33.変わった殿下に罪は無い
「意外な事実、でしたわね。まさかあの方が毒を盛っていたなんて」
残念だと言いたげに柳眉を下げ、碧の瞳をした淑女が言う。
たっぷりとした艶めく金色の長髪に、ソファに座っているだけで絵になる洗練された美しさ。
どうやら本当にシンデルマイサー医師の所業を知らなかった様子で、エルフリーデ・アイレンベルクは小さなため息をついた。
彼女の声がはっきりとは聞こえない程度の距離をとり、壁際には側仕え達が黙って控えている。
「罪が暴かれたのは喜ばしい事ですが……殿下。少々無茶をし過ぎではありませんこと?」
テーブルを挟んだ向かいのソファには、輝く銀の短髪に深い青色の瞳をした青年が座っていた。
エルフリーデの一つ年下、側妃が産んだ第三王子ディートリヒだ。彼の後ろ、壁際には側近のニクラス・レヴィンの他、護衛を務める男子生徒も立っている。
「ほんの一言でも、わたくしにご相談くださればよかったのに。」
「決して貴女を軽んじたり、頼りなく思ったわけではないんだ。こちらが調べている事を犯人に気取られぬよう、最小限の人数で動きたくてね。」
「ふふっ……ええ、わかっております。この度はシンデルマイサーの検挙、おめでとうございます。ディートリヒ殿下」
場所は学園内のサロンの一室。
まさか――まさか、窓の下にあるアンティーク調の戸棚に女子生徒が潜んでいるなど、予想だにせず――エルフリーデは、王子殿下の活躍に対して美しく一礼してみせた。
「ありがとう。エルフリーデ嬢」
ディートリヒが穏やかに笑い返す。
常人にはわからぬほど少しだけ開いた戸棚の隙間から、赤紫の瞳がエルフリーデ一派を注意深く観察していた。今のところ、誰もディートリヒを害そうとはしていないようである。
「これからは、兄上も快方に向かっていく事と思う。もちろん、今日明日すぐにという話ではないだろうが…」
「ローレンツ殿下のお身体については、多くの者が心を痛めていたこと……一体、どのようにしてシンデルマイサーの所業に気付かれたのですか?」
「私は少し見方を変えただけだ。信じてくれた兄上や、動いてくれた者達のお陰だよ。」
「…謙虚でいらっしゃるのですね。」
事が済んでなお、手の内を明かしはしない。
ディートリヒの答えを「正しい」と思いながら、エルフリーデは少しだけ疎外感を味わった。彼にとって決して裏切らない仲間の中に、自分はいないのかと。
――…仕方ありませんわね。今の殿下にとってわたくしは、アイレンベルクの娘でしかないのだから。
エルフリーデの白く長い指先がティーカップに触れ、そっと持ち上げる。
立ち昇る湯気の流れすら、彼女が思うままのようだった。
花の香りがする紅茶を喉へ流し、カップをソーサーへ戻す時に、かつんと。
ほんの少しだけ音を立て、エルフリーデはディートリヒを見据えた。
「皆様がお望みでなくとも、動く者がいるでしょうね。」
「そうだろうな。」
治る見込みがないローレンツに代わり、エドゥアルトが王になるだろうと多くの者が思っていた。
それでもローレンツを潰そうとした者がいたのだから、今後はさらに危険が増すだろう。もちろん、エドゥアルトも、ディートリヒも。
「…アイレンベルクはどうするのかと聞きませんの?」
「貴女がたが動くには、まだ兄上の体調がはっきりしない。そうだろう?」
ディートリヒが確かめるように見やると、エルフリーデは言葉ではなく微笑みだけを返した。
第一王子がこのまま必ず快癒するとは限らないのだ。
「しかし…公爵家ではなく、貴女自身の意見は気になるところだな。」
ディートリヒの言葉を意外に思い、エルフリーデは瞬いた。
公爵家の方針に背き、家長と異なる道を通りたがるような令嬢ではないつもりだ。そういう印象を持たれる理由もない。
エルフリーデは父が望む通り「王妃」になり、国王となったディートリヒを支えるのだ。
互いの側近がいる場で、それも思い出していないディートリヒには、今はまだ語れない未来だ。
心の余裕を崩さずに、エルフリーデは無難に言葉を返した。
「わたくしはただ、望む未来を思い描くまで。」
「それはどんな未来か、聞いて良いだろうか?」
「まぁ、決まっているではありませんか。神様が見守るこの国と民が平和であれば、我らアイレンベルクとしては充分ですわ。」
深い青色の瞳を見る事なく、エルフリーデはそんな事を言う。約束を忘れてしまったディートリヒの目を見て言うのは、少しだけ恐ろしかったのだ。
彼女の言葉は明らかな建前だったが、それを聞いてまだ踏み込むのなら無粋の域。
ディートリヒは「確かにそうだな」と大人しく引き下がり、数秒目を伏せてから改まって名を呼んだ。
「エルフリーデ嬢。」
「何でしょうか、ディートリヒ殿下。」
「公的な発表はまだだから、突然で驚くかもしれないが……私は、シュミット侯爵令嬢と婚約した。」
碧色の瞳が丸くなる。
呆気にとられた様子のエルフリーデを珍しく思いながら、ディートリヒは続けた。
「貴女は私にとって」
――信頼できる……いや、信頼していた、
「姉のような人だから。」
ディートリヒの深い青色の瞳を見つめ、その言葉を聞いて。
エルフリーデは、心の一部が容赦なく切り離されたような心地になった。
すとん、と。ナイフで切り分けたように。
「だから、伝えておきたかった。」
唐突な理解だった。
エルフリーデがディートリヒを「弟のような方」と思うように、
ディートリヒはエルフリーデを「姉のような人」と言っていて。
彼にとってはそれだけなのだと。
――殿下は……幼い頃に会ったあの方は、もう、本当に……別人になってしまったのね。
気付いてしまった。
思えば、かつて城の庭で会った男の子がくれたものを、再会してからは一度も貰っていない。
つい動揺してしまう程の嬉しい驚きも、振り回されてなお憧れた自由さも、からかうようでありながら優しかった、あの眼差しも。
触れた手の熱さえも。
「――…光栄にございます。」
ひどく落胆した心も悲しく思う心も隠しきり、エルフリーデは淑やかに微笑んだ。
立派な淑女になろうとした彼女の努力が実を結んだ、一分の隙も無い見事な微笑みだった。
――心の奥底に、素の貴方がいると思っていたけれど……わたくしが目をそらしていただけで、もうずっと前から、貴方の中に「あなた」はいなかった。
あの日の男の子はもう失われたのだと、この日エルフリーデは理解した。
特別珍しい事でもない、人は変わるものだ。
「畏れ多いので、お伝えしておりませんでしたが……わたくしも、殿下を弟のように思う事がありましたわ。」
「…それはやはり、頼りないという事だろうか?」
「そうは申しませんが。ふふ」
優雅に扇子を広げて口元を隠し、エルフリーデは笑う。
高熱に魘され苦しみの果てに記憶を無くしたディートリヒに、王子として礼儀正しく真面目になったディートリヒに、何の責があるだろうか。
彼はただ、懸命に生きているだけだ。
成長したディートリヒに、罪は無い。
そう思いながら――エルフリーデの脳裏には、与えられる教育に懸命に取り組んできた日々が浮かんだ。
いつか迎えに来てくれる彼が驚くように、立派な淑女に。
父に望まれた通りに王妃となり、彼を王にして支えられるように。
離さないでいてくれるように、彼の役に立てるように、笑い合って生きていけるように――…
そんな努力、意味はなかった。
ディートリヒはエルフリーデとの出会いなど覚えていないし、きっともう思い出す事はない。
頑張ったところで、待っていたところで、エルフリーデを迎えに来てくれる人などいない。
『ふふ。まじめでかわいいな、きみは。』
そう言ってくれた男の子はもういない。
大切な記憶だって、エルフリーデしか覚えていないのだから、幻想のようなものだ。最初から無かったに等しい。
馬鹿なエルフリーデ。
磨いた美貌と知識と技術でどれだけ他人を魅了しても、一緒に生きたかった彼はもういない。
「…殿下。一つお聞きしてもよろしいでしょうか。」
「ああ。何だろう」
「なぜ、彼女を選んだのですか。」
「――私の命を捧げても、構わないと思えたからだ。」
なぜそこまで。
いつの間に、どうして。
未練がましい心の声を「もう終わったこと」と切り捨てて、笑顔を保つエルフリーデは「大切にされているのですね」と声を発した。
――約束を忘れてしまった、ひどいお方。貴方に罪は無くとも、わたくしのこれまでを否定した事に変わりはない。知らなくとも、知らなくとも。
ぱちり、エルフリーデは扇子を閉じた。
アイレンベルクの娘として、雑談は終わりにしなければ。国のために、国のために。
唇を薄く開いて、けれど言葉は出なかった。
「正直に言えば、父上が選んだ候補にはいなかったんだ。それでも私自身が望んだ。」
「…そうなのですね。」
「ああ。……だから貴女も」
深い青色の瞳が、真っ直ぐにエルフリーデを見ている。
「強く想う相手がいるなら、応援する。もし手が届く場所にいないなら、私でよければ相談してくれ。何かできる事があるかもしれない」
残酷なまでに、ディートリヒは真摯だった。
「…殿下は何か、誤解をされておりますわ。」
「覚えがなかっただろうか…それならば失礼した。未来の仮定だったと思ってくれ」
「お気遣い痛み入ります。ですが、手の届かない場所にいる程度…」
エルフリーデはくすりと笑ってみせる。
真顔になっても、怒りも、嘆きも、悲しみも、この場においては「不正解」だ。
「相手に来させれば済む話でしてよ。殿下」
予想外の返答だったのだろう、面食らった様子で瞬くディートリヒに、姉のような令嬢は「まだまだ子供ですね」と言わんばかりにわざとらしく、見せつけるように丁寧に立ち上がって礼をする。
「それでは、御前失礼致します。」
「ふっ……ああ、時間をとってくれてありがとう。」
何も気付かず、何も知らないディートリヒは笑っていた。
エルフリーデは上手くやったのだ。淑女として何一つ、対応を間違えなかった。
「………。」
踵を返すエルフリーデを、見つめていた男がいる。
碧の瞳はそれに気付いて彼を見やり、ほんの一瞬だけ微笑んだ。
それは、会釈としての微笑みであるべきだった。
長年の努力が無に帰した彼女は今、ディートリヒに対しては隠しきった彼女は今、己の表情を完璧には制御できていない。
一秒にも満たない間のこと、エルフリーデが自覚する間もないままに、彼女は普段と変わらない歩みで去っていく。
その時、男――第三王子の級友にして護衛、ツァイスは胸に小さな痛みを感じていた。
苦しいのに、どこか不快ではない。助けになりたいという思いが湧き上がる。
我が身を差し出したくなるような、跪き傍に侍っていたいというような。
どくり、どくりと心臓が鳴っている。
彼は理解した。
――これは喜びだ。貴い方の心に触れた、喜び。
僅かに影の滲んだ淑女の微笑みは、一人の男が「自分が支えなくては」と勘違いするには充分過ぎた。
公爵令嬢たる彼女は誇り高く、ディートリヒに対し弱みを見せなかった。
しかし、ツァイスと目が合ったその瞬間だけは、少し自信を無くしたような憂いを見せたのだ。助けになりたい、支えて差し上げたい、誰あろう自分がと、ツァイスの中で感情が渦巻く。
ただ、彼はここでエルフリーデを追いかけるような愚は犯さなかった。
「流石だな、エルフリーデ嬢は。……頼ってもらえると、楽だったんだが。」
「頼るってどういう意味だよ?」
「最後まで堂々としておられましたね。」
「うおっ!ユリア嬢、いつの間にあそこから出て背後に!?」
「………。」
賑やかに話す三人から数歩離れた位置で、ツァイスは黙って控えている。いつもの事だ。
騎士は主君の雑談になど加わらず、淡々と仕事をするものという考えを持っていた。
彼は騎士家系の子であり、第三王子ディートリヒの護衛を務めている。
このまま問題なくいけば、将来は彼の護衛騎士となる未来が決まっていた。誇らしい事だと思っている。
だからこそ、エルフリーデに「仕えたい」とは考えなかった。
強い憧れを心に抱きながら、彼は静かに、護衛の役目を果たしている。
「エルフリーデ様。ディートリヒ殿下のお話は、一体…」
「貴女達は知らない方がいいわ。」
「は、はいっ。失礼致しました」
前を見据える瞳に陰りがあっても、後ろを歩く側仕え達にはわからない。
エルフリーデは普段と変わらず背筋を伸ばして歩みを進めた。
橙色の光が廊下を照らしている。
窓の外には見事な夕焼け空が広がっていて、エルフリーデはその明るさから目をそらすように、正門へと続く道を見下ろした。
正門から入ってきたのだろう、誰かが校舎へ早足に向かっている。
その青年が年齢に見合わぬ上等な神父服を着ていたので、エルフリーデは一目でそれが誰かを理解した。けれど意味がわからず、自然と足が止まる。
隣国へ留学したはずの公爵令息がなぜ、二ヶ月も経たない内に此処へ来ているのか。
外出外泊の許可をあちらできちんと取ったのか、公爵閣下に連絡はしているのか、一人に見えるが護衛はどうしたのか。
まともな令息なら普通、そんな状況にはならない。
「エルフリーデ様?」
「…何でもないわ。」
ため息をついて、エルフリーデは視線を戻した。
まるで本当に何事もなかったかのように歩き出す。
「――…自由な方。」
呟いた声は誰にも届かなかった。




