26.君とあの夜をもう一度
元々、ディートリヒはユリアを諦めていた。
王子である自分が国王が挙げた候補者から結婚相手を選ぶのは当然で、その中にユリア・シュミットの名はなかったから。
シュミット家が「自ら選ぶ」と知っていれば、在学中にもう少し声をかける努力もできたかもしれないが――…何も知らないディートリヒは、叶わぬ恋と思ってただ遠くから彼女を見ていた。
もし勇気を出して話しかけられたとしても、彼女と結ばれる事はないのだ。
しかし――
『わたくしをお選びください。』
予想外の形で、ユリアは自らディートリヒのもとへ飛び込んできた。
暗殺者として雇ってもらうために、護衛としてディートリヒを守るために、婚約者となってでも依頼者のために。
そうして婚約してから命を落とすまで、短くも大切な日々を送った。
『……わ、私の妃になってくれるのか?』
『?はい。』
一年の偽装婚約ではなくなるとしても、ディートリヒと結婚しても構わないとユリアは言った。
王子だから、依頼者だから、貴族として受け入れるのかと問い質せば否と答えて。
『殿下なら、わたくしが後悔する結果にはならないと思うからです。』
そう言ってくれた事を、今のユリアが覚えていないとしても。未来でディートリヒと共に在った彼女ではないとしても。
ディートリヒはもう、ユリアが他人に嫁ぐ事など耐えられないのだ。
だから、必ず…
――あの夜が来る。
今日は、前回のディートリヒがユリアに心を奪われた日だ。
忘れる事などありえないが、それでも忘れぬよう手帳に印をつけていた。
兄に悩まされ、寝付けず夜中に出歩いて。旧庭園の東屋へふらりと向かった夜が来る。
――彼女はもう、フェリクス殿から話を聞いただろうか。
朝起きた瞬間から既に夜が待ち遠しく、じりじりと燻るように焦る心を落ち着かせて授業を終える。
そうして少し緊張しながら過ごしていたディートリヒを、放課後の廊下で呼び止める者がいた。
「ご機嫌よう、ディートリヒ殿下。今、少しよろしいでしょうか。」
たっぷりとした美しい金色の髪、意思の強い碧の瞳。
淑女の微笑みを浮かべ、エルフリーデ・アイレンベルク公爵令嬢は僅かに首を傾げてみせる。
内心の動揺を表に出さぬよう気を付けて、ディートリヒは穏やかに「もちろん構わない」と微笑み返した。
本来ならとっくにエルフリーデと何度も話し合い、エドゥアルトに苦言を呈していた時期だ。
それが城へ行ってローレンツに会ったり、エドゥアルトやニクラス達と打ち合わせたりと、今回のディートリヒはエルフリーデと殆ど話せていない。
――対策に夢中で、ユリアの事以外「前回をなぞる」意識はしていなかった。不自然だったか?少なくとも今のエルフリーデはまだ、私を殺す気がないはずだが……
二人は広々としたサロンへ場所を移し、ティーセットを並べたテーブル越しに向かい合った。壁際にはニクラスや、未来でディートリヒの護衛騎士を務めた男子生徒、エルフリーデの側仕え数名が控えている。
少しの雑談を経て、エルフリーデは本題を切り出した。
「エドゥアルト殿下の様子はお聞き及びかと存じますが……ディートリヒ殿下に置かれましては、どのようにお考えでしょうか。」
「…兄上のことだ。遊びでやっているわけではないと思う」
「――…、そうかもしれませんわね。」
エルフリーデの眉がごく僅かに動いたのは、返答が意外だったせいだろう。
前回のディートリヒは、彼女にこの話題を出されると兄を説得したがったものだ。
「もちろん、簡単に許される相手ではない事は兄上もわかっているだろう。カルク伯爵家の財政状況は厳しい」
「えぇ。エドゥアルト殿下が殿下である限り……どのような意味合いだとしても、あの方に妃は荷が重いでしょうね。万一降りても公爵位。すぐ潰れてしまいますわ」
「……自衛ができる令嬢でもないからな。問題はそれでも猶、兄上が望んでいるということだ。」
「本気でそうお思いで?殿下とあの娘は、まったくと言っていいほど関わりが無かったのですよ。」
エルフリーデが知っている限りではそうだろう。
しかしディートリヒは知っている。
エドゥアルトにとって、リリアン・カルクは何年も共に過ごしてきた妻だ。
自分の子をその身に宿してくれた女性なのだ。
彼にとってはもう生涯、リリアンの代わりはいないだろう。
「…その通りだが、まだ様子を見ようと思っている」
「……左様ですか。」
「甘いと思うか?」
「いいえ、今はまだ。」
淑女の微笑みを浮かべて、エルフリーデが言う。
碧の瞳にはディートリヒが映っていた。
――…もう少し、感情的になると思っておりましたが。一体、兄君達と何を話されたのだか。
エルフリーデから見て、近頃のディートリヒは急に精神的に大人になったようにも思える。
まだ少しあどけなく弟のようであったのが、まるで年上のような落ち着きぶりだ。それでも戸惑いなど微塵も表に出すことなく、エルフリーデは穏やかに頷いてみせる。
「あの方の気の迷い……残念に思います。けれどまだ婚約者ではない以上、わたくしから苦言を呈するのは限界がありますわ」
まるで、エドゥアルトの婚約者になる気があるかのようだ。
しかし未来で死を望まれたディートリヒにとって、エルフリーデの言動すべてを鵜呑みにする事はできない。現に彼女は未来で、リリアンを排除するような強硬手段はとらなかった。
エドゥアルトに素行を正してほしいような事を言いながら、その実、彼がリリアンと結ばれても構わないと思っている。
エルフリーデが望んでいるのはエドゥアルトではないから。
幼い頃に会った少年と再会したい、そんな願いを心に秘めている。
「わたくしも様子見をすると致しましょう。しばらくの間…真意がわかるまでは。」
「そうだな。もし何か動きたくなったら、動く前に私にも相談して貰えるのだろう?」
「まぁ。ふふ……町の人情沙汰ではないのですから。わたくし、いきなり殿方の頬を張るような真似は致しませんよ?」
「はは…それは勿論だが。」
いきなり殺そうとはしてきたよな、などと言えるはずもない。
ディートリヒは苦笑いをして誤魔化し、また話そうと告げて会話を終わらせた。
互いに会釈し、その場を後にする。
「ツァイス、もう行くぞ。」
「あっ――…失礼しました。すぐに」
エルフリーデの背を見送っていた生徒が、ニクラスに声をかけられ慌てて踵を返した。
◇
夜になり、私はかつてのようにひっそりと寮を抜け出した。
雲の切れ間から差す月明かりと、片手に持ったランタンの灯りを頼りに歩く。
日中もろくに人が来ない旧庭園。
その東屋は雑草だらけの芝生の上にあり、周囲は雑木林に囲まれている。
逸る気持ちを抑え、懐かしい東屋へ近付いた。
一陣の風が吹き、木々がざわめく中で異質な音がする。
上から聞こえたそれは靴音で間違いなく、「ああ、彼女が来たのだ」と胸が苦しくなった。
月が雲に遮られ、影が落ちる。
私はごくりと唾を飲み、顔を上げ――…
「《こんばんは。》」
……予想とは些か違う光景に、固まった。
ユリアに見惚れて固まるまいと、彼女ときちんと話すのだと意気込んでいた私ではあるが、それでもしばし固まってしまった。
東屋の上に居たのは仕事着のユリアで、鼻と口は布で覆い、かぶったフードから垂れる黒のベールは薄く透け、瞳の色を隠している。
一体どうやっているのか声は青年のようにも聞こえて、男女不詳の姿となった暗殺者は私を見下ろしていた。
「…君は……」
私が恐怖や逃げる素振りを見せないためか、ユリアも焦ることなく軽やかに飛び降りる。
数メートルの距離を空けたまま、彼女はくすりと笑うように首を傾けた。
「《お一人で夜に出歩かれるなど、危ないですよ。》」
「………。」
つい、じっと観察してしまう。
月明かりとランタンの火だけでは見づらいが……ベールの向こうで、ユリアは微笑んでいる。そんな気がした。
――…当然ながら、私に正体がバレていないと思っているな。ひとまず気付いていないフリをしなくては。
会えた嬉しさで口元が緩まぬように堪え、真面目な顔を作る。
それを警戒と受け取ったのか、ユリアは丁寧な仕草で一歩下がった。
「《このような格好でお疑いでしょうが、害意はございません。》」
「…わかっている。私を害するつもりなら、とうにできただろう。」
「《――…はい。》」
「君の用件は?」
「《それは勿論…》」
用件など、本当はむしろ私があるのだが。
泣かせてしまった私が再び君の手を借りるなど本来到底許されない事なのかもしれないが、それでも私は君に傍に居て欲しいし、私が君の傍に居たいと思っているし、あわよくば今すぐ抱きしめてあの時はすまなかった私が悠長に構えていたせいだと謝罪したいくらいだが……いや待て。抱きしめてしまっては単に私自身への褒美のようになってしまい私が良い思いをするだけでユリアに謝る態度としては全くよろしくないのではないだろうか?やめろこの不埒者が
「《……殿下。聞いていますか?》」
「はい。」
「《………?》」
首を傾げるユリアが可愛いが、私はあくまで「散歩中に突然現れた何者か」に対して会話せねばならない。
今しがた告げられたのは、私が裏稼業の者を探していると聞いたこと、そして腕には自信があるという事だった。
「危険な仕事を頼むかもしれないが、それでも構わないと?」
「《はい。報酬は頂きますが、内偵でも護衛でも暗殺でも…ご期待に応えてみせましょう。》」
「今私を殺さないこと以外に、君が信用できるという材料を出せるだろうか。」
「《……お考え、ごもっともでございます。実はちょうど今しがた…貴方様を狙う男を捕えたのです。》」
「…何だって?」
聞き返すと、ユリアはいそいそと――仕草に素が出てしまっている…!――私を風下へ案内した。
草むらの奥を覗き込めば、白目を剥いた同級生が猿轡を噛まされ厳重に縛られている。完全に気絶しているようだ。
「彼は一体…」
「《入学以来殿下をじろじろと見ておりましたので、少々調べたところ…第二王子殿下を次期王へ推す一派から、前金を受け取っていたのです。》」
君は、入学した時から既に私を気にかけてくれていたのか。それは……たとえ「王子だから」だとしても、嬉しいな。
ユリアによれば、彼は私が日中に時折立ち寄るこの東屋に、即効性の高い毒刃を仕込もうとしていたらしい。
「《それで少々お話を聞きまして、結果このように。無論この後は証拠と共に騎士団へ引き渡します》」
「そうか……君は今夜、この男を張っていたのか?」
「《はい。御身に何かあってはいけませんから》」
もしかすると、最初のユリアもそうだったのだろうか。
私があれ以上近付いてはいけないから、姿を現して帰らせたのか。
もう、その答えを知る術はないけれど。
「…私の知らないところで、頑張ってくれていたんだな。ありがとう」
目を細めて微笑むと、ユリアはベール越しでもわかるほど嬉しそうに笑った。
「――いえ、いいのです!わたくしが勝手に…やっ、た……」
危うく舌を噛みちぎるところだ。
礼を言われて地声が出てしまうのは可愛いが過ぎる。私が相手だから、ついはしゃいだ…などという妄想はやめておいた方が良いだろう。
なるほど三年という月日の分、ユリアは未来と比べると精神的に幼く、経験不足なのだ。
失敗と思ったのか、黙り込んだユリアは縛られた男に元通り布をかぶせ、草むらから私のいる方へそっと出てきた。
未熟さを見せたと気にしているようだ。少し俯きがちなのが愛おしい。できる事なら今すぐ抱きしめ――不埒ッ!
脳内の己を殴り飛ばし、私は軽く咳払いした。
「…叶うなら。君が何者かわかると、信用もしやすいのだが。さすがにそれは難しいか?」
「!いえ…」
彼女が顔を上げ、躊躇いなくフードを脱ぎ口布を下ろす。
美しい令嬢はその素顔を露わにし、一つに結われた長い黒髪が夜風になびいた。桃色の唇が彼女自身の名を呟く。
「ユリア」
赤紫の瞳で私を見つめ、彼女は胸にそっと手をあてて微笑んだ。
白い頬が赤らんで見えるのはきっと、私の願望なのだろうけれど。
「わたくしは、ユリア・シュミットと申します。」
共にいた「私」を知らない彼女との、これは再会だった。
記憶を持たない、少し違う存在だとしても私は……「また会えた」と、そう思う。
「では、シュミット侯爵令嬢。」
「はい」
「長い付き合いになると思うが…どうか、君に受けてほしい。」
差し出した手に、彼女は少し驚いたように目を見開いた。
これは相手に忠誠を誓わせるものではなく、女性をエスコートするための差し出し方だ。
「私と契約してくれないか。」
「――…嬉しいです、殿下。もちろん」
柔らかな手が重なる。
互いの手を握り、私達は微笑み合った。
「その依頼、お受け致します。」




