァンと破裂音を響かせて両手を合わせたダニエラによって、全員が口を閉じてそちらを見た。
何かこみ上げるものがあったのか、くぅ、と耐えるように閉じていたダニエラの目が開く。四人の視線を一身に受けていると気付き、彼女はハッとして力を抜いた。
「あら、ごめんなさい。皆様がお可愛らしくて、つい。」
「こほん。…今の話、ダニエラ様はどう思われますか?色々と意見が出ていましたが。」
大きな音に驚いた直後ではあったが、ヴィルマはどきどきしている心臓を誤魔化すようにそう促した。ダニエラが「そうですねぇ」と首を傾ける。
「人と人が出会い、共にいるとして……その形は様々なものですから。同じ隊の騎士はもちろん、本陣で構える指揮官や、王城で私達の帰還を待つ陛下とも、共にいる。ラングハイムはそういう考えの家です」
ダニエラのケーキスタンドは既に、一段目と二段目が綺麗に片付いていた。
三段目には季節のフルーツのプチタルト、甘さ控えめのチョコレートケーキ、爽やかなレモンが香るフィナンシェが並んでいる。
話しながらどれがよいかと悩み、ダニエラはまずタルトだけを手元の皿へ移した。
「隣にいようともいなくとも、約束があろうとなかろうと。自分がどこにいたいか、どなたと共にありたいか……それさえわかっていれば、剣がぶれる事も、盾が割れる事もないものです。」
ユリアが頷き、リリアンはわかったようなわからないような顔をしている。
ヴィルマは婚約者の顔をちらと思い浮かべた。ずっと一緒にいる自分達は、そういった離別と再会の物語とは別の道にいる。ヴィルマの視線が移った先、エルフリーデは変わらぬ美しさで微笑んでいた。
「その揺るぎない心……流石は、国の守護に貢献してきたラングハイム侯爵家ですわね。」
「うふふ、ありがとうございます。」
「……あの、ヴィルマ様。ちなみに、さっきのお話はどうなるんですか?親友の…」
「あらリリアン様、ご興味が?ご自分で読まれた方がいいですわよ。シリーズ全五十二冊を」
買わずとも図書室にありますと言われ、リリアンは儚い微笑みを返した。無理だ。
そんな心を読んでか読まずか、ヴィルマは紅茶で喉を潤してから再び口を開く。
「詳細は省きますが……巡り巡る人の生において、二人はどう生まれようとも必ず出会い、必ず再会の約束をするのですわ。何があろうと、自然に惹かれ合う。一つの命を終えるまでに、絶対的に存在するもの。」
なんて、違うものだろうとエルフリーデは思った。
ディートリヒにとって、エルフリーデにとって、互いはそのように美しいものではなかった。
そして特別なものでもなかった、少なくともディートリヒにとっては。
忘れ、忘れられ、道は別れている。
――…そんな終わりなら、いっそ、最初から無ければよかったのに。
ため息をつきたい思いを堪え、エルフリーデは微笑んだ。
彼女は完璧な淑女でなければならない。自信を、余裕を、持っていなければ。
自分とは何の関係もない「架空のお話」を楽しむように、軽やかな声で。
「必ず出会い、必ず惹かれる……もしそのような二人がいるのなら、それを《運命》と呼ぶのでしょうね。」
ヴィルマが「まさしくその通りで」と頷き、リリアンはフィナンシェを口に詰めたところで何も言えず、ダニエラが「まぁ」と微笑んで頬に手をあてる。
瞬いたユリアは手にしたティーカップに目を落とし、紅茶に映る自身を見つめていた。




