4.殿下、契約内容のご確認を。
気絶したリリアンは休憩室のソファに寝かされ、身体が冷えないようエドゥアルトの上着がかけられていた。
彼女にべったり寄り添うでもなく向かいのソファに座り、第二王子はグラスに少しだけワインを注ぐ。会場での浮かれた様子とは打って変わって静かな彼を見やり、護衛についた二人は戸惑いすら感じていた。
「……殿下」
「何だ」
「その…本気なのでしょうか。カルク伯爵令嬢の事は…」
「本気に決まってるだろ?俺はリリィと結婚する。王になれと言うなら彼女が王妃だ」
遠く、会場から拍手の音が聞こえてくる。
エドゥアルトは数秒の間目を閉じると、全て終えたかのようにグラスを傾けた。
会場にいた多くの貴族から祝福され、手を取り合ってダンスを披露する。
幸せの絶頂ですが何かという顔で挨拶も終え、ディートリヒはようやっと会場を後にした。
途端にじわりと汗を垂らし困惑に顔を顰め、連れ立ったままのユリアを控室へと引っ張り込む。
護衛は後に続こうとしたが、ディートリヒは小声で「彼女には急な話だったので改めて二人で話がしたい」と断った。
所構わずリリアンといちゃついていたエドゥアルトと違い、ディートリヒには信用がある。護衛達は頷いてくれた。
――これから、どうしようか。
扉を閉めて一秒、ディートリヒは困った顔で静止する。
こんなはずではなかった。
エドゥアルトとエルフリーデの婚約が発表され、ここ数年リリアン・カルクに夢中な兄にようやく手綱がつく。
その後の素行を見て改めて王太子が決定されるはずだったのに。
国王が決めたアイレンベルクとの婚約を蹴ったのだ。
エドゥアルトがそれを許されて王太子になれると思えないし、衆目の中で勝手に告白したディートリヒもまた、ただで祝福されるわけはない。
国王夫妻は急にやってきた来賓の対応で不参加だったが、もしいれば選択権は無かっただろう。
ディートリヒとて状況はわかっている。
惚れた女性の現状を知らぬままであれば、大人しく捕まって王太子にされていたはずだ。
――だが…知った以上、私は…
ずっと現実に背を向けているわけにもいかず、ディートリヒは振り返る。
目が合ったユリアは礼儀正しく微笑んで臣下の礼をした。
「この度はわたくしとご契約頂き、誠にありがとうございます。」
「はは…。」
笑顔はどうしても少し引きつってしまう。
やはり彼女はそういう認識なのだ。本気で求婚したのではなく、依頼人として「表向き婚約者として」傍にいてくれという意味だと。
――今のうちに訂正するべきか?だがそれでもし「依頼じゃないなら」と断られたら、彼女は他の男と…
「…座ってくれ。今後の事を話そう」
「はい、殿下。まずは契約内容のご確認ですね。」
「そうだな……。」
ディートリヒの深い青色の瞳がどこか遠くを見ている事に、うきうきしているユリアは気付かない。まずは自身の腕を知ってもらい、早く暗殺の依頼をもらえるよう善処したい構えである。
艶やかな黒髪をさらりと耳にかけ、ユリアは期待を込めてディートリヒを見上げた。
思惑を含んだ上目遣いとその仕草は攻撃力が高過ぎる。ディートリヒはグッと目を閉じ胸元のシャツを握りしめた。
彼女は早速「仕事」を依頼されると思ったかもしれないが、こちらは真面目な話がしたいのだ。邪念を押さえなければならない。
――可愛すぎる。これがプロのやり口という事か。
「殿下?」
「け、契約はするが、さしあたって今はまだ……まだ、仕事を頼む気はない。護衛でいい」
「承知致しました。お任せください」
少し得意げな声色に安心して目を開いた。
何年も遠目からちらりと見るばかりの片思いだった相手が、すぐ目の前で微笑んでいる。
今は誘惑しなくていいと伝えたのに、緩く口角を上げたユリアは天使と見紛うほど愛らしく輝いていた。
この美しい天使は不憫にも、父兄に指導されて男を悦ばせる術を学び、それを当然の仕事として受け入れている。悍ましい虐待に腸が煮えくり返りそうだ。
しかし契約した今は、自分が一言命じたら彼女はこちらに身を預けるという事実に喜びを感じる自分もいた。それは卑怯で下劣だと非難する自分もいた。
ディートリヒはつい無意識に唾を飲み、喉が鳴る。
不埒な命令をする気は無いけれど、望めば叶う今の状況はまるで劇薬のようだった。
現に先程、彼女の滑らかな手に口付けても許された。
あの時ディートリヒは心臓が破裂しそうな程に緊張していたのだが、ユリアは気付いていないだろう。
本当は今すぐ彼女を抱きしめ頬を撫で、桃色の唇を見つめて「こちらにもいいだろうか」と聞いてしまいたい。だがそんな事、理性が許さない。
仕事だから引き受けるのではなく、王子の命令に従うのではなく、ユリア個人の意思で受け入れてほしいのだ。
それに「契約したからっていきなりがっつき過ぎ」と引かれでもしたら、精神的ダメージが大きい。
ディートリヒは静かに向かいのソファへ腰かけた。まるで無垢な天使のように想い人が微笑んでいる。
「期間は本日より一年間。婚約者としてお傍に仕えながら、通常は護衛を、依頼があればお望みの殺り方で殿下をご満足させてみせます。」
「…ヤり方……とは」
聞いていいものなのだろうか。
いや、むしろ聞きたくない気もする。ディートリヒは「なんでもない」と言いかけたが、ユリアがさらりと答える方が早かった。
「即座に意識を飛ばしても良いですし」
「即座に意識を!?」
「簡単な事でございます。逆に拘束してじわじわと追い詰めるのがお好きであれば、そちらでも。」
「そ、そんな事私は…」
しないと言いきれる男でありたかったディートリヒの脳裏に、手首を縛られたユリアが白いシーツの上で瞳を潤ませる姿が思い浮かんでしまった。
薄いネグリジェでは身体のラインがはっきり出ていて、彼女は儚く眉尻を下げているのに、どこか期待を込めた眼差しをしている。
これはものすごく、「いけないこと」だ。
ディートリヒは心の中で「不埒!」と一喝して脳内の己を殴り飛ばした。
「薬を使う事もできますよ。」
「それは言わゆる…アレだろうか」
「種類が豊富ですから、いかようにも。眠っている間にという事も可能です」
「眠ってる間に!?」
意識のないユリアに無体を働けというのか。
そんな事をしたら、本人に引かれる心配もなく好き放題できてしまうではないか。
ディートリヒは頬が熱くなるのを感じながら首を横に振った。
「本人の合意なしにするのは…!」
「……本人の合意、でございますか。」
「ああ、いや…君は不要と教わっているのかもしれないが」
顔が赤くなるほど怒りを感じたらしいディートリヒを見つめ、ユリアは真面目に考えた。
合意の上での暗殺とは。
ディートリヒのこだわりとして、相手に負けを認めさせ、自分がこれから暗殺されるのだと理解させた上で…という流れがあるのかもしれない。
意外と嗜虐的だ。
あるいは、そうするべき悪にしか暗殺という手段は取らない、という事か。それならユリアの仕事が少なく、しばらく護衛でと頼まれたのも頷ける。
「では、基本そのように。契約金のお支払いですが、前金と報酬に分ける方が多く――」
ユリアはてきぱきと説明してくれたが、あまりに慣れた様子で話すのでディートリヒは少し心が荒んだ。
彼女はこれまで何人の仕事を受けたのだろうか。聞きたいが聞きたくない。
「…此度はエドゥアルト殿下の暴走が原因でしたが、あの方についてはいかがなさいますか?」
「兄上とはこの後直接話をしてみる。平行線を辿る気もするが…」
ディートリヒは難しい顔でくしゃりと銀髪を掻き上げた。
エドゥアルトがどういうつもりでいるのか、未だ底が見えない。悩む依頼主を見てユリアがそっと提案する。
「場合によっては、落とす事も可能ですが。」
「……何だって?君が兄上をオトす?」
「はい。」
「しなくていい」
何が悲しくて初恋の君に兄を誘惑させるのか。
ディートリヒは真顔で断った。
リリアンとユリアを両腕に侍らせた兄の姿など見たくもないし、そんな爛れた事情がもし公になれば、王家の信用はさらに落ちる。
「君は今や私のこっ…婚約者だ。どんな理由があろうと、兄上に差し出すことはない。」
ユリアは彼の言葉選びに少し違和感を覚えたが、「差し向ける」の言い違いであろうと思い、追及はしなかった。
「もちろん、わたくしがしたなどと露見しないように済ませますが。」
「そういう問題ではないんだ。兄上の奔放に困ってはいるが、君の手を借りる気はない。」
「畏まりました。」
兄を排除する気はないらしい。
ユリアは大人しく頷いて承知した。ディートリヒはやはり、暗殺という手段には慎重なのだろう。
――であればなおのこと、レヴィン様と話しておられた「裏稼業の者に頼みたいこと」……気になりますね。一体どなたがターゲットなのでしょう。
そうは言っていなかったのだが、ユリアは気付かない。
ディートリヒが頼んで来ないのも、まだ自分の腕が信用されていないからだと思っている。
「婚約のこと……侯爵達は反対するだろうか?」
「問題ないと存じます。婚約者という形は想定外でしたが、わたくしは殿下の依頼を受けたいと前々から伝えていたので。」
「…聞き違いでなければ…前から私と、その、」
「はい。生涯の主を決めるなら、一度はディートリヒ殿下の手腕を味わっておきたいと」
「……手腕……」
どういうつもりなのか、ユリアの意図を測りかねる。
なにせバルコニーで「閨の相手が殿下なら手加減しないと」と言われた身なのだ。
そうは言っていないのだが、ディートリヒは気付かない。
じわりと手汗をかき、ひとまず動揺を悟られまいと視線をユリアから外した。
――果たして私に、手練だという彼女を満足させる事が…
一瞬考えてしまい、ディートリヒは再度脳内の己を殴り飛ばした。
ユリアにその気があったとしても、紳士であるディートリヒは絶対に手を出さないのだ。
ただそれはそれとして、気になる事はある。
「私と…そういう契約をしても良いと、思った理由は聞いて良いだろうか。」
ソワソワする心を落ち着けて聞いたつもりだが、途端にバルコニーで「殿下を見ていたら体が疼いてしまいました」と言われた事を思い出し、かっと頬が熱くなる。
そうは言っていないのだが、ディートリヒはやはり気付かなかった。
妖艶な光を灯した赤紫の瞳と目が合う。
「お父様は陛下にお仕えしております。ゆえにわたくしも、貴い方に仕えてみたいと。」
「うん…?」
ユリアの父、シュミット侯爵は外交官だ。
国王が諸外国を訪問する際よく付き添っているのは確かだが、国王直属の部下というわけではない。
疑問符を浮かべたディートリヒにユリアは微笑んだ。
「父はこの仕事の師でございますから。」
「…ああ、君に教えたのは父兄だと言っていたな……、え?」
まさか?
いや、そんなはずはない。思考停止しかけたディートリヒに、ユリアは鈴のように軽やかな声で告げた。
「父は、生涯その身を捧げる契約を陛下と――」
「聞きたくなかった!!」




