29.君が抱える過去の約束
フェリクスの元へ向かったユリアと別れ、ディートリヒは城内の自室に立ち寄った。
今は学園の寮に寝泊まりしているとはいえ、こちらの部屋もいつでも使えるよう清潔に保たれている。上着を脱いで椅子にかけ、少々行儀が悪いとは理解しつつ外着のままベッドに腰掛けた。
思い返すのはローレンツとの茶会だ。
苦いコーヒーを飲みながら、ディートリヒは兄に問いかけた。
『幼い頃、兄上も城の庭に出る事があったと思いますが……催し以外で、貴族の子息子女と会う事はありましたか?』
もちろん、エルフリーデの探し人を確認するためだ。
ローレンツは「幾度かある」と答えた。通りすがりの知人が子を連れていれば、自然と挨拶を受ける。
『一番よく覚えているのは、八年前の春かな。……天使のように美しいご令嬢がいてね。なびく金色の髪、煌めく瞳――』
『っ!?まさか…』
『日に焼けた肌、軽々と運ばれる彫像』
『彫像』
『そして高木を登るあの速さ…私も彼女ほど健康だったらと、憧憬の念を抱いたものだ。』
ディートリヒは幼いエルフリーデが彫像を運び、木を登ってみせる姿を想像しかけてやめた。さすがに別人だろう。
一応「他にはいませんか」とも探りを入れてみたが、ローレンツがエルフリーデと庭で会った事実はないようだった。
留学中のイザーク・メルツァーからはまだ返信が届いていない。
そもそもが「エルフリーデ・アイレンベルクが探し出せなかった相手」、こんな短期間で見つけられずとも当然の話だ。
エルフリーデの件はまだ数年の猶予があると、ディートリヒは己を落ち着かせる。
『もう彼に会えないとわかったら、どうでもよくなってしまったのです。』
家柄と実力を踏まえれば、誰もが「次期王妃に最も近い」と言うだろう公爵令嬢。
かつてのディートリヒにとって、姉のように頼もしい人だった。共にエドゥアルトの治世を支える仲間として、彼女を信じていた。
強い女性だった。
しかし。
――…エルフリーデは、たった一人と再会できずに全てを捨てた。エドゥアルト兄上は、王家を抜けてでもリリアン・カルクを望んだ。
生まれ持った責任も、積み上げてきた信頼も、期待も、投げ捨てて。
人は何を天秤にかけ、どちらを選ぶのか。
重苦しい何かを飲み込んだような気になって、ディートリヒは仰向けに寝転んだ。
自然と目に入るのは部屋の天井だ。ユリアの名を呟いたら上から返事があった、そんな日もあったなと思い返す。ディートリヒの中では割と最近の出来事でも、ユリアにその記憶はない。
押したら開くのかもしれない天井の一か所を眺め、ため息をついた。
《あの娘、お前次第で国をも消すぞ》
背を向けたユリアに聞かれないよう、ローレンツはメモ紙に走り書きしてそう告げた。
彼女と二人で何を話したかは明かさず、ユリアを睨む事も、ディートリヒに怒る事もなく、ただ微笑んで。
《だから、お前は必ず生きなさい。》
ディートリヒにとって、長兄のその一言はあまりに重かった。
核心を突かれたような感覚に陥り、それによって強く自覚する。
『依頼だ。私を殺してくれ』
命を落とした日の、最後の選択。
その方がユリアが生き残る可能性は高いはずだと、ディートリヒは考えた。
確かに、そう考えたのだ。
しかし、それだけでもなかった。
――…わかっていた。「ユリアに生きていてほしい」と考えながら、私は……本当はただ、「殺されるならユリアがいい」と、そう思った自分の心を優先したんだ。そういう気持ちがあった事を、否定できない。
ユリアが「つい」殺気を向けてしまっても、ディートリヒは彼女を恐れなかった。
寒気の正体がユリアと知れば警戒も解いた。なぜなら、「彼女になら殺されてもいい」と思っていたから。
一国の王子が持つ事は許されない思考だ。
己の命を軽んじて良い立場ではないし、ディートリヒ自身、決して軽んじたつもりはなかった。
ただあの状況で考えついた選択肢の中で、自身の願いにもっとも近い方へ傾いてしまっただけのこと。
たとえ王子に生まれようと、ディートリヒはたった十七年生きただけの青年だった。
望む方へ手を伸ばし、時に愚かな事をして。
大事なもの全てを守る事などできず、国を次兄に託せるなら自分はいなくていいと考えた。
時が戻った今もなお、ディートリヒは「ユリアになら」と思っている。
あの澄んだ瞳で自分を見る彼女が、最期に見送ってくれるのなら――…。
『…いつかもし、わたしがしぬのなら……』
遠い昔にも同じように考えた事がある気がして、ディートリヒは瞬いた。
なんとなしに頭を動かすと、ベッド脇の窓が目に入る。カーテンは左右にまとめられ、ガラスの向こうには暗くなりかけた空があった。
『『てんしにあった』って言い出しただろ。』
ニクラスの声が脳裏に蘇る。
幼いディートリヒが「天使」を目撃したのは、この部屋だった。
窓から来た同い年くらいの少女と話をした、そう言っていたらしい。「夢じゃない」とも。
少し、自身の鼓動が大きく聞こえた。
ディートリヒは身を起こす事もせず、閉じた窓をじっと見つめている。当時、高熱でひどく苦しかった事は覚えていた。
頭が重くて、目の前はぼやけて見え、そして――…
窓の外、十四歳のユリアが顔を覗かせた。
目を丸くするディートリヒの前で彼女は、窓の鍵が開いていないと気付く。
身を起こしかけたディートリヒに「大丈夫です」と手振りして、止める間もなくどこかへ行ってしまった。
「なぜ外から――いや、それよりも…」
起き上がって無意識に髪を手櫛で整え、視線を泳がせる。
ガラス越しに目があった瞬間、ディートリヒは強い既視感を覚えた。あれはまさしく、彼が知っている光景だった。
――そうだ、私は……このまま弱って死ぬのだろうかと、ひどく恐れていたあの夜に。
『きみは……?わたしをむかえにきたのか。』
『むかえ?』
『わたしはしぬんだろう』
天使がやってきた。
星空を背景に、美しい少女が窓の外から。
幼いディートリヒは、それが人間であるはずはないと思った。
『しにませんよ。わたくしが今――…』
熱で意識が朦朧とする中で、それでも目の前の少女は夢ではないと理解していた。
月光が反射して光る黒髪に、ディートリヒを真っすぐに見る澄んだ赤紫色の瞳。
『――…ほしいという、いらいですか?』
依頼。
その言葉を聞いて、幼いディートリヒは素直に「そうだね」と呟き、そして願った。
『いつかもし、わたしがしぬのなら……きみのような、きれいなひとにおねがいしたい。』
目の前の美しい天使が迎えに来てくれるのであれば、死も恐ろしくはないだろうと思えたのだ。
ディートリヒは彼女に、死の淵での再会を願ったつもりだった。
――それから、何があったのだったか。確か「報酬」と言われて……今思えば、天使に報酬を求められるのもおかしな話だが……私はなんと答えたのだろう?思い出せないけれど、彼女に聞かれたら何でも差し出してしまいそうだな。
ディートリヒのおぼろげな記憶の中で、天使は微笑んでいた。
握ってくれた手を温かいとは思わなかった、そんな気がする。真夜中に外からやってきた天使の手はきっと、冷えていて。
『――…あなたさまがおわるときは、かならずわたくしがいたしましょう。』
愛らしく微笑んで、天使はそう言ってくれた。
思い出したディートリヒは、少し汗の滲んだ手でシャツの胸元を握り締める。
あの「天使」は、間違いなくユリア・シュミットの姿をしていた。
今しがた窓越しに彼女を見るまで、ディートリヒは完全に忘れていた記憶だ。
しかしユリアはどうだろうかと考えて、すぐに結論が出る。
――彼女が忘れているわけがない。
しょっちゅう依頼を欲しがり、達成すれば誇らしげにディートリヒを振り返り、褒めれば嬉しそうに微笑む人だった。
しかし――…。
『私を殺せ。ユリア』
ディートリヒがそう願った時、彼女は全く笑わなかった。
そうせずとも逃げられると説得する素振りもあった。それでも頑ななディートリヒを見て、言ったのだ。
『お望みのままに。約束ですから』
それが何を指した言葉だったのか、今になって思い知る。
当時のディートリヒには深く考える余裕などなかった。「どんな仕事でも期待に沿う」と言ったユリアであったから、そういう意図の話だろうと。
思い出した今では、聞こえ方が全く違う。
――かつて《天使》に会った私は、それが《暗殺者》だと思わなかった。迎えに来てくれるなら、その時に会う天使は君がいいと言った。しかしユリアには、「死ぬ時は君が私を殺してくれ」という風に聞こえただろう。
ユリアは入学した時から既にディートリヒを気にかけ、不審な動きをする同級生を見張っていた。暗殺者として生涯の主を決める前に、一度はディートリヒの依頼を受けたいと言っていた。契約してからは過保護なほど近くで守ろうとした。
彼女は、幼い日に受けた依頼を大事に持ち続けていたのだ。
――ずっと私の身を案じていたのも、先程の「命を終えるまで体調管理を」という発言も。全ては「いつか殺す日まで死なないように」という事か。
「ああ……そう、か。」
ディートリヒは手で顔を覆い、目を閉じる。
彼女にとって、自分はそういう相手だったのだ。こみ上げる激情を堪え、ゆっくりと息を吐く。
「……あの時の私はやはり、間違えたのだろうな。」
ディートリヒを殺す時、ユリアは「次はお間違えなきよう」とは言わなかった。
殺されたからこそ時を遡り、かつて知らなかった多くの事実を知る事ができた。エドゥアルトの本心も、エルフリーデが抱える願いも、忘れ去っていた幼い頃の邂逅も。
自分を殺させたからこそ予想外に増えた選択肢が幾つもあった。戻る事ができて良かったと心から思う。
それでもなお「自分は間違っていた」のだろうと、ディートリヒは考えた。
きっとあの時、ユリアに自分を殺させるべきではなかったのだ。
――次こそは、良い選択を。
目を開いて手を下ろし、深呼吸をした。
ユリアが窓から去ってどれくらい経ったかと壁の時計を見やり、天井に目を向ける。ディートリヒにその向こうなど見えはしないし、物音も聞こえない。彼女の気配を感じ取れるわけでもない。
それでも口を開き名を呼んだ。
「ユリア。いるだろうか」
「っはい!?」
少し焦った様子の声が聞こえ、かこんとずれた天井板からユリアが顔を覗かせた。
ディートリヒが当然のように呼んだ事に驚いたのか、珍しく目を丸くしてこちらを見ている。ディートリヒが構わず軽く手振りをすれば、僅かな着地音と共に彼女は床へ降り立った。
「報告を聞こう。」
「は、はい。確認したところ――…東国から取り寄せられた《毒》は、二種類ありました。」
「二つ?記録上は…」
「一つのみです。城へ届くまで箱には厳重に封がされていたため、運び手であるキンケル侯爵も知らされていないかもしれません。」
何者かが東国への注文に密かに追加していたようだ。
今回はディートリヒの調査命令によってユリアが内密に申し出て、フェリクスを通じて宰相が許可を出し、共に中を確認しての発覚である。当然、時が戻る前はこの段階で彼らが調べる事はなかった。
「どちらもこの国にとっては新種ですが、東国から添えられた文書にある程度の効能が書かれておりました。片方は少量でも死に至る毒、もう片方は――…」




