36.どちらの殿下に仕えるか
二人の兄を差し置いて、第三王子ディートリヒの婚約が発表された。
笑って祝福の言葉を述べたその口で、人々は様々な憶測を交わす。
第二王子エドゥアルトはここ数ヶ月、貧乏伯爵令嬢に夢中らしい。陛下はこれを見限って第三王子の後ろ盾を固めたのでは?
回復の兆しが見えた第一王子、ローレンツ殿下の相手こそ先に決めるべきだったのではないか。
そもそもなぜシュミット侯爵家が出てきた?油断するな、長男はあの宰相の補佐だ。
問題は、アイレンベルクが誰につくか――…。
早朝の学園。
男子寮を出て騎士と共に校門前へ向かったエドゥアルトは、見えてきた光景につい苦笑した。
「なんだ。見送ってくれるのか」
異母弟ディートリヒとその婚約者は丁寧に一礼し、傍らに立つリリアンも一拍遅れて慌てて頭を下げた。
ピンクブロンドの髪が揺れ、直りきらなかったのだろう寝癖がぴょんと跳ねる。
顔を上げたリリアンは不安そうだった。エドゥアルトは「大丈夫だ」と言うように眼差しを和らげ、ディートリヒへと視線を移す。
「兄上…どうか、ご無事で。」
「ああ。シュミット侯爵令嬢、弟を頼む。」
「お任せくださいませ。」
「リリアン」
名を呼ぶと、リリアンははくりと唇を動かした。
声が出るより先に手を伸ばし、足を前に出して、迎えてくれたエドゥアルトの手に触れる。
「…エドゥアルト様。ほんとに行くんですか?」
「まぁな。」
「でも、危ないなら騎士団に任せたって…なにも貴方が…殿下が、行かれなくても。」
「今回はそうもいかないんだ。」
「何で……私と、その…あのっ、好きなだけ手を繋いだり、くっついたりしていいですから。だから」
「随分と魅力的な誘いだが」
行かないでと言われる前に、エドゥアルトは遮った。
大きな手でリリアンの頬に優しく触れ、普段見せる甘やかな笑みとは、違う笑い方をする。
「悪いな。お前の身の安全はこの二人に任せてあるから、安心してくれ」
「…私は、だって、最初から安全じゃないですか。学園にいるだけだもん」
「俺の留守を狙う奴は出るはずだ。」
「でも、エドゥアルト様の方が危な――…」
エドゥアルトがリリアンを見つめて顔を近づけ、その距離にリリアンは思わず閉口した。目も閉じた。
うっとりと身を委ねる――というより、頬を真っ赤にし、眉間に皺が寄るほど強く目を閉じて、肩を縮めて。
手が触れているのとは反対の頬にほんの一瞬、柔らかな感触がした。
反射的にぱっちりと開いた目には、身を離したエドゥアルトの微笑みが映る。
「俺を信じて待ってろ。リリアン」
「は…っ、ひゃい……」
寝癖の残った髪をふわりと撫でられながら、リリアンはそう返すのがやっとだった。
そんな二人から、数歩離れた位置で。
「……ユリア」
「はい」
「逆じゃないか?」
ディートリヒは心底不可解そうに言った。視界はユリアがかざした白いハンカチで覆われ、兄とその想い人の姿は見えていない。
「こう…私が、君にその。見るなというものでは。」
「いいえ。あのような事…殿下が見て万一真似をなさっては、わたくしが動けなくなる可能性がございます。」
「…そ、それほどの事を人前で……?」
「お子様達。勝手に人を破廉恥扱いするな」
エドゥアルトがリリアンから手を離すと、ユリアはようやくハンカチを下ろした。
ディートリヒは耳まで赤くなって俯くリリアンを見やり、平然としたエドゥアルトへ視線を移す。
「…兄上からすると、確かに私達は子供なのでしょうが。」
エドゥアルトには国王に即位し、失墜し、地方でリリアンと結婚し、子に恵まれるだけの年月を経た記憶があるのだ。
十七歳の時点から戻ったディートリヒより、精神年齢はさらに上である――とはいえ、今は。
「貴方がたもまだ十五歳ですよ。お忘れなく」
「忘れるかよ。随分と加減してるだろ」
「ま、まだ《上》があるって事…!?」
リリアンが悲鳴のような声を上げ、未来の妻と目が合ったエドゥアルトは楽しそうに笑う。
それを見守るディートリヒが眼差しを和らげ、ユリアは少しだけ待ってから「そろそろ時間でございます」と告げた。
そんな全ては、オペラグラスの向こう側。
別れを告げる弟達を、赤い瞳が眺めていた。
くすりと笑ったその人はゆるりと瞬き、窓に背を向ける。
かたりと置かれたオペラグラス。
こつりと靴音響かせて、第一王子ローレンツは生徒会室を歩く。休む事も多い彼だが、今日は調子が良いので登校していた。
「今度は何を企んでいるのだろうね、私の弟達は。」
楽しい事だといいけど。
そう言いながら、誰に聞いているわけでもなく。
特別知りたいわけでもないのだろうと、黒髪の男は考えた。弟王子達の動向など、ローレンツが本気で知りたがったらいくらでも情報はとれるだろう。
部屋の入り口脇に待機する護衛騎士はちらり、ローレンツの言葉に何も返さない美しい客人を見やる。艶やかな短髪をきちりと後ろに撫でつけ、されど前に垂れるほんのひと房が、元々の美貌と相まって彼をより魅力的に見せている。
数拍の間を置いて、彼はようやく形の良い唇を開いた。
「私は、殿下が何を思っておられるかの方が気になりますが。」
「ふふ」
男――フェリクス・シュミットを振り返り、ローレンツはにこりと微笑んだ。
「誘いは受けるよ。宰相には、今度私の所へ顔を出すよう言っておいてくれ」
「ありがとうございます。」
「ちなみに、これは雑談だけど」
そんな前置きをして、ローレンツの赤い瞳がフェリクスを捉える。
不可視のナイフが首に向けられたかのようだった。
たかが細身の青年一人、護衛が控えていたとてフェリクスはすぐに殺せるのに。
「君やシュミット侯は、彼女を止められるのかな?」
「…妹の事でよろしかったでしょうか。」
「そう、そう。誰の指示ならという話じゃない、できるかできないかだ。」
「殺せます」
「へえ?」
止められるかと聞かれ、殺せると返した。
そんなフェリクスを見つめるローレンツは楽しそうだ。
――これほどの男でも、あの娘を殺さずに止める事が難しいか。すなわち実力の差は僅か…いざという時、どうするかだな。
「騎士団でも対処に困りそうだと思ったけれど、さすがに君達が上なのか。」
「はい。今はまだの話ですが」
「いずれ越えてくると。なるほどね」
抱えるにはリスクのある存在だ。
ユリアがディートリヒを喪えばどうなるか。仮にディートリヒが昏睡するほどの重傷を負った場合、報復を待てと言って聞くかどうか。もし国家間に関わる事件なら「待て」ができないのは致命的だ。
――どんな関係性を築くか、まずは弟の手腕を見てみようか。
空には薄雲がかかっている。
後ほど一雨きそうだと思いながら、ローレンツは去っていく馬車と残された三人を見下ろした。
オペラグラス無しでは表情まで見えないけれど、項垂れたリリアンにディートリヒが何か声をかけ、まったく別方向を振り返ったユリアは二人を守るように前へ出る。
その視線の先を辿ると、三人のもとへ向かう誰かの後ろ姿が見えた。
騎士団の制服ではないため、騎士でなく生徒だろう。背が高くがっしりとした身体つきで、金色の髪をなびかせ、大きく手を振りながら駆けている。
ディートリヒがユリアに何か言うと、彼女は警戒を解いた。知り合いだったのだろう。
ほんの少しだけ目を細めて、ローレンツはそれを見ていた。
◇
第二王子エドゥアルトが学園を休んだ。
そしてそれを知っていたのだろう、第三王子ディートリヒとその婚約者ユリア・シュミットが、エドゥアルトが熱を上げていたリリアン・カルクに寄り添っている。
かの王子は謹慎処分を食らったのではないか。
そんな噂が囁かれる中で、「何かご存じですか」と聞かれるエルフリーデは貴族令嬢らしく微笑んではぐらかした。
知っているけれど、言えない事だから。
まるで、そう言っているかのような微笑みだ。実際はエドゥアルトからも、ディートリヒからも、何も聞いていなくても。何も知りませんなどと、アイレンベルクの娘が吐けるはずはない。
休んだ理由が気になるのはエルフリーデも同じだったが、それでも今、ディートリヒに会いに行きたいとは思えなかった。
午前中からずっと降っていた雨はやんだが、厚い雲が今もなお空を覆い隠している。
月明かりも星の姿も見えない暗い夜、エルフリーデは小さなランプ片手に寮を抜け出していた。傍からすぐにはわからぬようローブを着込みフードをかぶり、湿った土を踏みしめて。
――…わたくしは、次期王妃に相応しく育てられた娘。エドゥアルト殿下が駄目ならローレンツ殿下へと、お父様は考えているかしら。
少し前までは、エドゥアルトが失墜するなら次の相手はディートリヒだったのだ。
しかしローレンツが快復するなら、多くの者は彼を王にと推す。
ディートリヒが先に婚約者を得た事もあり、エルフリーデが大切に想う《彼》ではなくなってしまった事もある。
困難だろうと実現してみせようなどと、思う事もない。
もうその道は消えていた。
――ローレンツ殿下。もし隣でお仕えするのなら、気を引き締めなくては……。
第一王子はきっと、必要とあらば上手く夫婦になってくれるだろう。
エルフリーデを尊重し、見極めながら王妃の職務を任せ、アイレンベルクの伝手も利用し、場の空気を操って。
この方に仕えられて良かったと、誇りに思わせてくれる。身体さえ良くなるなら、かの王子はそれだけの風格を備えていた。
エルフリーデはわかっている。
ディートリヒの事がもう関係ないのなら、父の期待に応え《次期王妃》として確実な道を辿るべきだ。
わかっていて――…碧の瞳は、まだ雨粒が残る芝生を見つめている。
『わたくしはエルフリーデ・アイレンベルクです。あなたは――』
『長いね。エルって呼んでいいかな?』
『かってを言わないでくださいませ!わたくしの名は、お父様とお母様がつけたかくしきあるもので…』
無防備に不用心に、エルフリーデは歩いている。
学園内とはいえ、ろくに戦えない令嬢一人は格好の獲物だった。仮に今、アイレンベルクを恨む者でも侵入していたら。もしも今、貴族令嬢を狙った人攫いでも忍び込んでいたら。
そうしたら全てが終わってしまうのに、不思議と恐怖を感じなかった。
『エル。』
――…貴方を、もう、失ったのなら。わたくしだって、もう……
どこへ行くでもなく学園の敷地を歩いて数分、少し先に明かりの漏れる扉が見える。
もうじき日付も越える夜中なのに、教会には人がいるらしかった。門も開いていて、まだ訪問者を受け入れると示している。
『エルフリーデ様。帰還したイザーク・メルツァー様ですが、学業の傍ら、学園の教会にも所属されるそうです。』
そう報告を受けた事を思い出し、エルフリーデは教会から目をそらした。
明らかに人目を避けた装いの自分を、イザークのような男に見られたいとは思わない。
――わたくしは…こんな所で、何をしているのかしら。
夜に徘徊するなど、気高きアイレンベルクに相応しくない行いだ。
引き返そうと踵を返した先、誰かが立っていてつい、反射的に顔を上げてしまった。相手も驚いた様子で目を見開いている。
「アイレンベルク公爵令嬢…なぜこんな時間に」
「こんばんは。奇遇ですわね」
呆けた顔など絶対にしない。エルフリーデは美しく微笑んで、その男子生徒に挨拶する。将来は第三王子ディートリヒの護衛騎士になるだろう男、ツァイス。
口数が少ない方ではあるが、話してみれば無愛想まではいかない真面目な男で、時折立ち話をする間柄だ。問題は少々、察しが悪いところ。
「まさかお一人ですか?危険です」
「問題ありませんわ」
ツァイスが焦った様子で一歩近づいてきて、エルフリーデは内心眉を顰めた。それとなく視線をはしらせ、目撃者がいない事を確かめる。誰もいない――現時点では。
ぱさりとフードを下ろす仕草と共に横へ一歩二歩、自然に距離を取っておく。こそこそ会っていたと思われるより、堂々としていた方が良い。
「勉強していたら目が冴えてしまって……もう戻るところです。ご心配ありがとう」
「そうでしたか…よろしければ、寮の門前までお供致します。」
「紳士ですのね。」
エルフリーデが取った距離をそのままに、隣ではなく少し引いた位置で、ツァイスは共に歩き出した。エスコートするでも友人としてでもなく、護衛の立ち位置だ。
ツァイスの視線を感じながら、エルフリーデは振り返らずに聞く。
「エドゥアルト殿下がお休みされているけれど、ディートリヒ殿下もご存じだったのでしょう?」
「は…そのようです。自分も詳しくは知りませんが、しばらくカルク伯爵令嬢を守ると聞いています。」
「そう」
どうやら、エドゥアルトはそう簡単に戻ってこないようだ。
そしてディートリヒはエドゥアルトとリリアンを応援するつもりでいるらしい。
――何も聞いていない……わたくしは、あまり信用されていないのかしら。
相手は王家だ。もちろん、言えない事もあるだろう。
エルフリーデがアイレンベルク公爵家の娘だからこそ言えない、そういう事もあるだろう。相談がなかった理由も幾らだって思いつくけれど、どうしてもエルフリーデの心は少しばかり落ち込んだ。
約束も企みも関係なくても、公爵家の者として、二人とはそれなりに信頼関係を築いてきた。
それでも言えないほどに何か、エドゥアルトの不在には重大な理由があるのだろうか。ディートリヒがユリアを連れ、街で不審な男に会っていたという報告も聞いている。
何かが進んでいる。
「メルツァー様は、ご令嬢に人気のようですね。」
エルフリーデの思考を邪魔して、ツァイスがどうでもいい話を振ってきた。
そのようねと軽く答えながら、エルフリーデは心の中でため息をつく。早く寮に着いてしまいたい。
放課後などはイザーク目当ての令嬢が教会に押し寄せ、彼は優しく対応しているらしい。
緊張した声色から察するに、ツァイスはエルフリーデがイザークに会おうとしたのではないか、と懸念しているようだった。
「迷いのある方には、教会の神父様がたの言葉も必要でしょう。わたくしはそう思いますよ」
「…貴女にもですか?」
「ふふ。わたくしが言葉を求めるとしたら、それは――…神様その人、でしょうね。」
嘘だ。エルフリーデは神を頼る気などない。
言葉を交わす方法も、その手に触れる方法もないのだから。頼りようがない。
神とはただ、見ている者だ。
その眼に自分はどう映っているかと一瞬だけ考えて、すぐにやめた。




