37.殿下優先に決まってます
「うわっ!」
そんな声が隣室から聞こえた直後、ディートリヒは隣に座っていたユリアに抱きしめられ押し倒された。バキンと金属を突き破る大きな音と、リリアンの悲鳴が聞こえてくる。
「…ゆ、ユリア」
「少々お待ちください。あれは稀に二度目が――」
ユリアが言い切るより先に、先程よりは小規模なのだろう、パキンという音がした。
ディートリヒの頭を胸に埋めるようにして抱いていたユリアは、ついでにもう一度きゅっと力を込め、銀髪にこっそり口付けてから体を離す。解放されたディートリヒは手で顔を覆い、よろよろと座り直した。
「…あの、私を守るという君の主義は、否定しないんだが……その、助け方というか」
「叱って参りますので、殿下はこちらにいらしてくださいね。」
「はい。」
両手で顔を押さえて俯いた婚約者を置いて、すっくと立ち上がったユリアは開いたままの扉から隣室へ足を踏み入れる。
広い研究室の中、複数ある流し台の一つを突き破って氷柱が幾つも伸びている。装飾のように少し小ぶりに生えているのが二度目に鳴った音の原因だろう。
リリアンは言いつけ通り離れて見ていたらしく、部屋の奥で口をぱっかり開けて壁に張り付いていた。
ユリアは全ての元凶であろう、床にひっくり返っていた痩せぎすの男をじろりと見下ろす。彼はゴロンと転がって身を起こし、ボサボサの茶色い短髪を掻いて笑った。
「あ~びっくりした。リリアンさんはご無事ですかぁ?」
「ひっ、あ……私は、大丈夫だけど!」
「いや~失礼。すみませんでしたあ、ワタクシとした事がうっかり――」
「コーリの実を水中に落としたのですね?気を付けなさいと何度言えばよろしいのでしょう。そのアタマを刈り上げて頭皮に直接刻んだ方が良いのでしょうか」
倒れた丸椅子の脚に器用に乗り、ユリアは男の胸倉を掴み上げて宙吊りにしている。男が「アーッ!」と悲鳴を上げてもがいても微動だにしない。
壁に張り付いていたリリアンが慌てて駆け寄ってきた。
「わぁあっ!ユリア様、落ち着いて落ち着いて!殿下、殿下ーっ!」
「ユリア、下ろしてやってくれ。」
何が起きているか大体察したディートリヒが、ソファに座ったまま声をかける。
「…殿下が、そう仰るのでしたら。」
床に足がつくようにユリアが手を離してやると、男は「ありがとうございますぅ」と胡散臭く揉み手をした。
キツネのように細い目と、人を騙すのが生業かのような信用ならない笑顔。
コンラート・バーデン。
ディートリヒの依頼でエドゥアルトの部下アイスラーが連れて来た、ヴァイゼンボルン子爵領出身の薬師である。
唐突に出資を申し出た王子達に対し、「どこで自分を知ったか」などと聞く事もなく、ただ「ありがたいです~」と軽く受けた危うい男だ。
ディートリヒが知る未来では風呂嫌いで髪ももっとモサモサと伸びていたが、どうやら道中でアイスラーが叩き直し切り刻んできたらしい。バーデンを連れて旅する苦労を察し、ディートリヒは彼に礼の品を包んだものだ。
「バーデンさん、気を付けなきゃ駄目よ!すぐ散らかすし考え事しながら歩くし、見てて本当にヒヤヒヤするったら!」
「わかってはいるんですけどねぇ~。……忘れるんですよね。」
「死んじゃうわよそんなんじゃいつかっ!」
危険な薬品だって扱うのだからと、リリアンが懸命に叱っている。
彼女はユリアとディートリヒの一つ年上であり、生まれつきのピンクブロンドに、庇護欲をそそる愛らしい顔立ちをしていた。
生家のカルク伯爵家が貧乏で、きちんとした淑女教育を受けていない状態でさえなければ。第二王子エドゥアルトに求められた瞬間、皆が祝福していた事だろう。
「ああもう、また流し台が壊れちゃって。」
リリアンが苦い顔で氷柱の突き出たそれを見つめる。
まずは氷を切るか砕くか溶かすかして除去し、後は側面にできた大穴をどうするかだ。裂けた金属板がめくれあがり、まるで氷の蕾に添えられた萼のようだ。
目を細めたユリアにバーデンがハッとし、すたすたと歩き出した彼女を慌てて追いかける。
「殿下。今回はもう経費ではなくバーデンに請求致しましょう」
「わわわ、すみませんすみませんっ!い、幾らでしたっけこれぇ!」
「殿下、ユリア様!なんか粉とか薬草まで、氷に巻き込まれてダメになっちゃってます!」
「修理にするか交換にするかは別として、事故の責任が彼にあるのは間違いないかと。」
「ワタクシのせいではあるんですけど、そこはあの!新たな薬も完成目前ですし、そちらの売上とかを期待して頂きたくてっ!ワタクシ今手持ちが!材料に使っちゃって…」
「バーデンさんまた手持ちから出したの!?それ先に申請書いるってこの前殿下が――」
各自の声が重なり、まるで騒音のようである。
淑やかに、あるいはドタバタと入室してきた三人を見て、ディートリヒは頷いた。三人が一斉に口を閉じる。
「ユリア、先日の業者に見積依頼の連絡を。できれば今日見に来て欲しいと」
「承知しました。」
「バーデン、立て替えた分の金はすぐには出してやれない、まず購入申請だ。特に、目的が不適当であれば銅貨一枚すら出ないから、理由書は資料付きで丁寧にな。」
「ハイ……。」
「君は一緒に駄目になったものを確認、バーデンに聞きながら、購入時の金額も含めてリスト化してくれ。」
「はいっ!」
リリアンが涙目のバーデンを部屋に引っ張り戻し、ユリアは早馬に預ける書類をしたためる。
ディートリヒは先程から読んでいた新薬の治験結果に視線を戻し、未来と同じ患者を救えている事実に安堵した。
――全員、三年後より症状が進んでない状態から始まったんだ。当然の結果ではあるが……本当によかった。
この実績をもって、バーデンは新進気鋭の薬師として一定の注目を浴びている。
しかし本人がコレなので、外部からの面会依頼などに一人で出す事は決してなかった。下手をするとまだ開発中の薬の情報を喋ったり、うっかりで失礼な対応をしてディートリヒの名を貶めかねない。
バーデンの研究室は常に騎士が入口を守っているので、リリアンは放課後ディートリヒ達か、あるいはニクラス達と共にここへ滞在する事が多かった。
彼女を守るよう兄に頼まれたディートリヒとしても、バーデンとリリアンが同じ場所に居てくれるのはありがたい。
「誰か来ます。」
不意に顔を上げたユリアがそう呟く。
数秒遅れてディートリヒにも足音が聞こえたかどうかという時点で、彼女は警戒を解いた。ディートリヒの頭に浮かんだ予想はニクラスだったが、それにしては足音が大きい。
「失礼しました。ダニエラ様です」
ユリアが言い切った瞬間、廊下から「ご苦労様ですっ!」と騎士に挨拶する声が聞こえた。
ノックの音にディートリヒが答えると、扉がバキャッと音を立てて開かれる。
「皆様、ご機嫌よう!」
きらきらとした笑顔を振りまき、百八十センチ近い背丈の令嬢が入ってきた。
ウェーブがかった長い金髪は高い位置でポニーテールにし、横髪は胸元でくるりと一回縦巻きになっている。しっかりとした骨格に充分過ぎる筋肉をつけ、まだまだ成長盛りの美しき乙女である。
ダニエラ・ラングハイム侯爵令嬢。
扉の取っ手を掴んだままぱちりと瞬いた彼女は、取っ手と一緒に持っている扉と、振り返った先で枠だけになった光景とを見て片頬に手をあてた。
背中には彼女が振り回すに相応しい長剣を、制服のスカートに隠れた太腿のベルトには室内用の短剣を備えている。
「あらあら、まぁ。角度を間違えてしまったかしら……御前で失礼致しました、殿下。」
「気にしないでくれ、とも言えない回数になってきたが。まぁ大丈夫だ。ユリア」
「はい。ダニエラ様、扉をここへ。蝶番とネジの予備は準備済みですので」
「ごめんなさいね、ユリア様。早くお知らせしたいあまり、力が入ってしまって…」
研究室の警備を務める騎士も慣れたもので、黙ってポーチから部品を取り出して作業を始めた。
ダニエラが破壊した物を直すと、きちんとラングハイム侯爵家から支払われた金が騎士団を通じて懐に入るのだ。
「リリアン様もこちらにおられると聞いて…」
「ご機嫌よう、ダニエラ様!」
声が聞こえていたのだろう、リリアンが隣室からひょこりと顔を出して花のように笑う。
ダニエラは「ご機嫌よう」と微笑み返し、拳をギチリと握り締めた。彼女は可愛いものを羽交い絞めにしたい時、そうして耐えるクセがある。
ディートリヒが戻って以来、なかなかどうしてダニエラと話す機会はなかった。
しかしエドゥアルトが旅立つ日に偶然、早朝の走り込み中だったらしい彼女に会う事ができたのだ。リリアンを守る必要があると聞き、ダニエラは快く協力を申し出た。
将来は騎士団への入団を約束されている彼女の伝手で、リリアンと同じ学年にいる騎士志望の生徒達が授業中も見守ってくれる事になっていた。
「それで、ダニエラ嬢。何かあったのか?」
「はい。先程エルフリーデ様から、茶会の招待状を頂いたのです。」
「彼女から?」
「ええ。ヴィルマ様には今しがたお渡しして、後はユリア様――そして、リリアン様に。」
「ひいっ!!わわわ私もッ!?」
驚きのあまりリリアンがガタガタと棚にぶつかりながら後ずさりし、ダニエラが不思議そうに首を傾げる。
かつては第二王子エドゥアルトの婚約者候補筆頭だった公爵令嬢エルフリーデから、今現在彼の寵愛を受けている貧乏伯爵令嬢、リリアンへ。
一対一ではない事がまだ救いだろうか、リリアンが震えあがるのも無理はなかった。
未来では決して起こらなかった事態に、ディートリヒが黙って眉根を寄せる。
――…特段、彼女やアイレンベルクに不利な事はしていないはずだが……私の動きを警戒しての事か、兄上の動向を知りたいのか…少なくとも情報収集が目的の
『畏れ多いので、お伝えしておりませんでしたが……わたくしも、殿下を弟のように思う事がありましたわ。』
そう言ったエルフリーデの微笑みを思い出し、ディートリヒは目を伏せた。
あの言葉に嘘は無いように見えたのだ。
――落ち着け。今の彼女は、私達に何もしていないだろう。
ローレンツを、エドゥアルトを、ディートリヒを殺そうとしたのは未来の彼女だ。今この瞬間のエルフリーデに何の罪があるだろうか。
下手に警戒し過ぎて敵対意思とみなされれば、それもまたディートリヒ達にとって危うい状況となるだろう。
――イザークは帰ってきたが、目立った接触はないと聞く。こちらもこちらで、エルフリーデの話は聞いておきた
「不参加でよろしいでしょうか。」
「ええええっ!!」
「まぁ。どうしてですの?」
そんな事が許されるのかといった具合にリリアンが叫び、ダニエラはきょとりと首を傾げた。ユリアは至極当然のように答える。
「わたくしにとって、殿下のお傍を離れずお守りする事が至上ですので。」
「うふふ、大切にされているのですね。殿下は愛されておいでだわ…」
「でででも、あ、アイレンベルク公爵令嬢の招待ですよ?ねっ、そうですよね、殿下?」
「そうだな。ユリア、私は大丈夫だから参加してくれないか。」
「!?しかし殿下」
「近頃は状況の変化が目まぐるしい。エルフリーデ嬢の様子も気になるし、君にお願いしたい。」
「くっ…」
女性同士でしかできない話もあるだろうとディートリヒが頷き、ユリアは究極の二択を迫られたような顔で「わかりました」と呟いた。
ダニエラがほわりと微笑み、胸の前で両手をパンと合わせる。突然の破裂音に驚いたのか、隣室でバーデンが転ぶ音がした。
「ご心配でしたら、殿下はその間騎士団の演習場にいらっしゃいませんか?その日は父が監督しますので、見学依頼も問題ありません。」
「騎士団の演習を?それはいいな。ついでに鍛えてもら」
「それはなりません!」
ユリアが目をカッと見開いて遮り、一瞬でディートリヒの手を取った。丸くなった青色の瞳をキッと見据える。
「殿下、見学だけならまだしも、それだけは。わかりました、前々からご依頼頂いていた件をお受け致しますから、お願いします。公衆の面前でそのようなお姿を見せる事だけは、お考え直しを……っ!」
「ダニエラ様。演習って、人前ではまずい何かが……?」
「さぁ。もしかしたら殿方には、私も知らないヒミツの特訓が……」
「あ、あられもない、ヒミツの特訓…」
「ユリア。ひどい誤解が生まれそうだから落ち着いてくれ」




