25.君みたいな天使の幻覚
少人数で話すにはうってつけの小型サロンで、ディートリヒは最も信頼する側近と四角いテーブル越しに向かい合っていた。
ニクラス・レヴィン伯爵令息。
彼はディートリヒと同い年の幼馴染でもあり、柔らかな新緑の短髪に薄茶の瞳をしている。その手には今しがた鞄から取り出した書類を持っていて、その端を軽く整えてからディートリヒへ差し出してきた。
一枚目には簡単な年表が記されている。
「頼まれた件の報告だ、まずアイレンベルク。公爵がエルフリーデ嬢を城へ連れてきたのは、幼少期に限って言えばそう多くはなかった。九年前の冬、八年前の春と秋。この三度だな」
ニクラスが年表を指したうち、二つには赤いインクでバツ印が添えられていた。
公爵の行き先や用事の内容などから、庭を通ったり窓越しに見るような可能性がかなり低いと考えられる日だ。
すると、エルフリーデが《男の子》に会った可能性が高いのは一つきり。
「……八年前の春、か…?」
「俺らが六歳の頃って事だな。」
何かが引っ掛かり眉を顰めたディートリヒの呟きに、ニクラスが軽い口調で返す。
六歳の頃、その一言で以前の会話が蘇った。
『俺覚えてるぜ。ディートリヒが昔『てんしにあった』とか言い出したの。』
あの時そう言ったのはニクラスだ。
庭で遊んで怒られたとディートリヒの記憶にない話が始まり、何歳の時かと聞けばイザークがあっさりと答えた。
『六歳、十一年前だ。そうしょっちゅう来ないから覚えてる。』
眉間の皺を深め、ディートリヒは年表を見下ろす。
主にアイレンベルクに関する事が書かれているため、浮かんだ疑問の答えは書いていない。しかし。
――私が高熱を出したのは……ちょうどこの年の春ごろ、ではなかっただろうか。
「ニクラス。公爵達が来たこの日と……私が熱で倒れた時期の前後関係はわかるか。」
「え?……あー、お前が熱出したこと、あったな。確かに近いか?」
「ほんの数日ではないかしら。」
カーテンの閉まった窓の下、ソファに座って本を読んでいた令嬢が口を挟んだ。
ディートリヒとニクラスが揃って彼女の方を見る。
ヴィルマ・フューラー伯爵令嬢。
耳にかけたキャロットオレンジのボブヘアを左のサイドだけ三つ編みにし、後ろへ流してヘアクリップで留めている。王子に呼ばれようとも本を手放さない読書家であり、ニクラスの婚約者だ。
「その日はニクラスが病み上がりの殿下を連れ出して、お義父様に怒られた日ですから。殿下はそれより先に高熱で倒れ、寝込んでいらっしゃったはずですわ。」
「何で俺が怒られた日をそんな細かに覚えてるんだよ…!まぁ、いいけど。」
「では同日……時間帯にもよるだろうが、私はお前達と遊んでる時にエルフリーデ嬢を見た覚えはないな。」
「俺もないよ。つっても、お前は当時熱あったからなぁ。幻覚も見てたし。」
「げ、幻覚?」
さっぱり身に覚えのない話だった。
ディートリヒがつい聞き返すと、ニクラスは事もなげに頷く。
「『てんしにあった』って言い出しただろ。だから俺達はあの日、庭に行ったんだ。」
「……どういう事だ?」
ニクラスは未来でも同じ話をしていたが、ディートリヒはその時詳細を聞かなかった。
ヴィルマがめくった本のページがぱらりと音を立てる。
「お前が風邪引いて何日か寝込んで、熱が下がった頃に俺とイザークで見舞いに行った。そしたら『まどからてんしがきてくれた』とか、『ここで話をしたんだ』とか、嬉しそうに言っててさ。」
「……、窓から?私の部屋は五階だが」
「だから、幻覚だろ。」
「まったく記憶がない…」
八年前として話をしているが、ディートリヒにとってはさらに三年経った、十一年前の話である。
おまけにその後熱がぶり返したとあっては、ここまで聞いても何一つ思い出せなかった。
「その時のお前、結構な剣幕だったんだぞ?『ゆめじゃない』って。まぁ大人は信じないよな…熱で記憶が混濁してるとか言われてたよ。」
「だろうな。私でもそう思う…あるいは密偵か何かを見てしまったか。」
「それはそれで危険だな……ま、密偵の線も無いだろ。お前が見たのって、『同い年くらいの女の子』だったし。」
「…ますますあり得ないな。五階の窓から現れる少女など――…」
――………、ん?
「正直俺もどうなのかなーって思ったけどさ。あんまり大人が信じなくてお前がしょげるから、イザークが『じゃあおれが神様にきいてみるわ』とか言い出して。」
――私と同い年ぐらいの少女で……城の警備を掻い潜り、五階の窓から現れて、私が「天使」と言い表した。
「それで、なんだっけな。曖昧だったんだよな答えが…で、まぁ子供らしく庭へ探しに出たわけだ。最終的にかくれんぼになって、アルトナー卿が探しに来て。ちょうどお前がぶっ倒れて、熱がぶり返したのがわかって、俺だけ父上に殴られた、と。」
――……ユリアじゃないのか?その《天使》。
「ニクラス。私は天使について何か他に言っていたか?髪の色とか。」
「ええ?そこまで覚えてないな……お前がまた会いたいとか言うから、大人は困ってたけど。ほら、天使は美人だって言うけど、そもそも死ぬ時に出てくるものだろ?王子が天使に会いたいなんて物騒だからな。」
「二人とも。話が脱線しているようですけれど、それでいいのかしら。」
ヴィルマが静かに口を挟み、ディートリヒとニクラスは顔を見合わせた。
確かに脱線している。ディートリヒは浮かんだ疑惑に「まさかな」と心の中で呟いて、軽く咳払いした。
「…とにかく。病み上がりの私とお前、イザークの三人が庭で遊んだ日と、エルフリーデ嬢が庭へ来たのは同日という事だな。」
「誰かがエルフリーデ嬢と会うとこ見てないか、イザークにも手紙で聞いとくか。あいつ隠れると大体寝てるから、あんまり期待できないけど……。」
「よろしく頼む。他の件はどうだ?」
一つ頷いたディートリヒが聞くと、ニクラスは視線を一瞬だけヴィルマの方へ向ける。
彼女は膝の上の本へ目を落とし、読書に戻っていた。
「…お前が探しものをしてる事は、伝わってると思う。ほぼ確実だ」
次期侯爵フェリクス・シュミットに、ディートリヒが「裏稼業の者を探している」と伝えること。
詳細を伏せて任務の達成を報告したニクラスに、ディートリヒは頷き返した。ニクラスがほぼ確実と言える程の状況を、フェリクスが察知できないとはとても思えない。
暗殺者の家系であるシュミット侯爵家に、第三王子が依頼先を探している事が伝わった。
ディートリヒの手元にある資料を勝手にめくり、ニクラスは次の報告に移る。
未来で第一王子ローレンツを殺した《東国の毒》の件だ。
「東の島国からの輸入については、グナイスト男爵家から織物を輸入したいと申請が上がって許可されてる。ルートは離島を経由してイルケールに着荷、だが…」
「その翌日に、キンケル侯がイルケールに出向く予定……?」
報告書に綴られた文字を指で辿り、ディートリヒが眉根を寄せる。
侯爵は確かに輸出入の管理部門で仕事をしているが、報告によればその日は休暇願が出されている。仕事ではなく私用という事だ。
「そこなんだよ。侯爵の趣味って絵画収集だろ?織物に興味が出ましたって言われたら、わからんでもないけど……お前が追ってる《品》を踏まえると、ちょっと妙に思えてくるよな。――ヴィルマ」
「えぇ。グナイスト男爵夫人について話を集めたところ、近々動物好きの方が来訪くださる予定だと、楽しみにされているそうですわ。恐らくそれが、」
「何だって?」
ディートリヒが目を見開いて聞き返し、ヴィルマが口を閉じた。
ぱちりと瞬いた彼女から目を離して記憶を辿り――ディートリヒは、ひどく苦い顔をした。
「ああ、そういう事か。」
「何だよ。」
「ヴィルマ嬢、夫人に急ぎ忠告を。キンケル侯は動物の絵画は好きだが、本物はダメなんだ。」
「え…」
――侯爵は、初対面で無礼を受けた事が何年経っても許せないと言っていた。彼が夫人と会う機会などいつあったのかと思っていたが、この時だったとは。
「彼女が飼ってる鳥獣類を勢ぞろいさせようものなら、間違いなく卒倒する。男爵家が侯爵に恥をかかせた事になるぞ」
「――それは、いけませんわね。一報出して参ります」
「頼む。」
さっと本を閉じたヴィルマが立ち上がり、短く一礼して退室する。
ニクラスは片眉を上げて何やら思い返している様子だったが、一拍置いて「ああ」と手を打った。
「そういや、庭に下りてきたハトに驚いて持ち物全部落っことしてたな。」
「普段は温厚だが侯爵家の誇りを重んじる方だ。恥をかかせては向こう――何年経っても、許さないだろう。」
向こう三年は、と声に出すことができずに言い直す。
今度はニクラスが「ともかく」と仕切り直した。
「グナイスト男爵が取り寄せた織物がイルケールに着いた翌日、キンケル侯爵がグナイスト男爵邸を私用で訪れる。……布に隠した何かを、受け取りに行くのかもな?」
「そこからは侯爵自身が運び、城へ届けるというわけか。」
「誰の命令でそうなったかまで調べられなかったが…シンデルマイサー先生もいる毒の分析チームに、近々仕事があるらしいってのもわかってる。十中八九、陛下なり宰相閣下なりの正式な命令だろうな。」
未来のユリアによれば、《東国の毒》は研究のために一瓶取り寄せられた。
シンデルマイサーがその研究に加わっていたこと、その後は城の保管庫で眠っていたこともわかっている。
恐らく、ニクラスの予想は合っている。
――城へ届いて、分析されるまではいい。問題は保管方法……そして三年後までに、誰がいつ盗み出したのか。
「ありがとう、ニクラス。だいぶわかってきた気がする」
「俺はいまいち主旨を掴めてないけどな。お前の目的が何なのかは、聞かせてもらえないのか?」
「それは……」
言葉が勝手に途切れた。
ディートリヒとて言いたいが、言えないのだ。
ニクラスを信用しているかどうかという問題ではない。しかしここで謝れば、黙ってしまえば、お前には言えないと明言したようなもの。
何なら言えるのか。
「――…、そっか。まぁ、そういう事もあるよな。王子様には色々あるもんだ」
ニクラスは冗談めかして明るく笑ったが、ディートリヒもそれが本音ではない事くらいわかっている。
咳払いして背筋を伸ばし、テーブルの上で手を組んだ。
「…詳しい事は、省くんだが」
「……はい。」
主君の改まった様子に、ニクラスも姿勢を正して表情を固くする。
今から何を告げられるのかと、緊張にごくりと喉が鳴った。
ディートリヒが口を開く。
「……私は、ユリア…シュミット侯爵令嬢と、結婚したい。」
たっぷり五秒の間が空いた。
急にどうしたのかと問い質したい気持ち、飛ばし過ぎだろと笑いたい気持ち、もっと慎重に考えるべきだと諭したい気持ち、今までの話とどう関係するのか疑問に思う気持ちが混ざり合う。
ニクラスはゆっくりと瞬き、一言だけ返した。
「はぁ?」




