20.初めての依頼を、君に。
翌朝、ディートリヒは城の会議室に呼び出された。
騎士団のラングハイム侯爵同席のもと、エルフリーデ・アイレンベルクとの面会だ。
今ディートリヒと会う事が許されるのは本来騎士団関係者のみであるべきだが、彼女は「兄の代理」という立ち位置でそこにいた。
「ご機嫌よう――とは、流石に言えませんわね。ディートリヒ殿下。」
「そうだな。挨拶をしている場合でもないだろう」
天井には豪華なシャンデリアが吊られ、壁際には騎士や公爵家の護衛が立っている。
婚約者として同席を求められたユリアは油断のない目でディートリヒの傍に控え、黙って一礼した。それぞれが席につき、ラングハイム侯爵が重々しく口を開いた。
「バーデンが毒薬の製造を認めました。」
研究室から姿を消していた男。
エルフリーデが手振りで指示すると、ディートリヒ達の元に書面が渡る。
《第三王子ディートリヒ殿下のご命令で新薬と見せかけた毒を作り、渡しました。元々自分が呼ばれたのは毒薬の知識があるためです。毒は、シンデルマイサー医師を騙すために、治験患者に用いていた新薬と見た目を似せて作りました。毒を用意する代わりに大金と安全保障をして頂きましたが、良心の呵責に耐えかね真実をここに公表するものです。 コンラート・バーデン》
見覚えのある雑な筆跡。ユリアの心に後悔と怒りが燃えた。これが本物なら、バーデンは最初からディートリヒを陥れるために用意された人物だったのかもしれない。
やはりあの胡散臭い男を信用するべきではなかったのだ。
「姿を消したと聞いていたが、無事だったんだな。彼は今どこに?」
「それはお教えできません。ですが、部下がバーデンの無事を確認しております。」
ラングハイム侯爵が険しい顔で言う。
騎士が無事を確認したという事は、少なくとも拷問を受けて書かされたわけではないのだろう。筆跡にも恐怖による震えや乱れは感じ取れない。
ディートリヒは僅かに眉を顰めた。
――だからこそおかしい。良心の呵責に耐えかねたなら、動揺なしに書けるだろうか。
それとも初めから裏切者だったのか。路地裏であわやという状態だったのに?急に決まったユリアとのデートで、ディートリヒがそこを通るとわかっていたとでも言うのか。
証言書が偽造なら、詳細鑑定を依頼しバーデン本人の無事を第三者――騎士だけではなく、法務官や政務官の立ち合いありきで行ってもいい。それで真偽は確定するはずだ。
ディートリヒはエルフリーデを見やった。
こんな物を出してきた時点で、彼女はディートリヒの敵になったのだろう。
エルフリーデに王子三人を潰す理由などないはずだが、淑女の仮面の奥に何があるのかはまったく読み取れない。
続けてシンデルマイサー医師や侍女の証言書が提示され、ニクラス・レヴィンの机から毒の入った瓶と暗殺計画書を発見したと報告される。
「……それで?ニクラスの筆跡だと言うその計画書はここに無いんだな。」
「バーデン達と違い、彼は今所在不明です。証言書はまた書いて頂けば良いけれど、計画書は一つのみ。破かれてしまっては困りますので――、あら。」
「ごはっ……ガフ、」
ラングハイム侯爵が血を吐いた。
ディートリヒとユリアが目を見開いて立ち上がる中、エルフリーデは落ち着いている。
立派な体躯が重い音を立てて床へ崩れ落ち、動かなくなった。騎士の一人が部屋から駆け出していく。
「効きが遅いのですね。」
「…何を考えている。エルフリーデ・アイレンベルク」
ディートリヒが問いかける。
敵である事も隠しもせずに笑って、エルフリーデは立ち上がった。
彼女を捕えるべき騎士達はどうしてか、ディートリヒとユリアを遠巻きに囲うように位置取っている。剣を抜く音がした。
「ねえ、殿下。貴方は幼い頃、天使に会いまして?」
「……何の話だ」
答えはわかっているとばかりに笑顔で問われ、ディートリヒは訝しげに聞き返す。エルフリーデは目を歪めて笑った。笑っていた。笑っているのだ。
「ふ、ふふ。あはははは」
手をかざしても声が漏れ、耐えられないとばかりに背を丸め、くつくつと喉が鳴っている。
滲んだ涙は零さない。彼女は嘆いているのではなく、笑っている。そう信じていた。
「――そうですわね。えぇ、会うわけがない。天使などいないのだから」
きっと自分に《新たな生》など無いと、エルフリーデは思っている。
父や兄が屋敷へ戻ったら、地下牢の者達を見てどんな顔をするだろうか。エルフリーデの所業を知ったら、どうするのだろうか。
アイレンベルクはもう終わりだ。
申し訳ないと思う気持ちはあるけれど、でも、それすら紙一枚程度の重みしかない。
――あの思い出がどれほどわたくしを支えていたか。わたくしがどれほど貴方との思い出に依存していたか。思い知ったのもまた、わたくしだけ。なんて不平等なのでしょう、なんて理不尽なのでしょう、なんて惨め、惨め、惨め!!
エルフリーデは心から笑った。
今日でもう、すべてが終わる。
「わたくしは幼い頃、城の庭で男の子に会った事があります。…大切な思い出でしたわ。いつかまたお会いできると、そう信じておりましたが………もう彼に会えないとわかったら、どうでもよくなってしまったのです。」
碧の瞳がディートリヒを見据えた。
深い青色の瞳は何も理解していないようで、ただ強い警戒だけが伝わってくる。
エルフリーデを天使のようだと褒めてくれた男の子は、迎えに行くと言ってくれた男の子は、そこにはいなかった。
「――消えてくださいな、殿下。罪を暴かれ乱心した貴方を、わたくし達は懸命に止めようとした。結果としてお命を奪ってしまったとしても、それは仕方のないことです。」
「みすみす殺させると思いますか」
ユリアがディートリヒの傍に立つ。
窮地においてその愚行をやめさせないディートリヒは、ユリアを信頼しているのだろう。自分が守るだけの存在ではなく、共に立つ存在だと認めている。
エルフリーデは目を細め、小さく鼻で笑った。
「抵抗してみますか?先程の騎士は殿下の乱心を伝えに走りました。ここでわたくしが死んだら、この目撃者達が全ては貴方の仕業と証言したら、どうなるのでしょうね。」
「そんな話が通じるとでも…」
「父も兄も、わたくしの死を許しませんわ。だって、自死などしない女でしょう?この場でわたくしが死んだなら、殺す命令を下せたのは誰ですか。」
軽い笑みを浮かべて語るエルフリーデから目を離さず、ディートリヒは唾を飲み込んだ。
――正気ではない。
エルフリーデは聡い女性だ。
こんな強引な事をするなど一体どうしてしまったのか。幼い頃に会った誰かに会えないから王子達を潰すなど、まったく理由になっていない。
「先程ね、面白い手紙が届きましたの。殿下にも見覚えがある字でしょう」
エルフリーデが懐から出した紙をテーブルに滑らせる。ディートリヒが目を落とすと、それはエドゥアルトの筆跡だった。
《君がもしディートリヒを殺すなら、執行はユリア・シュミットにやらせるのも一興だろう》
一興。
リリアンと共に襲撃から逃れたエドゥアルトが、なぜそんな手紙を送ったのか。
ディートリヒにはわからない。普通の神経であればそんな事を書くはずがないのだから。しかし偽造にしてはエルフリーデの反応が楽しげだ。
彼女は美しく微笑み、「よくてよ」と軽やかな声で言う。
「その手で殿下を殺せば赦しましょう、ユリア・シュミット。貴女は乱心した彼に心を痛め、止めようとしたのです。」
そんな事をすればユリアは王子殺しの実行犯だ。
彼女一人なら騎士の手もすり抜け、実情を知るシュミット侯爵や兄フェリクスが戻るまで耐えそうではあるが、判決がどうなるか読めない。
ディートリヒが死んだ後の事など、何の保証もないのだから。
――手紙は本物に見える。兄上は私ではなくエルフリーデにつくという事か?
エドゥアルトの王位継承権放棄はまだ、関係者と公爵家が知るのみだ。ディートリヒが死ぬのであれば状況は変わり、放棄は無かった事になる可能性が高い。
かつてディートリヒが望んだように、エドゥアルトが王になる。そこにディートリヒもエルフリーデもいないけれど。
「ご冗談を。ディートリヒ様を殺すくらいなら、貴女がたを黙らせる方がようございます。」
その場合ユリアはディートリヒの共犯者だ。
騎士までもがエルフリーデに従って襲ってきたと、正当防衛によるものだとはどう証明するか。ユリアとディートリヒは婚約者であるが故に、証言をそのまま受け取ってもらえない可能性がある。
複数の生け捕りが要るだろう。
――どこまで殺さずに捕えられる?あちら側は自死を視野に入れている。それは当然舌を噛むようなものではなく、外傷によって死ぬ気だろう。
「二人揃ってここで死にますか?わたくし達を殺して罪人になりますか?可愛い貴方の《天使様》だけは生かすのですか?ふ、ふふ。どれを選んでも構いませんよ」
敵はエルフリーデを抜いても十五人。
この場から逃げる事はできるかもしれないが、後に残るのは侯爵とエルフリーデの死体、そして「ディートリヒ達が逃げた」という証言だ。
十五人、ユリアと自分でどこまで死なれずに相手できるか。あちらは殺す気で迫ってくるのだ。ユリア一人ならまだしも、ディートリヒがいては彼女は全力で戦えない。
ディートリヒにはわかっていた。
どんな乱戦になっても、ユリアはディートリヒの命だけは守ろうとする。
ユリア自身の命を優先してほしいという命令を、今の彼女が聞いてくれるとは思えなかった。
確実なのは、彼女一人なら必ず助かるということ。
自分を守ってユリアが死ぬかもしれない。
動揺した自分が殺される瞬間までも、死に際の彼女に見せてしまうかもしれない。
そうなるくらいなら。
「殿下。ご命令を」
ユリア・シュミットは待っている。
「あの女を捕えろ」と、「私を守れ」と命じてくれる瞬間を、今か今かと待っている。「貴方様を助けましょう」と、「守りましょう」と、思っている。
それがわかっているから、ディートリヒは命じた。
「私を殺せ。ユリア」
そうでなければ彼女は、罪人として国中に追われる事になってでもディートリヒを助けるから。
美しい手をどこまでも血に濡らして、ディートリヒを守るから。
天使が悪と定義され、不幸な泥濘に沈んでしまう前に。
「――…わたくしを、侮っておいでですか。ここからは逃れられないと。…心外でございます」
「侮るものか。君一人なら必ず生き延びる」
「殿下」
「依頼だ。私を殺してくれ」
「………。」
護衛でも調査でもない、初めての暗殺依頼。
ユリアはどこからかナイフを取り出し、扱い慣れているのだろう様子で握りこんだ。
「お望みのままに。約束ですから」
次は間違えるなという言葉を、ディートリヒが聞く番だ。
一人の暗殺者として、ユリアは少しも笑わずにディートリヒを見据えた。
「ありがとう。ユリア」
ディートリヒは穏やかに微笑んでいる。
部屋は静まり返っていた。エルフリーデも誰も彼も、本当にやるとは思っていなかったのだから。半ば唖然として、彼女達は事の成り行きを見守っている。
ユリアが慣れた手つきでナイフを構え、踏み込んだ。
「次こそは、良い選択を。」
痛みは一瞬だった。
意識を失う寸前、ディートリヒは一筋の涙を見た気がした。
――…泣かせて、しまったのだろうか。
もう、痛みも苦しみもない。
床に立っていた感覚も、最後に抱きとめてくれたユリアの腕の感触も。
目を閉じたまま、ディートリヒは暗闇の中で考える。
守れと命じられて守れなかった時と、殺せと命じられて殺した時と。
ユリアにとってどちらが良かったのだろうか。
あの時考えきるにはあまりにも、与えられた時間が少なかった。
――…こんな終わり方をするなんて、思いもしなかったな……。
暗闇の中、考える。
このまま意識が途絶えて終えるなら、最後に思い出すのはユリアの笑顔が良い。
そう考え…
「ん?」
ぱちりと瞬いて、ディートリヒはぼやけた視界に眉を顰める。
今聞こえた呻きは自分が発した声なのか。
なぜ、意識があるのか。
どうして、痛みがないのか。
反射的にもう一度瞬きをして、見覚えのある天井だと気付き――飛び起きた。室内を見回し、机や本棚、クローゼットの色形まで記憶と同じだと理解する。
「ここは…私の部屋、か……?」
城の、ではない。
かつて使っていた、今はもうとっくに片付けられたはずの部屋だ。
扉からノックの音がする。
「おーい、起きてるかー」
「ニクラス!?」
呑気で、どこか普段より高い声。
慌ててベッドを下りようとして足がもつれながら、ディートリヒは大急ぎで駆けて扉を開けた。開く勢いに「うお」と声を漏らし、学園の制服を着たニクラスが目を丸くしている。
柔らかな新緑の短髪に薄茶の瞳。顔立ちはやや幼く、まるで学生時代のようだ。
「お前、その顔はどうした!?」
「は?なんかついてる?」
「まさか…」
ありえない事が起きている。
ディートリヒは部屋の中に駆け戻り、姿見の前に立った。数年分幼い自分の姿がそこにある。明らかに寝起き姿で銀髪もやや乱れ、深い青色の瞳を丸くして。
「おい、しゃきっとしてくれよ。入学してまだ2週間だぜ」
ニクラスが呆れたっぷりの声で言う。
早く着替えろよと制服を投げつけられ、瞬いたディートリヒはゆっくりと振り返った。
「………ニクラス、これは夢か?」
「寝てから言えよ。」
二章 完
三章開始まで、少し間が空きます。




