幕間 真夜中の邂逅
生まれた時から《おしごと》は決まっていて、わたくしは学ぶことがたくさんあります。
お父様の言うことを聞いて、本をよみ、じっせんし、お兄様からも教わって。
色々などうぐの使い方、からだの動かし方、ていねいな話し方も。
ふしんしゃに気付いた時のたいしょも、見つかってはならない人に見つかった時も。
てきを前にした時のたいしょも、みかたを守るほうほうも。
わたくし一人ならどうしたらよいか。
どこまで、ゆるされているか。
りっぱになるまで、かってはゆるされません。
一人前になるまで、「ほんけいやく」はゆるされません。
りかいしています、大丈夫です。
でも、ほんの少しだけ。
今のわたくしはどこまで行けるかしらと、気になって。
とある夜に、おしろにぴょんと入ってみたのです。
身をかくして、けはいをけして、こきゅうをさいていげんに、足音をたてずに。
そうしてあそんでいましたら、まどのむこうに男の子がいました。
大きなベッドの中で、ぎんいろのかみにあかいかおをしたその方は、くるしそうに目をつむっています。
まどにはりついてじっと見ていましたら、コホコホとせきをした彼が、目をあけました。
あおい目でした。
『『………。』』
わたくしたちは少し、おたがいを見つめ合って。
彼はおき上がろうとして、でもできないようでした。
さけぶでも、人をよぶでもなく、わたくしに話しかけようとしているようなので、まどをあけました。
なにせ、カギはあいていたのです。
このていどの高さでカギがあいているのは少々、ぶようじんでございます。つめたい風がはいらぬようまどをしめて、わたくしは彼のベッドのそばに行きました。
見たところ彼はカゼをひいて、ねつがあるようです。目がぼんやりしています。
『きみは……?わたしをむかえにきたのか。』
『むかえ?』
わたくしは首をかしげました。この方をつれさる予定はありません。
『わたしはしぬんだろう』
どうしてかそうおっしゃいますが、今、このへやにてきはおりません。首をよこにふりました。
『しにませんよ。わたくしが今、ころさないかぎり。』
『………。』
『ころしてほしいという、いらいですか?』
わたくしはまだみじゅくなので、ごようぼうのとおりにできるか、いささかふあんでございます。
じっと見つめてこたえをまちましたら、彼は目をほそめてわらいました。
『…そうだね……いつかもし、わたしがしぬのなら……きみのような、きれいなひとにおねがいしたい。』
わたくしに、おねがいしたい!
なんてうれしいことばでしょう。それも、こんなにすてきなえがおで。わたくしも、かおがかってにわらってしまいます。
『よろこんで。けれど、いらいにはほうしゅうがひつようです。』
おこえをだすのがつらそうでしたので、ちいさいこえでいいように。
身をのりだして、ベッドにひじをついてあおいひとみをのぞきこみます。
かわいらしいおかおの彼は、あかいほほにあおいひとみの彼は、わたくしを見ている。
『なにをくださいますか?』
『――…なんでも。……このへやにあるものは、わたしのものだから。今このへやにあるものなら、いいよ。』
わたくしはへやをみまわして、目の前によこたわる彼に、しせんをもどしました。
ふとんのはしに見えていたゆびさきにちょんとふれて、いやがるごようすがないので、てをにぎります。
いのるように、ちかうように、りょうてでぎゅっと。
『わかりました。あなたさまがおわるときは、かならずわたくしがいたしましょう。』
『…やくそく、してくれるのか?』
『はい。ほかの方にはゆずりません。』
『……ありがとう……わたしは、ディートリヒだ。…きみ、は……』
『わたくしは』
なのりかけましたが、彼は――…いえ。
でんかはもう目をとじて、ねむりの中におりました。
そのあたたかい手を、じぶんのひたいにあてて。
『ユリア』
きこえていないでしょうことはわかっていて、それでもなのりました。
うれしくて、よろこびでむねがとくとくとたかなります。
『わたくしは、ユリア・シュミットと申します。』
くすりとかってにわらうくちびるを、でんかのゆびさきにすこしだけあてて。
おカゼがわるくならないように、きちんとふとんの中にしまっておきます。
『あなたさまがあんしんしてたのめるように、うでをみがきますね。でんか』
まっていてください、きちんとできるようになってみせます。
あなたさまがさきほどのような、おだやかなえがおでおわれるように。
『《ごよやく》ありがとうございます。わたくしの――…はじめてのいらいぬしさま。』
ねつにうかされたあなたが、こんや、せつなの出会いをおぼえていなくても。
いつの日か、あなたのいのちがおわるときには。
『そのいらい、おうけいたします。』
◇ ◇ ◇
――紳士淑女の皆々様、ご機嫌よう。本日も健康に生きておいででしょうか?
ほんの少しの現実逃避に、ユリアは居もしない誰かに語りかける。
力を無くした身体を支えて床に寝かせ、さらりとした銀髪を撫でた。
――わたくしはシュミット侯爵家のユリア。依頼主様のご命令に従い、その命を奪ったところでございます。
心の中で言葉を紡ぎながら顔を上げれば、目が合ったエルフリーデはハッとして一歩後ずさった。
ユリアは鮮やかに、たった一手でディートリヒを殺したのだ。思えば毒殺しようとしても確実に毒だけを避け、襲撃者を寄越しても襲撃が起きない形で終わらせた女。
ごくり、喉が鳴る。
「遺体を…こちらに渡しなさい。ユリア・シュミット」
「嫌です。」
「……聞こえなかったわ。もう一度言ってみなさい」
「嫌でございます。わたくしは、依頼を達成した正式な報酬として殿下を頂きました。」
部屋には異様な空気が流れていた。
勝利したのはエルフリーデであるはずなのに、敗北したのはディートリヒとユリアであるはずなのに。エルフリーデの声が震える。
「…貴女は、何を言っているの?」
「ゆえに、この方をどのように弔うもわたくしの自由――手出し無用でございます。」
ユリアの視線にあからさまな殺気が混ざり、エルフリーデがびくりと肩を揺らして後ずさる。
騎士達がすぐ守るように壁となり立ちはだかったが、ユリアの視線から逃れられてはいなかった。到底届かない距離なのに、首筋が冷たい。
「わ、わたくしにっ手を出せば、どうなるか――」
「知った事ではありません。貴女は死を選ばせる程に殿下を追い詰めました。よって仇であり」
風の鳴る音がした。
「殺害対象です。」
ユリアがその一言を呟いた時には、エルフリーデ以外の首が裂けている。すべて――全てだ。全員の首から赤色が噴き出した。
一拍置いて、生暖かい血が床へと降り注ぐ。
エルフリーデが状況を理解する前に、ユリアがほんの一歩先に立っている。
黒い髪に白い頬に赤がびしゃりと飛んでいて。
エルフリーデは絶叫した。
体裁とか、虚勢とか、意地だとか、そんなものは考えるどころか、頭を掠めもしない。
ただ次の瞬間に自分は死ぬのだと察して、真っ白になった心には恐怖しかなかったのだ。後方で扉が開く音すら聞こえない。
瞬きほどの僅かな時間。
恐ろしい赤紫の瞳がちらとエルフリーデの後ろを見やり、視線を戻して、血濡れの刃を突き出す。
目の前を銀色が遮った。
「う、っぐ……」
刃は、よろめいたイザーク・メルツァーの腹部に刺さっている。
後ろ手にエルフリーデを扉の方へ押しやり、彼は己を刺すユリアの手首を握りしめていた。
混乱と困惑の最中、呼吸の浅いエルフリーデの脳を疑問が支配する。
背中しか見えなくとも、自分を庇ったのが誰かはわかっていた。自分がその男に何をしたかもわかっていた。地下牢から逃げる時に負ったのか、彼はあちこちに出血がある。
「……?なんで…どうして、貴方がわたくしを庇うのです。」
聞いている場合ではないのに、礼も言わず脇目も振らず無様に逃げるべきなのに、エルフリーデはそんな事を聞く。
理解ができなかった。
ユリアの手を離すまいと固く握ったまま、イザークは体内がえぐられるのも構わずエルフリーデを廊下へ突き飛ばす。
「ッいいから逃げろ、エル!走れ!!」
「え?」
倒れ込んだエルフリーデの目の前で扉が閉じた。直後、裏から何かがぶつかる音がする。
「………、えっ?」
逃げるべきなのに、走るべきなのに、エルフリーデの足は動かなかった。
ほんの一瞬見えた瞳の瑠璃色が、目に焼き付いている。
頭は勝手に遠い日を振り返った。
『わたくしはエルフリーデ・アイレンベルクです。あなたは――』
『長いね。エルって呼んでいいかな?』
『かってを言わないでくださいませ!わたくしの名は、お父様とお母様がつけたかくしきあるもので…』
『エル。』
『……もう、しりません。すきによんでください。』
扉の向こうから音がする。音がする。苦悶の声の後、誰かが倒れる音がする。
足から力が抜けて、エルフリーデは立ち上がる事ができなかった。
「ど、どうして……貴方が、わたくしをそう呼ぶの。ありえないわ」
『だいいち、あなたの名前も知りません。』
『あれ?そうだったね。おれはディー』
『ディートリヒ殿下っ!』
『ああ、めんどうなのが来た』
「あの日わたくしが出会ったのは、ディートリヒ殿下のはず」
『俺らアルトナー卿には何度も叱られてきたよな。』
『ええ、あれは面倒でしたね。なにせ彼は話が長い』
ドアノブが動く。
扉が開いていく。
――ありえない、でしょう?
ユリア・シュミットの足元で、イザークは少しも動かずに倒れていた。
立ち上がれないエルフリーデは震える手を伸ばし、無様にも四つん這いで彼のもとへ向かう。
ユリアは立ったまま、虫を見るような目で眺めている。
『つれだしてあげようか、おれが。』
『…また、ことばがみだれていますよ。』
『ふふ。まじめでかわいいな、きみは。』
「何で、どうして――…こ、答えてください。イザーク様」
首筋を切り裂かれ、シルバーブロンドは血に汚れていた。
瑠璃色の瞳はもう、何も見えてはいない。
『…相変わらず真面目だな。君は』
「うそ……嘘でしょう」
エルフリーデの目からぼろぼろと涙が流れ出した。
どれほど信じたくない事でも、それが真実なのだとわかってしまう。
『良い夜だな、エルフリーデ嬢。私と一曲どうだろう』
『…初めまして。随分と馴れ馴れしいのですね。貴方はメルツァー公爵家のご令息かしら』
かつて、イザークは無邪気な笑顔で誘いをかけた。
庭で会った男の子はディートリヒだと信じていたエルフリーデは、イザークを無礼な相手と思い冷たくあしらった。
彼はその時どう思っただろうか。
『……ああ、これは失礼。ご推察の通り、私はイザーク・メルツァーだ。』
『先に言っておきますが、わたくし将来は王家に嫁ぎますの。そちらも、良いご縁が見つかるといいですわね。』
僅かに引きつった笑みは、無礼を咎められた気まずさではなく。
忘れられたのだと、そう思って傷ついた顔だった。
「あ……わ、わたくしは…わたくし、」
涙がとめどなく溢れ、血を吸った絨毯に落ちていく。檻越しに自分を真っすぐ見据えたイザークの眼差しをまだ、覚えている。
『――ディートリヒなんかやめて、私にしておけ。』
エルフリーデが罪を犯したと知ってなお、彼はそう言った。
足を止める機会はあった。考え直す機会もあった。
全てを放棄して走り続けたのはエルフリーデ自身だ。
「間違えてしまったの?」
死と沈黙に包まれたこの場において、彼女の問いに答えられるのは一人だけ。
ぴしゃり、血に触れる靴音がした。
「えぇ、きっと」
絢爛豪華なシャンデリアを背に、ユリアが平坦な声を発する。
涙に濡れたエルフリーデの瞳はゆっくりと彼女を見上げた。
「取り返しがつかない程に、何もかもを。」
天使は光の翼を広げ、血濡れの刃を持って罪人を見下ろしている。
己の罪を知り、ここで死ぬべきだと理解して――せめて共に死にたいと願い、罪人は目を閉じた。
ユリアは一度手を動かし、たったそれだけでエルフリーデは死んだ。
「次は――…いえ。貴女がたの次なんて、どうでもいい事です。」
放り捨てたナイフが、とすんと音を立てる。
ぴちゃりぴちゃりと血の泉を渡って、ユリアはディートリヒのもとへ帰ってきた。まだ温かい身体を大切に抱きしめる。
「依頼を全て終えてしまいました。殿下」
柔らかな頬に口付けて、ユリアはディートリヒを抱えて立ち上がった。遠くから足音が聞こえる。エルフリーデの傀儡が敢えてそうしたのだろうが、あまりに遅すぎる騎士の到着だ。
窓から外へ出て、城の屋根に上る。
王都の街並みがよく見え、素晴らしい景色だった。
どこで燃え尽きるのがよいだろうか。
ぼんやりと考えながら、ユリアは動かないディートリヒに語り掛ける。
「……殿下を殺すのならば、どの道すべて殺しますと。そう、貴方様にお伝えする事もできました。お優しい貴方の選択肢を奪う事など、簡単でございます。」
穏やかな風が吹いていた。
「でも、そうやって脅したら……貴方様は、わたくしに笑ってくれたでしょうか。」
階下からは騎士達の駆ける足音や指示を飛ばす声が響いている。
どうやらニクラス・レヴィンとその婚約者の遺体が発見されたようだった。彼は婚約者を盾に取られてなお、エルフリーデに抵抗したのだろう。
ディートリヒを裏切らない事を選んだ者の存在に、ユリアは少しだけ微笑んで目を閉じた。
――紳士淑女の皆々様、ご機嫌よう。わたくしの殿下の骨一本、髪のひと房、血の一滴さえも渡しはしない。
すべては炎の中へ。
フェリクスやシュミット侯爵が戻る頃には、ユリアもディートリヒもいないだろう。
「そういえば…次はお間違いなきようと、次こそは良い選択をと、申して参りましたが。」
ディートリヒの「君一人なら必ず生き延びる」を、ご命令ではなかったからと言い訳をして。ユリアは家族も国も罪状の行方も知らぬまま、ただ二人きりで終えようとしている。
人気のない高台で、廃れた教会の中。
「自分を殺す時には、なんと言うべきなのでしょうね……?」
炎が舞う。
――もし、次があるならば。違う命でも違う姿でも違うわたくし達でも、またいつか、貴方に会えるなら。
ディートリヒのさらりとした銀髪を撫で、ユリアは微笑んだ。
目尻から溢れた熱い雫が頬を伝い落ちる。
「殿下。その時は」
口付けた唇は冷たかった。
死を実感して涙を落としながら、ユリアはディートリヒを抱きしめる。縋るように名を呼んだ声は震えていた。
「わたくしを、信じて…」
天使の声は神へと届き、そうしてぴたりと世界は止まる。
選ばれた一人の記憶と魂を過去へと飛ばし、新たな道へ。
次こそは、良い選択を。




