27.君が私を見つめる意味
私が望んだ一年という契約期間も専属という条件も、ユリアは微笑んで受け入れた。
騎士がやって来る頃には元通りに顔の下半分を布で覆い、長い黒髪はフードの下、垂れたベールで目元も隠している。私がいるのはまずいという事でカンテラはユリアに渡し、物陰から身柄の引き渡しを確認した。
「では、詳細についてはまた明日に。おやすみ」
「はい、殿下。おやすみなさいませ」
ユリアに見送られ、私は心の中で安堵の息を吐きつつ男子寮へ向けて歩き出した。少しだけ肌を冷やす春の夜風が吹いていく。
しばらく真っ直ぐに歩いて、立ち止まった。
かつての私はここで振り返り、その先にユリアはいなかったのだ。
今はどうなのだろう。心臓がどくりと音を立てる。
期待しない方がいいとは思いつつも振り返ると――…木々の向こう、遠く離れた東屋の近くにはまだ彼女がいた。
軽く手を振れば彼女が控えめな高さで、しかし明らかに常人ではない速度で振り返してくれる。
――ああ、ユリアだ。
そんな風に思って笑みが零れた。
装束のせいで顔などわからないのに、彼女も微笑んでくれているだろうという確信がある。
そう――たとえ特別な役目を持った一族だとしても、凄腕の暗殺者であろうとも、彼女が素直な少女である事は変わりない事実だ。
美しく、可愛らしく、強く、誇らしげで、どこかずれている君。
いつだって、私を真っ直ぐに見ていてくれた君だ。
私が恋をした、愛しく思った、君なのだ。
明日はもっと話をしよう。
君と私の、これからのために。
――…とは、思った。確かに、思ったんだが。
「では、わたくしとお話し致しましょう。殿下」
翌日のランチタイム、私はそう囁いてくるユリアを見る事もできていなかった。
なにが、「未来で多少慣れた」だ。心臓が早鐘のように鳴っているし、顔が熱いし、目は泳ぐし、汗をかいている気もするし、緊張で声が上手く出ない。
「殿下?」
「…あ、あぁ……その、一つ聞きたいんだが。」
「はい!何なりと。」
「近くないか……?」
今日貸し切ったのは、エルフリーデとの面談で使ったのと同じ広さのサロンだ。
私達は婚約者ではないため、密室で二人にはなれない。声を落とした会話では届かないだけの距離を取り、ニクラスが入口の壁際に待機してくれている。
ユリアと会うのでサロンを貸し切ると伝えた時は、呆気にとられた様子のニクラスに「意外と手が早いな」と言われもした。以前の私は三年間ずっと話しかけられなかったからな。
立場と性格を踏まえ、そう驚かれるのもわか……今思うと、「手が早い」は語弊があるな。そんな言い方するなと後で言っておこう。
現実逃避しがちな思考をやめ、瞬いた私は改めて今の状況を確認した。
一つのテーブルを挟み、二人掛けソファが向かい合わせに置かれている。
私はユリアと対面で座るつもりだったが……「座ってくれ」と勧めた結果、彼女はなぜか私の隣を選んだのだ。
それも太腿や腰、肩が触れるほどぴったりと――考えるな。そして横を見るな。何かが負ける。
ニクラスからの視線が突き刺さっているが、ユリアを止めないあたり、あいつもあいつで彼女の行動に驚いているのだろう。
そうして私が何とか絞り出した言葉が「近くないか…?」だ。疑問形ではあるが、答えの分かりきった問い。相手に自分の意見を伝えるための質問だ。
近い。
ユリア、これはちょっと近過ぎる。
自ら離れるという拒絶もできない私の、精一杯の主張だ。しかし彼女には効いていない。
「依頼人様を――すなわち殿下をお守りしたいのです。わたくしがこうしてお傍に居れば、それは確実でございますので。」
ユリアがはりきっている。
うきうきした声が可愛いしきっと今は自信ありげな笑みを浮かべているだろうから是非それを見たいが……未来では対面で座った状態で契約について話したので、こうなるのは予想外だった。
「ええ、今後は友人でも側近でも、お好きな立ち位置でお傍に置いて頂ければ幸いです。わたくしが必ずお守りします、殿下……!」
本当に、すごくはりきっている。
そうか……学生時代のユリアだとここまではしゃぐか。可愛いな。私以外には決してしないでほしい。
そして良い香りがする。
「ん…うん、君の言う事はわかるんだが。ニクラスが口外しないとはいえ…適切な距離というか」
「お嫌でしょうか」
「嫌ではないです」
思わず本音を口走ってしまった。
しかし、彼女に悲しみが滲んだ声を出されて耐えられる男がいるだろうか?いや、いない。少なくとも私には無理だ。実際まったく嫌ではないのだから。
僅かに身を引いていたユリアが私との距離を元通りに縮め、微笑んでいるのだろうとわかる声で「ありがとうございます」と言った。
ぐっ……前回は一体誰が学生時代のユリアに依頼した?君は全員にこんな感じなのか?依頼人だからといっていきなり懐き過ぎじゃないか?
そんなに可愛くてどうする、依頼人全員が君に惚れ倒してしまうぞ。
「実はかねてより、生涯の主を決める前に一度は殿下のご依頼を頂きたいと思っていたのです。それがまさか、長期の専属契約を結んで頂けるなど……!」
声の近さからして、ユリアはずっと私の方を見て話している。危険すぎる。
ものすごく視線を感じるし、そんなに喜ばれると私も嬉しいし勘違いしそうになる。
落ち着け、ユリアは侯爵のように王族に仕えてみたいんだ。私と結婚しても良いと言ってくれたのは確かだがあの時と今のユリアは違うし、つまりそういう事だ。勘違いするな。
「本当に、夢が叶ったような心地にございます。腕を認めて頂けるよう、全力で殺らせて頂きますね。」
「うん、全力でやるのは良い事だな。ただその、シュミット侯爵令嬢。」
「今はユリアとお呼びくださいませ。殿下」
「ん゛んっ。わ、わかった……それで、あの。」
「はい」
「…これほど近くで見つめられると……さすがに、照れるのだが。」
確かに君は未来でもなぜか私をじっと見ていたが、そうしていたいとも言っていたが、これ以上は心臓がもたない。
私の頬は既に赤くなってしまっているはずだ。ユリアは気付いていないのか?
依頼人とはいえ異性にここまで近付くなど随分無防備だが、強いとはいえ今まで大丈夫だったのだろうか。たとえ返り討ちにできるとしても、君に不快な思いはしてほしくないんだが。
「……、でも。健康状態の確認は、大事でございます。」
「…そうだな。」
健康状態の確認だったのか。
僅かながら、私の見た目が好みという可能性があるのでは…と思ってしまっていた自分を殴りたい。自信過剰か。
……いや、それにしても観察が長くないか?このままもし私の心臓がやられでもしたら、ユリアが責任を感じてしまうのでは。
「状態を見るのに…あと、どれくらいかかりそうだろうか。」
「そうですね……可能であれば、殿下が命を終えるその日までわたくしが体調管理を」
「長いな!?」
あまりの事に驚き、反射的にユリアを見てしまう。至近距離で目が合った。
宝石のように輝く赤紫の瞳が丸くなり、私をじっと見つめている。可愛い。
白くきめ細やかな肌も長い睫毛も目鼻立ちも、ユリアは全てが美しく整っていた。あるいは、惚れこんでいるがゆえにそう見えるのか――…嬉しそうに眼差しを和らげる君は、まるで私を…
ごくりと唾を飲み、目をそらして口を開いた。
「い、依頼の話に移る。」
「はい殿下」
ユリアが目にも止まらぬ速さで対面のソファへ移り、後から風が追いかける。遠くでニクラスが目をこすった。見間違いではないと伝えてもいいが、今は放っておこう。
私は咳払いして座り直して姿勢を正し、ユリアは真剣な表情で私の言葉を待っていた。
……という事はやはり、先程の距離で見ている必要はなかったのでは…いや、今は本題が先だ。
落ち着いていこう。今の私はまだ、ユリアが毒や薬を判別できる事は知らないという事になっている。
「暗殺とも護衛とも違うが…君に、薬物の鑑定はできるだろうか?」
「お任せを。わたくしが知っているものに限りますが…毒も薬もおおよそ、流通しているものは全て叩き込んであります。」
シュミットの教育は凄まじいな…。
私は「頼りにしているよ」と微笑み、ローレンツ兄上から預かった薬包紙を取り出した。白、水色、薄紅色の三種類だ。
中を見て良いかと問われて了承すると、ユリアの細い指先が丁寧に薬包紙を開いていった。
私の目には干からびた植物が複数種混ざったものに見える。これを数十分煮詰めて濾したものが兄上に処方された薬となるのだ。
「…粉薬や丸薬などと違い、手間が必要なものですね。この中に毒はありません」
毒は無い、その一言にひとまずは安堵した。
少なくともこれらの薬に、じわじわと身を削るような毒は入っていないのだ。シンデルマイサーが現時点で裏切っている可能性は低い。
「効果は炎症を抑え、痛みを軽減し、血流を改善し…解熱作用を持つものもありますね。少々値が張るものが含まれていて、薬包紙の取り違えが決してないよう手書きではなく色分けしている――…かなり高貴な方が常用されているものと推測しております。」
「その通りだ。知識があるとそこまでわかるものなんだな」
「レヴィン様達に任せず、殿下が直接保管してお持ちになった事も踏まえれば…自ずと、どなた様の物かも理解できます。」
ユリアの赤紫の瞳が私を見つめる、その眼差しには重みがあった。
僅かにも笑う事のない今の君は、私が何を思ってこれを手に入れたかをわかっている。その上で、「安心してください」とは言わない彼女の言葉を、私は覚悟して聞くべきだろう。
「毒をお疑いですか。」
「ああ」
「ならば…」
誰の者か理解した上で――即ち、「毒が混入している可能性が限りなく低い」事は、前提として。
それでも疑うのであればと、ユリアは包み直した薬を静かに置いた。
「これだけでは、服薬に乗じて毒を盛られているかどうか……判断できかねます。」
「薬に問題がなくとも、他の手法でという事か。」
「何分、煎じ薬ですので…煮詰めて濾して、口へ運ぶまで。作業をする者、作業場へ出入りできる者、カップを用意する者、運ぶ者、薬の保管場所を把握している者。もちろん信頼できる者を揃えていらっしゃる事と存じますが……長年続くものを疑うなら。全てを疑わねばなりません」
そう語るユリアの言葉には真実味がある。
実際、彼女が考えているのは「防ぎ方」ではないだろう……自分なら、どのタイミングで仕込めるかだ。
それこそ私が君に求めている意見であり、必要な予測。
暗殺の手口は暗殺者に聞く。
「特に常用されるのであれば、その方がお持ちの全てを確認しなければ《問題なし》とは言えません」
「全てか」
「はい。仮に十日分保管しておられるなら、そのうち一つずつを見たとて残りはどうか不明です。」
「医師が薬を持ち込んでからは、本人しか開けられない場所に保管されている。」
「ではその前後を疑うべきでございます。ただ、おわかりの事と存じますがどこまでやるか――……毒の混入がないよう一日張り付いたとて、翌日決行されては意味もありません」
時期はわかっている、兄上を寝たきりに追い込んだ毒が使われるのは数か月後のことだと。
しかし「全て」を疑うなら。
顎に軽く手をあて、しばし考え込む。
ローレンツ兄上は数か月後に突然倒れてしまい、診察の結果毒を盛られていた事がわかる。一週間意識がないままだった兄上は奇跡的に目を覚ましたが、もう起き上がれなくなっていたのだ。
まだ、時間に猶予はあるのかもしれない。
だからこそ、今できる事はしておいた方がいい。
「ユリア」
「はい。殿下」
薄く微笑みを浮かべ、ユリアは私の指示を待っている。
まるで、「お任せ下さい」という声が聞こえるかのようだった。
「私の兄に会ってくれるだろうか。」
「喜んで」




