34.危うく殿下に殺られる所
レヴィン様は婚約者様と用があるそうで、護衛であるツァイス様は廊下へ立ち……エルフリーデ様が去った今、このサロンに居るのはわたくしと殿下だけになりました。
ですが、困ったものです。
わたくしは殿下と並んでソファへ座り、近い距離でお願いをされております。
「どうしても駄目か?ユリア」
熱心な殿下のお声は、普段でしたら一も二もなく「もちろんよろしゅうございます」と、「わたくしに全てお任せください」と、「ご依頼喜んでお受け致します」と、お答えするのですが。
今回の依頼は少しばかり思う所があり、わたくしは少々困り顔で口を開きました。
「…駄目、とまでは申しませんが……」
必要があるのでしょうかと聞き返したい気持ちと、ディートリヒ殿下に応えたい気持ち。わたくしは狭間で揺れています。
煮え切らない返事をしてしまったものですから、殿下はわたくしの手を取る事で、自分を見るように促しました。
これはいけません。
殿下の真っ直ぐなお気持ちがこもった眼差しは、わたくしの思考を鈍らせる傾向があります――…と、わかっていて、どうして。なぜこうも自然と目が動き、吸い寄せられるように見てしまうのでしょう。触れた手の温度まで気になって。
ああ殿下、本日も健康的な体温と脈拍で何よりでございます。わたくしは緊張してか、普段より少し脈が早いようですが…。
「なら受けてくれないか。他ならぬ君だから頼みたいんだ」
「うぅっ…」
心が否応なしに歓喜で湧き上がってしまいます。殿下、またそんな殺し文句を…!
淑女として殿方をやんわり拒否する作法も、暗殺者として拘束から逃れる方法も、切り落とし方もわかっておりますのに。
わたくしは到底この方の手を振り払えないどころか、まだもう少し握っていてくださるかしらと、そんな事を考えてしまうのです。
「…君はもしかしたら、私の拙さに幻滅するかもしれないが」
「そんな事はありえません。」
「勢いがすごいな……ふふ。ありがとう」
触れている手をキュッと握り返してお伝えしますと、殿下は朗らかに笑ってくださいました。
守って差し上げたい、この笑顔。
たとえ幾千万人殺ってでも――……、わたくしとしては腕が鳴りますが、あまり屍が多いと殿下は気にされてしまうかもしれませんね。
最期の一瞬まで笑っていて頂けるように、状況に応じて、相手の罪が軽い内に対処していく事も必要でしょう。
「幻滅されないなら、なおさら君に知っておいてもらった方がいいだろう?ありのままの私を。」
「そう、かもしれませんが……せめて他の誰にも見られない場所で、二人きりでも良いでしょうか。」
「誰にも?…ニクラス達は」
「駄目でございます。わたくしと殿下だけです」
「ん、うん……いや、どうかな。それは…」
殿下はお可愛らしく眉を下げて迷っておられますが、どうしてもしたいと仰るなら、そこはできるだけ人払いをお願いしたいところです。
なぜなら不特定多数はもちろんのこと、たとえ側近であっても見せるべきではない姿を見せて頂くのですから。
「殿下のそのようなお姿っ……専属の暗殺者にして、…婚約者たる、わたくしだけのものです。」
「…こほん。そう言ってくれるのは嬉しいが、少々大げさじゃないか?」
「いえ、当然の警戒です。」
照れてしまわれたのか、僅かに身を引こうとした殿下の手をしっかりと握り直して首を横に振りました。
よくよくお考えください、殿下。
「試合を…それも殿下が本気を出すところを見せるなんて、殺し方を公表するようなものです。戦闘中どこに隙ができるのか、丸見えなのですよ?」
「たかが鍛錬と思ったが、そうか……暗殺者の視点だと、そうなるのか。」
「わたくしが知るだけなら問題ありませんが、念には念を。近しい方であっても避けるべきです。」
「しかし、騎士を志すツァイスならともかく。ニクラスの目では、そこまでわからないのではないか?」
「……それは、そうなのですが。」
ですが、殿下。
貴方様の殺し方など、わたくしだけが知っていればいい事ですのに。万一にも、たった一つでも他人に把握されたくないのですが。
それに、完全な人払いをしておけば……コトを始める前などに、その。
殿下と少し、触れ合う時間があるかもしれません。ええ、ちょっとだけ抱きしめて頂けたりとか…いえどうせならたっぷりと……五秒ほど。
ああ、五秒。
想像とはいえ大胆な企みをしたでしょうか、わたくしがもつかわかりません。今?いえ、今は人払いが不十分でございます。わたくしの五感が衰える事を想定して念入りに周囲の警戒を終えてからでなくては。
婚約を申し入れてくださったあの日の、殿下の温もりを思い出しながら…わたくしより大きな手指をそっと撫でました。
人体としてはまだ十四歳、これから歳を重ねるとさらに大きく、ごつごつとしてくるでしょうか。今この状態は、今だけのもの…つい大切に、大切に……やわやわと撫でる手が止まりません。なんて幸福なひと時でしょうか。
「…うん。あの、一旦撫でるのをやめてもらっていいだろうか。」
「撫でていたいのですが、駄目でしょうか?」
「駄目ではないです……。」
なぜ敬語なのでしょう。
殿下の手が僅かに震えております。くすぐったいのでしょうか?それなら確かに、やめた方がいいのかもしれません。
我慢してくださっていた殿下のために、わたくしは撫でるのをやめて手の甲に口付けを落としました。
これからもわたくしがお守りします、殿下。
そう思いながら顔を上げると、殿下は少し顔を赤くしておいででした。手から微かに伝わる脈拍が早まっているようです。
「君はどうして、そう……」
「…だ」
「駄目ではない。駄目ではないが、私からも。」
ディートリヒ殿下はそう言って、わたくしの手の甲にそっと唇を触れさせました。
自分からするのは平気なのに、初めての事ではないのに、心臓が勝手にどくどくと高鳴ってしまいます。即座には反応できなかったわたくしを見上げ、ディートリヒ殿下がくすりと微笑みました。
これはいけません。
わたくしは即座に床を蹴って後方へ跳び、一秒もなく殿下から距離を取りました。殿下がぱちりと瞬き、こちらを見ます。
「……ユリア」
「障りがございますので、御身をお守りするためにひとまずこの距離でお願い致します。」
「今のも駄目だったか…」
「駄目どころか、とても駄目でございます。危うく心臓が破裂するところでした。万一わたくしが倒れたら、殿下に様々なご迷惑をお掛けするだけでなく、もちろん護衛がツァイス様しかいなくなるという点でも非常に危険な…」
やや早口に、けれど懸命にご説明申し上げていたところではございますが、わたくしは口を閉じました。
冷静に、適切に。視線と手振りで部屋の扉を示します。
「誰か来ます」
忍ぶつもりはまるで無い様子。
靴音の歩幅、速さ、重さ――淑女ではございませんね。間違いなく男性でしょう。わたくしが殿下の傍に立つと、ちょうど部屋の外から微かに声が聞こえて参りました。
「な…どうしてこちらに、」
「ディートリヒは中か?」
「はい。少々お待ちを――っメルツァー様!」
本来はツァイス様がノックし、来訪者の名を告げて殿下の許可をとるべきでございます。
しかし扉はノックも無しに開かれて、その方は堂々と部屋へ足を踏み入れ――…わたくしを見て眉根を寄せ、不遜にも殿下を睨みつけたのです。
「…ご無沙汰しております。ディートリヒ殿下」
肩を越す長さのシルバーブロンドを低い位置で結び、整ったお顔立ちに切れ長の目。
チェーンがついたフレームレスの眼鏡をかけ、身に纏う神父服には、メルツァー公爵家にだけ許された紋様が刺繍されています。
そう、彼はメルツァー公爵令息――…イザーク様。
ニクラス・レヴィン様と同じく殿下の幼馴染であり、国内のこの学園ではなく、隣国への留学を選ばれたはずですが……なぜ、ここにいらっしゃるのでしょう。どうして、殿下をそのように睨むのか。
場合によっては…
「ユリア。大丈夫だ」
殿下が立ち上がり、わたくしと目を合わせて小さく頷いてくださいました。
メルツァー様が敵に回ったはずはない、その確信をお持ちなのでしょう。お二人の会話を邪魔しないよう手短に一礼し、わたくしは一歩下がりました。
「久しいな、イザーク。お前の返事がないから、あちらで何かあったかと心配していたんだが。」
「手紙で聞き合っては時間がかかりますからね。私が直接来た方が早いかと。……そちらのご令嬢は?」
「シュミット侯爵令嬢。じきに公表されるが、私の婚約者だ。」
「……今、何と?」
ぽかんと開きかけた口を閉じ気味にして、メルツァー様が聞き返します。
わたくしと殿下の再会はこの方が出国された後の事ですから、わたくし達の繋がりがわからず混乱しているのでしょう。
「私の婚約者だ。」
はい。婚約者でございます。
ちょっとだけ、によりと、唇が笑みの形になってしまいます。表情筋を叱咤して、どうにか無礼のない形におさめました。……おさまっているのでしょうか、これは。可能なら今すぐ鏡を確認したいところです。
メルツァー様は眉間に皺を寄せて髪を掻き上げ、音の無いため息を吐かれました。
「…ここへ来る途中……エドゥアルト第二王子殿下が、庭で堂々と女子生徒の肩を抱いておられましたが。」
「カルク伯爵令嬢だな。いつもの事だ」
「いつも?――…殿下。私が貴方がたの頭を聖書で叩き出す前に、事情を話して頂けますか。」
「わかっている。こちらでは色々あったんだ、イザーク。座ってくれ」
聞き捨てならない暴言がございましたが、メルツァー様は殿下の向かいへと大人しく着席なさいました。殿下は座り直し、わたくしは立ったままで控えます。いざという時すぐにメルツァー様を押さえねばなりませんので。
「お前が直接来たのでは、もしやシンデルマイサーの件もまだ聞いていないのか?」
「……?確か、第一王子殿下の主治医でしたか。聞けるわけがないでしょう、こちらに向かっていたんです。」
「…ツァイス、すまないが席を外してくれ」
「は。承知しました」
部屋の中で扉の傍に立っていたツァイス様が廊下へ。
メルツァー様は「退室させるならもう一人いるだろう」とばかりわたくしをちらと見やりましたが、嫌でございます。
「イザーク、私語でいい。ユリアはニクラスと私の会話も聞いている。」
「……私に寄越した質問の意図は。」
「アイレンベルクについて少し調べているんだ。色々あったと言っただろう?その関係で…」
「おやめください。」
わたくしが一声かけると、メルツァー様は意外そうに片眉を上げてこちらを見ました。眼鏡の奥、瑠璃色の瞳を見つめ返します。
神に仕えるメルツァー公爵家といえど、この方は世間一般の認識よりは武闘派なのです。
「少々、足癖が悪いようでございますね。メルツァー様」
「……これは失礼。シュミット侯爵令嬢」
今、テーブルを軽く蹴ろうとなさっていましたね。殿下の言葉を止めるために。…許しませんよ。
目を細めて、メルツァー様は殿下に視線を戻しました。
「言えないなら言えないでいい、ディートリヒ。お前が私に嘘を吐くな」
「嘘ではない。色々と事情があって、たった一言では全てを説明できないだけだ。その迷いが出たんだろう」
「…なら、悪かった。……単刀直入に聞くが、エルフリーデ嬢に何か嫌疑がかけられてるのか?」
「そういうわけじゃない」
手紙の返事を待っているとは聞いておりましたが、どうやら内容はエルフリーデ様に関係しているようですね。
メルツァー様を見据え、殿下は確信を持った様子で仰いました。
「イザーク、お前は心当たりがあるんだな?八年前のあの日…彼女が誰かに会っ」
「私が会っている。」
「………、えっ?」
完全に予想が外れたお声も素敵です、殿下。




