32.殿下が見据える盤上の駒
「すまなかった。ローレンツ」
人払いを終えた、第一王子の私室にて。
銀色の髪に赤い瞳――自身の色をそのまま受け継いだ長男を見据え、国王は謝罪を口にした。整った顔立ちをしているがその眼光は鋭く、眉間には皺が寄っている。
ティーテーブルには菓子の類など一切なく、香り立つコーヒーだけが置かれていた。どちらもまだ、一口も飲んでいない。
「シンデルマイサーがそなたを苦しめていた事……本来なら、もっと早く突き止めねばならなかった。」
「見抜けなかった己にも責があると思っています。そもそも、手口が手口ですから。護衛騎士達の処分はどうかご寛容に願います。」
「先日の件とは違う。無論、切りはしない」
「ありがとうございます。」
シンデルマイサーと国王は学生時代からの親友であり、ローレンツは長年彼を主治医とし、「もう一人の父のような存在だ」とすら言っていた。
それでも、この父子の顔には落胆も悲壮もない。
動機も手口も知れた過去の罪人の話は切り上げ、二人は新たに組まれた医療チームについて話し始めた。
親友、もう一人の父と言いながら――…所詮はその程度。
裏切られた際に心を病むような、精神的依存を伴う関わり方はしていない。それを無意識に徹底しているあたり、この父子はやはり為政者の器であった。
「…私はエドゥアルトのお陰で手足を潰されずに済み、ディートリヒのお陰で神経毒を盛られずに済んだわけですが」
悍ましい未来の可能性を、些事の如き軽さで口にして。
ローレンツは赤い瞳の見る先を国王へと流した。
「弟達はそれぞれ一体どうしたのか、陛下にはお心当たりがあるのですか?」
「どうだろうな。」
「私も王になればわかりますか。」
「――…、ローレンツ」
国王は小さくため息をつき、一切表情を緩めない。
目が合った。
「できるのか。」
なりたいかとは聞かない父に対し、ローレンツはゆるりと微笑んでみせた。国王という役割の重さは、容易く崩れてはならない義務は、よく理解していたから。
「できると言うにはまだ、この身体は動きませんね。」
シンデルマイサーの「処方」は長期に渡るものだった。
高熱や炎症の元となっていた毒を盛られる事が無くなったとて、即座に快癒する事はない。どこまで回復できるかはローレンツ自身の体力と、今後の治療によるだろう。
国王はただ「そうか」と返し、コーヒーカップに指をかけた。湯気が消えかけたそれと共に、言葉にし難い心地を飲み込む。
ローレンツは「まだ」と言ったのだ。
――いずれは、言う気があると。
微かな音もなくカップを置き、国王はテーブルの上で軽く手を組んだ。
ローレンツがその未来を見据えるなら、到達までに埋めねばならない席がある。
「エドゥアルトがカルクの娘を欲しがっている事は、そなたも知っているだろう。」
「ええ。学園で見かけた事もあります」
外見が愛らしく整ったピンクブロンドの令嬢だ。
エドゥアルトが突然気に入った相手だが、現在のカルク伯爵家の財政状況では格が釣り合わない。本人の知恵も礼儀作法もあまりに拙く、根は善人だろうが「それだけ」の娘だ。
弟が彼女の何を気に入ったのか、ローレンツにはわからない。
――わからないが、エドゥアルトは陛下に似て意志が固い。あの様子では、たとえ廃嫡されようと彼女を選ぶだろうね。
「ディートリヒは、シュミットの娘と婚約する事になった。」
「…ユリア嬢ですか。なるほど」
エドゥアルトと違い、《確定事項》の言い方だ。
ほんの僅かに目を見開いたローレンツは、やはり弟達の変化には確かな原因があるのだろうと確信した。
確かに、ディートリヒはユリアに好意を抱いているようだった。
婚約するのだろうとからかっても、いずれそうする気はあるらしいと思える反応だった。ユリアに至っては離れる気がない。
しかし、早すぎる。
学園の上級生になるどころか初年度で、あの控えめなディートリヒが――…とうに国王の説得すら終えて、婚約確定とは。
「シュミット侯爵令嬢は、陛下がディートリヒに選ばれた候補にはいなかったと記憶しておりますが。」
「無論、例外的に認めたのだ。あれを自由にさせてはならない事くらいわかっているだろう。」
「そうですね。なぜかディートリヒに懐いているようですから、婚約をさせるのはもちろん賛成です」
批判が出るほど家格が合わないわけでもなし、ユリア・シュミットをディートリヒから引き離す方が危険だ。
理解している事すべては口に出す事なく、ローレンツは父がそうしたようにコーヒーを口に含む。ほんの一かけらも砂糖が入っていない苦さを味わい、飲み下した。
「空席はそなたの横だけになった。――…選びたいのなら、あまり時間はやれないぞ。」
国王の職務を全うできる身体になれるのか、なれないのか。
どこまでの覚悟を決めるか、妃として巻き込む相手として誰を選び、どう納得させるか。父が自分に選んだ候補者の情報くらい、ローレンツは全て覚えている。
玉座を望むなら、候補にはエルフリーデ・アイレンベルクの名が加わるだろう事も。
「承知しております。陛下」
微笑んでそう返してみせた息子をちらと見て、席を立った国王はそのまま部屋を後にした。
ローレンツは戻ってきた護衛や侍女達に軽く手を振り、何も問題はないと示す。コーヒーの残りに唇を付けながら、幾つかの顔を脳裏に思い浮かべた。
誰が、どう動くか。
敵は、味方は、接触するべき相手は。
飲み干してなお口内に残る苦味を、味わい深いものだと楽しんで。鼻歌でも歌いたいような気分で、脚を組んだローレンツは目を閉じた。
四肢を動かす度に感じていた倦怠感も熱感も痛みも、今は随分よくなっている。
『君と二人で話がしたい。シュミット侯爵令嬢』
ディートリヒがユリアを連れてきた日に、ローレンツはそう持ちかけた。
視線に込めた圧に怯まない精神力、令嬢らしからぬ強者の風格。恐らくは既に殺しの経験すらあるだろう淑女を見定めるためだ。
人を殺せば罪なら処刑人や戦時の騎士は犯罪者か?違う。
国王が使う影の者は罪人として裁かれるか?違う。
ならばその全員が必ず正義か?違う。
人並外れて力ある者の扱いには、細心の注意を払うべきである。
テーブル越しにユリア・シュミットと向かい合い、ローレンツは赤紫色の瞳を見据えて微笑んだ。
『さて、危険なお嬢さん。どうやら随分と気に入ったようだけど……ひょっとして、入学までディートリヒを守らせていたのは君かな。』
ユリアは表情を変えなかったが、内心では「なぜ知っているのか」と疑問に思った事だろう。
実際には耳に入る警備状況と漏れ聞こえる話や噂、ディートリヒとローレンツの母である側妃や国王、騎士団上層部らとの会話、ユリアの態度などを掛け合わせた《推測》でしかない。
だが、合っていたようだ。ユリアが目をそらさずに答える。
『仰る通りでございます。』
『うん。けどそれは本人の許可を得ていないよね?陛下が許そうとディートリヒが許そうと、私としてはそこもなぜと聞いておきたいな。』
『ディートリヒ殿下をお守りするのは、わたくしの都合だからです。』
『君の都合。』
繰り返す事で問いかけると、ユリアはごく僅かにたじろいだ。ローレンツの目が今は笑っていない事にきちんと気付き、問いの重さを理解した様子だ。
身体が弱く筋力も常人より衰えたローレンツなど、ユリアにとって一呼吸もなく殺せる相手だった。それでも彼女が気圧されるだけの威風を滲ませ、第一王子ローレンツがユリア・シュミットに問うている。
本心で答えるべきだと察したのか、ユリアは迷いのない目で答えた。
『あの方を穏やかに送って差し上げる事こそ我が使命。殿下ご自身が望まぬ限り、わたくしは全てから守ります。』
『そう、今から冗談を言うね。私はディートリヒを殺してあげようと思うんだ』
間髪を入れず、軽やかに。
ユリアが落ち着く余裕など与えず、ローレンツは今日の天気でも言うようにあっさりと殺害予告をした。
『――笑えませ』
『ユリア。』
彼女の瞳に殺意が宿った途端、声を上げたのはディートリヒだ。
悪い冗談だと流す事も苦笑する事もできなかったユリアは、名を呼ばれた瞬間ハッとして目にも止まらぬ速さで床へと跪いた。ディートリヒが慌てて駆け寄って立ち上がらせる。
ついローレンツに威嚇行動をしたと言うユリアに驚くディートリヒ、そんなやり取りを見ていたローレンツは――堪えきれずに笑い出した。
『ははは、なるほどね。君はそういう人か。』
ユリア・シュミットはディートリヒを守る事を至上としている。ディートリヒ自身が自棄にならない限り、己の命を賭してでも任務を遂行する。相手が王族であろうと彼の兄弟だろうと容赦はしない――…そういう目だ。
しかし、未熟。
若さゆえにどうしようもない事だが、恐らく驚異的な身体能力を持っているだろうこの娘は、ディートリヒの意思一つで揺らぐ危険を常にはらんでいる。
――弟が「もう要らない」と言ったら、この娘はどうするだろうか。
大人しいディートリヒが持つには、彼女はあまりにも過ぎた手札だった。まかり間違ってこの国がディートリヒを殺してしまった暁には、ユリアは国を潰しかねない。
そんな大げさな予想をして、ローレンツは念のため、ディートリヒに釘を刺しておいた。
お前は生きなさいと。
――…まぁ、半分諦めていた私が言うのもなんだけど。
ローレンツが簡単な注視で見抜けるのは筋力的な強さのみだ。
もっと疑ってかかれば、シンデルマイサーの邪心も先にわかったのかもしれない。
幼い頃から世話になっている人間への油断、足掻いてもさして変わらぬだろうという諦念、弟達が成長するまで、仕事を分担しておくだけの繋ぎ。
苦痛を堪えて体を動かす目的は、生きている状態を保つため。普通の身体になるのは無理だと結論付けていた。
「これからは私も、ちゃんと生きなければね。」
ぽつりと呟いて目を開ければ、国王のカップを片付けようとした侍女も、扉を守る護衛騎士も、皆がローレンツを見ていた。少し驚いたような顔で。
にこりと笑みを深めてみせると、彼らは涙を堪えて頷いた。いつでも穏やかに笑う王子が、自分の未来を諦めていた事など――きっと、随分前からわかっていたのだろう。
――私個人としては、エドゥアルトの治世にも興味があったんだが。
自分を支える彼らの前で言うわけにもいかず、ローレンツは赤い瞳をちらりと窓の外へ向けた。
夕焼けの光は消え、闇に変化していく青空には小さな星が一つ。
「ふふ」
目を細め、楽しげに口角を上げてローレンツは笑った。
決して容易くはない道を、これからどう歩もうか。
「面白くなってきた」




