2.殿下、そういうご趣味なのですか?
わたくしを見た殿下が、慌てて駆け寄ろうと方向転換するより早く。
カツン、と手すりに着地致しました。
夜の冷たい空気をまとったドレスとわたくしの長い髪がふわりとなびく。
月明かりに照らされたディートリヒ殿下の、美しいこと。
輝く銀の短髪、海のような深い青色の瞳。燕尾服を身に纏ったシルエットを見れば、得意にかまけずきちんと鍛えておられる事がわかる。
よほど驚いたのでしょう、すっかり目を見開かれています。こんな所を跳ぶ令嬢を見るのは初めてですか?などと問うてみたくなって、わたくしはつい笑みを零しました。
「き、君は……いやそれより、危ない。降りるんだ」
この程度の段差はまったく平気なのですが……殿下が紳士的に手を差し出してくださった以上、大人しく従うべきですね。
お礼を言いつつ手を重ね、すとんとバルコニーの床に降り立ちます。殿下はわたくしがバランスを崩した時すぐ支えられるよう、もう片方の腕も準備してくださっていた。決してこれ幸いに触ろうなどとしていなくて、やはり紳士なお方です。
手が離れると、わたくしは深く淑女の礼をしました。
「突然お伺いしたご無礼お詫び申し上げます、第三王子殿下。シュミット侯爵が長女、ユリアと申します。」
「もちろん知っている、私達は同級生だろう」
まあ。
学園でロクに話さなかったわたくしの外見と名が一致しているのは意外でしたが、さすがはディートリヒ殿下と感心もします。
もしかしたら、レヴィン様あたりが「あれはユリア・シュミット」なんてお教えした事があったのかもしれませんが。
「シュミット侯爵令嬢、なぜここに?」
「少し夜風に当たろうと思いましたら、殿下達の声が漏れ聞こえてしまいまして…」
「娼か――…あの話を聞いていたのか?」
「はい。」
口ごもった殿下のお顔がサッと青くなりました。
もちろん、裏稼業の者の手を借りたいなどと人に知られたいはずはありません。
ですがここは「聞いていたなら話が早い」となるところでは?わたくしの予想が外れました。任務内容をお教えくださると思ったのに。
「それは…気分を害しただろう」
「いいえ?」
「君がいると知っていれば決して――……え?平気、なのか?」
「もちろんです。むしろ丁度ようございました」
「ど、どういう意味だ?」
殿下は驚いた様子で薄い唇を僅かに開けたままこちらを見つめています。わたくしは胸に片手をあて、少しだけ腰を落として一礼しました。
「わたくしをお選びください。」
「なんだと……?」
殿下はやはり混乱中のご様子。お声が掠れています。
けれどそれは驚愕であって拒絶ではない、嫌悪でもないと見ました。押し時、です!
「わたくしなら間違いなく、殿下を喜ばせて差し上げられるかと。」
「よ、悦ばせ…」
「ふふ、こう見えて技術には自信がございますよ?」
「君が…君が……?」
「?はい、わたくしがです。レヴィン様がおっしゃっていた、腕の良さ。持っておりますよ」
「なっ……」
フラフラと一歩二歩後ずさった殿下はお顔が真っ赤です。
どうしてでしょうと伺うように首を傾げると、わたくしから思いきり顔を背けて手すりに腕をつかれました。
「きっ貴族令嬢がそのような、はしたない……!」
はしたない?はて。
恐ろしいと言われる事はあれど、はしたない。
確かに令嬢としての嗜みからは逸脱していますが、安定した国家の運営には必要な職業ですし……けれど、そうですね。人によってははしたないと思われるのでしょう。
「殿下、言うなればわたくしは令嬢ではなく、仕事人なのです。」
「っ……なんて事だ……」
「既に実戦も済ませていますから、安心してご利用頂…」
「実践!?それはつまり――…」
素早い動きで振り返った殿下はどうしてか、一縷の望みに縋るようなお顔です。
わたくしはゆっくりと頷きました。
「ええ……殺っている、という事です。」
「ヤって……」
「内緒ですよ?」
「いいい言うわけがない!言わない、言わないが、ユ……シュミット侯爵令嬢…君が、そんな…っ!」
ふふ、驚いていらっしゃいますね。
とても暗殺者には見えないと言われるこの細身も、わたくしの立派な武器の一つです。
「君は私に自分を選べと言うのに、どうして経験があるなんて言うんだ……。」
「事前情報として必要かと。」
「聞きたくなかったっ!」
「?聞くべきだと存じます。大切な事です」
「そ、それはそうなんだが…」
何せお相手は王子殿下です。
王家が裏稼業の者に頼みたい仕事とはつまり、初心者に任せられない物ばかりに決まっています。
殿下は手すりに腕をついてガックリと項垂れて……まぁ、なんと無防備な背中でしょう。ちょっぴり手が疼きますね……。
「!?何だ今のは…」
バッと振り返り周囲を警戒なさっていますが、ここにいるのはわたくしと殿下だけ。
決して殺気ではなかったはずですが、寒気くらいにはなったのでしょう。勘が鈍い訳ではないようで何よりでございます。
などと考えてしまいましたが、そんな事より今の寒気はわたくしのせいなので大丈夫だと安心して頂かなくては。
うっかり考え込むなどお恥ずかしい、少し頬が熱くなってしまいます。精一杯柔らかく微笑んでみましょう。
「その…お恥ずかしいのですが、殿下のお背中を見ていたらわたくし、少し疼いてしまって……」
「疼く?何がだろうか――…ッ!?あぁいや言わなくていい!いっ、言わなくていいんだ。頼むから言うな。」
「?わかりました。」
「……しかし、そうか。私を見て君が……っな、なんでもない。」
殿下はボソボソ言ってから慌てて首を横に振りました。何を必死に否定されているのでしょう。
当初は青ざめていたはずのお顔が今はもう真っ赤。こんなに顔色をくるくる変える方だとは思いませんでした。見ていて少し楽しい、なんて思うのは不敬かもしれませんが。
「話を戻しますが、殿下?大事なことなのに、「初めてなんです」という人ではお嫌でしょう?」
「…私はそういう人が……もちろん、だからといって君が悪いと言う気は全くないのだが…。」
信じられない!
叫びそうになりましたが飲み込みました。
そんな事を言っては政だってままならないでしょう、殿下。どうなされたのです?政務をテキパキこなして宰相閣下も一目置いていると聞いておりましたのに。
私は深刻な顔をして一歩殿下に迫りました。これを放置しては国の危機ですし、私も雇ってもらえません。
「初心者にさせて失敗したらどうするのです?経験は大事ですよ。」
「……失敗…する事もあるのか?」
「あるに決まっています。」
ついキッパリとした声が出てしまいました。
殿下、職業は同じでも手腕はピンキリなのですよ!専門家なら大丈夫だろうという考えは危険。足をすくわれます。
「未熟者には務まりません。わたくしは幼い頃から鍛錬してきたのです。」
「おさないころから」
殿下の目が遠くなっている。わたくしの話はちゃんと聞いて頂けているのでしょうか。
「えぇ、父兄から指導を受けました。」
「家族が君に傷をつけたと?なんと残酷な……」
「傷もつかぬ程度の授業ではお話になりませんから。擦り傷や切り傷には、母が手ずから薬を塗ってくれたものです。」
「暴力まで……」
ご自分も鍛錬をなさるでしょうに、わたくしが女だからか、殿下は痛ましげにこちらを見つめています。お優しい方。家のしきたり通りに鍛錬を積んだ事など、貴方にそんな目をして頂く事ではないのに。
「それは…辛かったな。まさか彼らがそんな人だとは…」
殿下はやはり当家の事情をご存知なかった様子ですね。
お父様達が表向き上手くやっている証拠です。シュミット侯爵家がそういう家だという事は、ごく一部の人が知るのみ、なのです。
ずっと昔の話ですが、頭の弱い王子殿下がペラリとお喋りになったがため、大規模なお掃除に発展した事があるのだとか。参ってしまいますね。エドゥアルト殿下には言わない方針が確定しています。
「シュミット侯爵令嬢。もし君が家を離れたいなら私は協力を惜しまないが……その、さっき自分を仕事人だと言ったな。父兄を恨む気持ちはないのか?」
「ありません。一人前にしてくれた父兄には本当に感謝しているのです。過信は禁物ですが、今のわたくしならどなたが相手だろうと、ご満足頂ける結果となるでしょう。」
ぴたり。
そんな擬音が聞こえそうなほど唐突に、ディートリヒ殿下が静止しました。深い青色の瞳になぜでしょう、怒りのようなものが。ぐっと眉を顰めていらっしゃいます。
「どなたが相手でもと言ったか?」
「はい。殿下が誰の相手をせよとわたくしに命じようと――」
「私がいつそんな輩に成り下がったんだ!」
我慢ならないとばかり振られた殿下の片腕は、決してわたくしにあたる距離ではありません。それがわかった上で、そして言われた意味がわからずに、わたくしは動きませんでした。
「他人の相手をさせるわけがないだろう、私だけだ!」
「え?」
「あっいや違う、今のは言葉の綾だ。仮に私が頼むならという、その、完全に仮定の話だ。」
暗殺の技術を殿下に!?
無茶を仰らないでほしい、どういうおつもりでしょうか?殺してほしいわけではないですよね。
殿下はもしや……誰か滅したい相手がいるのではなく、人を殺せる程の力ある者に暴力を振るわれたい?
そちら方面に明るい娼館の方では万一の危険があるからなのでしょうか、臣下として内密にそういう《癖》に付き合えと?
あぁ、つい目を伏せてしまいます。
この方は生涯の主になりえるかもしれない、そう思ったわたくしが馬鹿だったのでしょうか。
「…………務めと、あらば……。」
「どうしてさっきまでより断然嫌そうなんだ。」
「殿下お相手となると、少々手加減が難しいと言いますか……」
「て…手加減……」
殿下はショックを受けたような顔で呟いていらっしゃいます。
まるでプライドをズタズタにされたかのようですが、でも、加減しないと殺してしまいますから……。
どうしましょう、できれば依頼主を痛めつけたくはないのですが。
それも第三王子殿下です、わたくしが何か誤れば政務に支障が出てしまう。これを引き受けるのなら、実務を始める前に特訓が必要でしょう。死なない程度と一口に言っても、拷問とは加減が異なりますし、方法にもよるのです。
本当にやるかは別として、何を求められるのか確認しておかなくてはなりませんね。
「殿下は絞さ…首を絞められるのはお好きですか?」
「……何の話だ?」
「それとも打たれたり、火を近付けられるのがお好きなのでしょうか。」
「…待ってくれ。原因は不明だが認識に齟齬があるようだ。」
「左様でしょうか?」
もし勘違いなら何よりと手放しに喜ぶのですが。
どこか気まずそうにした殿下がぽつりと、歯切れ悪く仰ることには。
「私にはその…女性に痛めつけられたいという癖は、無い。」
「………、ないのですか?」
「むしろどうしてあると思ったんだ…!」
まあ、そうでしたか。どこで間違えたのでしょう。
家のメイドから「変な男にだけは捕まるな」と教わった中から抜粋したのですが。……今思うと、そこから抜粋するのは不敬だったかもしれません。
では何か他に売り込みに使えるのは……褒められた事があるのは…
「わたくし、事を終えた後の掃除も得意なのですよ」
「掃除?」
「はい、父にもよく褒められております。」
「…シーツとかそういう」
「とても気持ちの良い掃除っぷりだそうです。」
殿下は片手をこめかみにあてて目を閉じてしまいました。頭痛でもされているのでしょうか。
「………すまない、私の知識理解を越えていて想像がつかない。」
確かに殺害現場の事後処理など殿下の教育には含まれないでしょう。寝所を襲うのはよくある事、血まみれのシーツをイメージなさったようですが、他に何をするかは想像できなくて当然ですね。
むしろ死体の処理に詳しい王子様など……あら?悪くないかもしれません。
「どうか誤解はしないでくれ、決して貴女のそういう姿を想像したいわけではない。話を追えるかどうかという意味でだ。」
話を終えるかどうか、つまり交渉を打ち切るか成立させるかの参考にしようとしてくださったのですね。わたくしもそのつもりで話しましたし。
なのに、わたくしの姿を想像したいわけではない、とは?
はて。是非想像してほしいのですが、未来の戦力として。わたくしは残念に思っている事が伝わるよう眉を下げ、背の高い殿下をじっと見上げました。
「想像して…くださらないのですか?」
「――……。」
少し目を見開いてわたくしをじっと見つめた殿下は、緊張されているのかごくりと喉を鳴らしたかと思うと、顔を背けて崩れるように床に片膝をついてしまいました。具合が悪いのでしょうか?
こちらを向いていないので少なくともわたくしに跪いた事にはならないのですが、これはいけません。殿下を見下ろすわけには。
急いでわたくしも膝をつき顔色を伺おうとするけれど、やはり殿下はそっぽを向いてしまいます。形の良いお耳が赤いのは見えたので、くるくる変わっていた顔色は今は赤のようです。




