30.君と生きていくために
「終わりとは、実に呆気ないものだね」
自室のベッドに腰かけて長い脚を優雅に組み、第一王子ローレンツが言う。
薄く微笑みを浮かべてすらいる彼はまるで、たった今自身が毒を盛られかけた事など、ほんの些事に過ぎないと捉えているかのようだった。
赤い瞳が見やった先で、黒髪の侍女が白衣の男を床に押さえつけ拘束している。
ローレンツは男に微笑みかけた。
「まさか本当に、貴方が裏切っていたとは。」
主治医であり、国王の親友でもある男、シンデルマイサー。
定期健診として訪れた彼はいつものように器具を取り出し、まずはローレンツの喉を診るために舌圧子を手に取る。
それをローレンツの口元へ運んだ時点で、一人の侍女が彼を拘束した。
なぜなら、器具にはうっすらと薬液が塗布されていたから。
「う、裏切ってなど!殿下を裏切ってなどおりません!これは毒ではない!」
「ご冗談を」
黒髪の侍女――ユリア・シュミットが口を挟んだ。
塗布された薬液は微量で、確かにそれだけで人体に不調をきたすものではない。
しかしローレンツの診察は数日に一度、その頻度で接種すると体内に蓄積し、高熱や関節部の炎症などを引き起こすのだと。
死ぬ事はないが、日常生活には確実に支障をきたす。
「長年続く第一王子殿下の不調は、この男が操っていたものと考えます。」
「馬鹿な!」
ユリアの言葉をシンデルマイサーが否定する。
それでもローレンツは、「拘束を解け」とは命じなかった。彼の主治医は床に押さえつけられたままだ。
「接種量や頻度を調整すれば、体調に波を作る事も、自身で処方する薬の効果も思いのままでしたでしょう。」
「この女の言う事は出鱈目です!殿下、貴方を治すために私がどれだけ苦心して――…」
「ではなぜ毒を持ち込んだ?」
気迫ある声には聞き覚えがあり、目を見開いたシンデルマイサーは床に頬を擦りながらそちらを見る。
いつの間に部屋へ入ったのか、第二王子エドゥアルトと第三王子ディートリヒが揃っていた。険しい表情でシンデルマイサーを睨むエドゥアルトの横で、ディートリヒがユリアに合図する。
ユリアの手が迷いなくシンデルマイサーの上着を探り、ガラスの小瓶を取り出した。中には黒が混ざったような暗さのある紺色の結晶が入っている。
ユリアが最初から小瓶の位置を知っていたという事は、持ち出した時点で見られていた可能性が高い。青ざめたシンデルマイサーの喉がゴクリと鳴った。
「東国からわざわざ取り寄せたらしいね。」
穏やかに問いかけるのはローレンツだ。
この結晶は熱に弱く、ただの湯でも溶けてしまう。それを人間が飲むと運動失調や温度感覚異常、四肢麻痺などを起こす神経毒となる。
「私を寝たきりにしたかったのか?主治医である君が。ぜひ理由を聞かせてほしいところだね。私が快癒すれば、貴方は腕利きの医師と称えられただろうに。」
たとえ中身が伴わずともね。
そう付け足したローレンツには焦りも嘆きも、怒りすらも見当たらない。
長年信じていた男の裏切りに ――いっそ寛容に思えるほど――、第一王子は静かだった。
――殿下にとって、私は《その程度》だったのか。
シンデルマイサーの顔に恐怖と絶望が浮かぶ。
かつては間違いなく優しい医師だったその男は、ユリアに奪われた毒を見て「これは、万一の…」と呟いた。
「これは……これはあくまで、《お守り》で。違うのです、今日使うつもりなどはなかった!」
「いずれは使うつもりだったのだろう。そもそも毒を隠し持って兄上に近付く事が罪だと、貴方が知らないはずもない。」
ディートリヒの叱責にシンデルマイサーは必死な様子で首を横に振ったが、やがて三兄弟の視線に耐え切れず項垂れた。
国王の親友である事、優秀な医師である事、これまで培った信頼。
全てが崩れていく。
もう逃れる術はないと理解して、シンデルマイサーは力を抜いた。ユリアは彼を押さえつけるのをやめ、しかし拘束は解かずにその傍らに立つ。
「わ、私は――…神様に、なりたかった」
ぽつりと告白したシンデルマイサーの目は、ローレンツだけを映している。
その目に今まで気付かなかった狂気の存在を感じ、ディートリヒは人知れず拳を握り締めた。
もっと早く気付けばきっと、兄の苦しい日々も少なくて済んだ。
どこか遠くを見るように視線を空中に投げ、シンデルマイサーが続ける。
「幼い貴方が流行り病でひどく体調を崩され、意識を失った時に……私は初めて診察をさせて頂きました。」
普段以上に真剣に診たのはなにも、彼が王子だからではない。
苦しげな幼子を、親友の息子を、一人の医師として助けたかったから――…だと、思っていた。
意識を取り戻したローレンツの赤い瞳と、目が合うまでは。
当時を思い出してか、シンデルマイサーはぶるりと身震いして自身の腕を擦る。
「幼いながらも、貴方の風格――苦痛を押し隠して笑うそのお姿に、なんと高貴な方かと胸を打たれました。私はそんなお方に頼られる医師なのだと知った!あの時、貴方が苦しむ匙加減は私の処方次第だったのです。まさに――まさしく、神様になった気分でした。私は殿下の命を握らせて頂いた」
「っ貴様!!」
護衛騎士が憤慨して一歩踏み出したが、他ならぬローレンツがそれを視線で止めた。
赤い瞳の向く先がシンデルマイサーに戻ると、彼は告白を再開する。
「先月、殿下の四肢を潰す計画があったと聞いて……恐ろしくなりました。潰されては血液の循環に支障が出て、予後はそう長くもたない!あ、貴方の身体に手を出して良いのは、主治医である私だけなのに…!」
「ふ」
ローレンツは、「何様のつもりだ」と笑いかけて、やめる。
神様になりたいと言ったのだ、この愚かな男は。
「王位継承権があるから、そんな事が起きた。なら、私が貴方の苦しみを調整できる範囲で……継承権など関わらない段階へお連れして、私が、貴方が終わるまでずっと管理して差し上げようと思ったのです。」
「おぞましい生き物だな、君は。」
ローレンツが言う。
長年の不調で多少やつれてなおも美しい王子は、頷くように瞼を閉じて、見るのも面倒そうに目を開けた。口元は未だ、微笑んでいる。
「私がその手に納まると思ったのか。実に愚かだ」
その言葉を聞きながら、ユリアは表情を変えないまま、閉じた唇に少し力を込めた。
シンデルマイサーと自分では守り方が違う、考え方が違うと心の中で呟く。貴方とは違うのだと、見下ろしながら。
「まったく――…もう少し上手くやればいいものを。」
唇をほとんど動かさずに呟いたローレンツの微かな声を、ユリアだけは聞き取った。
どういう意味かと瞬くも到底口には出せない彼女の見つめる先、かの王子はにこやかに罪人を見下ろして言う。
「長い付き合いだったね、今までありがとう。シンデルマイサー」
「殿下…わ、私はただ、貴方に頼られたかっ」
「その首は括るのと切り落とすの、どちらがいい?」
選んでいいよと王子は言った。
はくはくと動くだけの唇は答えを吐き出せず、それが二人の最後の会話となった。
シンデルマイサーは騎士に捕縛され、長年ローレンツが治らないよう調整していた事、いずれ今以上に不安を覚えたら小瓶の結晶を煎じ薬に混ぜ、実質的に継承権を失う状態まで落とそうと考えていた事を認めた。
彼が主治医になる前からローレンツは病弱だったが、余計な薬が抜ける事でこれまでよりは活発に暮らせるかもしれない。
じきにヴァイゼンボルン子爵領から薬師バーデンもやってくる。ローレンツには未来と違う薬が必要になるかもしれないが、あの頃に救えた治験患者達のためにも、ディートリヒは同じ薬もバーデンに作らせてみるつもりだ。
数ヶ月後に起きるはずだった第一王子ローレンツの事件は、こうして未然に防がれた。
ただ、シンデルマイサーが不安を抱くに至った原因――犯行の発端となったのが、エドゥアルトが防いだ襲撃事件であった事から。
未来で起きた事件を防ぐ事ができたとしても、安心してはならないと。
ディートリヒもエドゥアルトも、改めてそれを実感した日だった。
◇
「ユリア」
人払いをした自室で、ディートリヒは優秀な暗殺者の手を取った。
彼女は既に令嬢の装いに戻っており、第一王子殿下を守れたと、ディートリヒの依頼に応えられたと、誇らしげに目を輝かせている。
「貴女が居てくれたから早く、滞りなく進められた物事が幾つもある。まだ短い間だというのに、随分と助けてもらったな。」
「殿下のお役に立てたなら、何よりでございます。」
「――…本当に、ありがとう。」
少し目を伏せて、ディートリヒが言う。
なぜか後悔が滲むように見えるその表情に、ユリアの顔から笑みが消えた。
――気のせいでしょうか、殿下の「ありがとう」が、「さようなら」に聞こえるのは。どうして?
小さく、すぐ目の前にいるディートリヒにすら聞こえないほど小さく、ユリアは唾を飲み込んだ。
深い青色の瞳がユリアを見る。
真っ直ぐに、あの夜のように。
――殿下。わたくしは、最後まで貴方様を、
「八年前の約束を、貴女は覚えているだろうか。」
ユリアの瞳が丸くなり、それだけでディートリヒは確信したようだった。
彼は何かを堪えるように少しだけ眉を顰め、苦笑する。
「すまない、私は最近ようやく思い出したんだ。ずっと…ずっと忘れていた。」
「謝る必要など!殿下は高熱で魘されていたのです。仕方のない事です」
「依頼という形で、自身の最期を君に託していた。それを思い出して…」
軽く握られていた手が離れ、ユリアの指先が無意識に震えた。
思い出したから契約したんだと言われるのか、思い出したからこれからもよろしくと言われるのか。
それとも――…
「私は、恐ろしかった」
ずんと、重くなる。
あの夜ユリアを怖がらずにいてくれた男の子が、記憶を取り戻した今、「恐ろしかった」と口にした。
依頼は、その場で殺されないための方便だったのか。始めから信じられていなかったのか。
拒絶から出た空っぽの嘘に気付かず、望んでくれたと勘違いしていたのか。
――殿下は、わたくしに「お願いしたい」とは、思っていなかった?
頭から血の気が引いていく。
初めて依頼してくれた、素敵な笑顔の貴方のためにと――そう思って努力してきた自身のこれまでは、一体何だったのかと。
ユリアはそれを考えようとして、考えられない。
短く息を吸ったディートリヒに、「それ以上言わないでください」と言いたかった。
けれど喉は締められたようになって、指先ひとつ動かせなくて、ユリアは彼の言葉を黙って聞く他ない。
「君のその献身を、ひたむきな思いを、努力を……私が知らずにいた事を。」
「……え?」
続いた言葉が予想外で、ユリアは小声で聞き返した。
希望を探すように視線を上げ、ぱちり、ディートリヒと目が合う。深い青色の瞳にあるのは恐怖でも拒絶でもなく、後悔と覚悟。
「君が私の願いに尽くしてくれていたと知らずに、この命を終える事など……あってはならなかった。今更と思うかもしれないが…長い間、声すらかけずにいてすまなかった。ユリア」
記憶の中の少年と、目の前のディートリヒの笑顔が重なった。
「今までずっと、私を守ってくれてありがとう。」
――あの夜と同じ。穏やかで、素敵な笑顔。
胸の奥にじわり、温かい感情が広がっていく。
こみ上げる涙を堪えて、ユリアは微笑みを返そうとした。
なのにどうしてか、ディートリヒに格好悪い姿など見られたくないのに、くしゃりと歪んだ変な顔になってしまう。
「い…いいのです。わたくしは……貴方様が、思い出さずともいいと…本当に、そう思っていましたから」
その命を奪う日まで思い出されなくても構わないと、考えていた。
ディートリヒの記憶には無くても、かつての約束はユリアが覚えているのだから。
約束を果たしたいという気持ちはユリアのものだから、自分さえわかっていればいい――…はずだった。
「ああ、でもやはり……思い出して頂けて嬉しいと、そう思います。」
頬を伝う涙に、ディートリヒがそっとハンカチをあてた。
ユリアが自分の手を重ねても、温かい手が離れる事はない。いつの間にか二人の距離は狭まっていて、ディートリヒの優しい眼差しはどこか、熱をはらんでいた。
「ユリア。君が好きだ」
想定外の言葉に目を見開く。
まるで何年も抱いてきた想いを吐露するように、ディートリヒの声は穏やかだった。嘘偽りなど微塵も感じられない素直な言葉が、ユリアの心にすとんと落ちる。
――…好き。
湧き上がったのは歓喜と、幸福だった。
生涯の主を決めるなら必ず貴方を候補にと、そう考えてきた自身の本当の心をたった今、ユリアは理解する。
――…恋とは、その人が欲しくなることだと。いつか母が申しておりました。
ディートリヒが他の誰でもなく、自分だけを見つめている。
ユリアはその瞳から目が離せなかった。
「私と共に生きてほしいと言ったら、君を困らせるか?」
「――…よろしいのですか。わたくしで」
「君がいい。」
ディートリヒが即答する。
あまりの早さに、ユリアはついくすりと笑ってしまった。ハンカチを持つ手が離れ、少し物足りなく感じる。
暗殺者としてなんと腑抜けた姿なのだろうと、ユリアは虚勢を張った。
「この腕をお望みなのでしたら、なにも娶らずとも…わたくしは仕事をしますのに。」
嘘だ。
先程までは真実だった、今はもう嘘になる言葉だ。
ディートリヒに触れられ名を呼ばれて「好きだ」と言われる、そんな極上の幸福を知りながらただの雇い人に徹するなど、無理があった。心をどれだけ潰せばできるかわからない。
「ああ。でも私は暗殺の腕以上に、君自身に傍に居て欲しいんだ。だから、どうか受けて欲しい」
ユリアの前で跪き、ディートリヒはリングケースを差し出した。
指輪の石座には彼の瞳と同じ色の宝石が輝いている。
「私と婚約してくれないか。」
それはユリアにとって最上の誘いだった。
誰より近くで彼を見つめ、誰より近くで彼を支え、誰より近くで彼を守る。
自分でいいのかと、同じ問いを口にしかけてやめる。誰あろうディートリヒがそれを望んでくれたのだから、ユリアの答えは一つきりだ。
「その依頼、喜んで……っもちろん、お受け致します!」
精一杯の笑顔で答えた途端、ディートリヒの顔が赤く染まる。
彼は急に視線を泳がせつつも「ありがとう」と言い、ぎこちなくユリアの手を取って婚約指輪をはめてくれた。
――…た、多少自信はあったものの……本当に、本当にユリアと本当の意味で本当に婚約を、
ディートリヒの頭はまだ少し混乱している。
嬉しそうに指輪を見つめるユリアが、今にも「婚約者としてお仕えしますね」と言い出しそうな気がしていた。
彼女の白い頬に赤みがさしているのは、ディートリヒの見間違いではないと思っていいのだろうか。
心臓の鼓動が早い事を自覚しつつ、ディートリヒはユリアに問いかけた。
「…君を抱きしめても、良いだろうか。」
「もちろんです。どうぞ、お好きなように。」
「ありがとう」
安堵して微笑んだディートリヒが腕を広げると、愛しの婚約者は大人しくその中に納まってくれた。彼女が苦しくない程度に、けれどしっかり抱きしめる――事ができたのは、三秒ほど。
次の瞬間にはユリアはディートリヒの腕から抜け出し、三メートルほど離れた位置で眉根をきゅっと寄せていた。
やり場のない腕ごと硬直し、ディートリヒが瞬く。本人の許可があったとはいえ、ハグは早すぎたのだろうか。
「……ユ」
「殿下。」
「はい」
姿勢を正したユリアに向き合い、ディートリヒも背筋を伸ばす。
今しがた婚約を了承してくれた相手のはずだが、その表情は主君を諌める臣下のようだった。
「これは、よくないものです。」
「よくない…」
嫌という事か。
ディートリヒは精神的ダメージを負って視線を泳がせた。
生理的に無理だったのだろうか、そう聞くべきか迷いつつユリアを見ると、彼女は耳まで赤く染めて目を伏せている。
「だ、抱きしめて頂いた途端……廊下を通る足音は遠く聞こえ、思考はほぼ使い物にならず、気配察知能力も著しく下がりました。これでは御身が危険です」
「……、うん?」
「どうにか抜け出せはしましたが、それも非常に時間と精神力を要してしまい、わ、わたくしは殿下をお守りしたいのに……!」
珍しく汗まで滲ませているユリアに驚き、ディートリヒはぱちりと瞬いた。
なんだか論点が違うなと、改めて聞いてみる。
「ユリア。先程のようにするのは、嫌か?」
「嫌ではないから困っているのです!一度は打破したのに、あの離れがたさ……ずっとああしていたくて、もっと殿下の温かさを感じていたくて、次に必ず抜け出せるという自信がありません……!」
「……、そうか。」
ディートリヒは目を閉じ、しばし天井を仰いだ。
「可愛いな、私の婚約者は……」
「殿下。どうか今のは一ヶ月、いえ二週間の禁止…三日……いいえ!周囲の安全確認を終えた時だけにしましょう!」
「……善処しよう」
三章 完
四章開始まで、少し間が空きます。




