18.真面目だな、君は。
第一王子ローレンツが死んだ――否、殺された。
突然の訃報を受けて執務室を飛び出したディートリヒが見たのは、冷たくなった兄の姿。
着衣には吐き出した血がこびりつき、人を呼ぼうとしたのだろう、サイドテーブルに置かれていたらしいグラスや水差しが床に落ちていた。
厳しい表情をした筋骨隆々の騎士、ラングハイム侯爵が重々しく口を開く。
「新種の毒物が使われた疑いがあります。…お心当たりは」
「無いに決まっているだろう。…っなぜ兄上を……」
寝たきりだったローレンツが今更王位を継げるはずもなく、王家の中ではもっとも死に近く、もっとも暗殺対象から遠い人物だと目されていた。
――新種の毒。分析結果が出たらユリアにも意見を聞いてみよう。犯人が父上達の留守を狙ったのは間違いない。それと…
予想してしまった内容に血の気が引き、ディートリヒの喉が小さく鳴る。
エドゥアルトは無事なのか?
彼の継承権放棄とディートリヒの立太子はまだ、関係者と公爵家までしか知らないのだ。犯人の目的が王位に絡む事で、ディートリヒが無事ならば。真っ先に狙われるのはエドゥアルトではないのか。
「第三王子殿下。ご説明頂きたい事がございます」
「…何だ。」
「シンデルマイサー医師が、貴方様のご命令で昨日から新薬を取り入れたと、そう証言しておりますが。」
「昨日?」
それはおかしいとディートリヒは言い返す。
ユリアの話では新薬を使い始めるのは来週から、それも様子を見て少量ずつのはずだ。ユリアとシンデルマイサーの面談にはニクラス・レヴィンが立ち会っており、会話内容は記録を取っているし、それはディートリヒも確認している。
「第一王子殿下付きの侍女も、昨夜は『安静にしてほしいから立ち入るな』と、貴方様よりご命令があったと申し出ております。」
「そんな事は言っていない。何を証拠に」
「また、貴方様が城に招いた男…コンラート・バーデンが姿を消しております。」
ラングハイム侯爵は険しい表情で続ける。
護衛にあたっていた騎士は、バーデンの研究室内で死んでいるのが発見された。詳しい分析はこれからだが、症状からしてローレンツを殺したのと同じ毒物ではないかと推測されている。
部屋は多少散らかっていたが、争った形跡はなかったという。
ほんの一歩ずつ、騎士達はディートリヒを囲むように位置を変える。
眼差しには疑念や警戒、困惑、緊張が見て取れた。
――…だから、私が無事なのか。
「ご同行願えますかな。」
「……ああ。」
ここで抵抗してはそれこそ怪しい。
ラングハイム侯爵の後に続こうとして、ディートリヒはふと足を止めた。
「…可能なら、もう少し状況が知りたいな。」
それは調査をお待ちくださいとだけ返され、歩みを再開する。
何も恥じる事はないとばかり、ディートリヒは背筋を伸ばして部屋を出て行く。その背を見送りながら、内心「本当にこれで良いのか」と騎士達は顔を見合わせ――天井裏で話を聞いていたユリア・シュミットは、音も無くその場を後にした。
◇
「申し訳ありません、第二王子とリリアン・カルクには逃げられました。捜索を続けています」
厳しい叱責を予想しているのか、報告する声は緊張をはらんでいた。
アイレンベルク公爵邸の一室、ソファに腰掛けたエルフリーデの顔には怒りも悔しさもない。「そう」とだけ返して、彼女は床に転がった男へと目を移した。
鳥の巣めいたボサボサの茶髪、かけていたサングラスはどこにもなく、後ろ手に拘束された痩身はあちこちに血が滲んでいた。
顔は数か所が醜く腫れ、折れた鼻は空気が通らないのか、血に濡れた唇で浅い呼吸を繰り返している。
傍らには彼に暴行を加えただろう屈強な男が黙って立っていた。
「ゲホッ…ごほ……」
「ねぇ、バーデン。わたくしそんなに難しい事を言っているかしら?」
「…ワタクシは、……ッ毒など、作ってませ」
否定の言葉と確定した瞬間に一発、二発、三発と拳が入る。
血のついた歯が絨毯を転げ、エルフリーデは何の感情も読めない目でそれを見やった。
「一筆書けば、生きてはいられるの。表舞台からは消えてもらうけれど、研究を続けていてもよくてよ」
その言葉は本当なのか、偽りなのか。彼女に従う男達すら知らない事だ。
ヒュウヒュウと耳障りな呼吸音を数度繰り返し、バーデンは切れた唇で笑った。
「…ハ、ハハ……アハハ、っぐ!」
「何が可笑しいのかしら。」
頭を踏みつけられたバーデンを見下ろし、エルフリーデは問いかける。
この男が生きるも死ぬも、どこまで痛みを受けるかすらも、全て彼女の思うままだ。
「はぁ、はぁ……お嬢さん、ワタクシはてきとーな男ですよ。ごほっ…研究が、大好きでね。でも……っでも、それは、ワタクシの研究で助かる人がいるから。…ありがとね~って、笑ってくれる人が…っはぁ、いるから、なので。」
爪の剥がれた左手でぴくり、振るという動作にもなっていない仕草をして。
コンラート・バーデンは笑みを消してエルフリーデを見据えた。
「人を救う薬なら作りますが、人を殺す毒などもってのほか。――認めませんよ、ワタクシの命に代えても。」
どうやら本気で言っているらしいと察して、エルフリーデは目を細める。
バーデンは自分の抵抗が無意味だと知らないのだ。従うか否かの選択肢を与えたのは彼女の、小指一本分にも満たない慈悲でしかない。
「馬鹿な男……」
呟いたエルフリーデが目を離し、それを合図にバーデンの意識は奪われた。地下牢へと引きずられていく男を見もせずに、美しい女はただ優雅に脚を組み替える。
バーデンの直筆書類は研究室にいくらでもあった。
偽造に必要な分は既に入手済みであり、ほんの短期間騎士団を惑わせる程度の質なら作成に問題はない。
全てはディートリヒの命令でやったこと。約束通り逃がしてはもらったが、罪の重さに耐えきれず自白すると、そういう紙きれを作れば良い。
――そう、ほんの少しでいい。その先が無いのだから。
静まった部屋にノックの音が響き、開いた扉から執事が現れる。
碧の瞳はゆっくりとそちらを見やった。
「失礼します。…お嬢様、牢にネズミが入り込んでおりました。」
「そう。大きいの?」
「聖地から来た大物でございます。こちらは三人潰されました」
「……まぁ、珍しい。見に行こうかしら」
言葉の意味を正しく理解し、エルフリーデは立ち上がる。
一階にある隠し扉から地下牢へ向かい、中でも清潔に保たれている個室の前で足を止めた。他の牢と違って簡単な調度品も揃えられている、いわば丁重に捕えておく必要がある貴人のためのもの。
「不法侵入に暴力……神に仕える身とは思えませんわね。」
エルフリーデが声をかけると、中に居た男は椅子からゆらりと立ち上がる。
少し乱れたシルバーブロンドを手櫛で掻き上げ、イザーク・メルツァーは苦く笑った。切れ長の目に整った顔立ちは変わりないが、唇の端は切れているし、チェーンのついた眼鏡は片方のレンズに一本亀裂が走っている。
「神が暴力を厭うなら、天使は刃など持ちませんよ。エルフリーデ嬢」
「愚行でしたね。貴方が直接来るなんて…メルツァーからアイレンベルクへの敵意と見ていいのかしら?」
「では貴女が彼らを監禁している事は、アイレンベルクから王家への敵意と見ていいのですか?」
「敵意なんて。お聞きしたい事があっただけですわ」
くすりと微笑むエルフリーデの顔に、イザークに監禁を知られた焦りなどありはしない。公爵令息を完璧に始末するのは骨の折れる事だが、そうでないなら些事だった。
ただ少し、不思議に思うのは。
「なぜ今日、ここへ?」
「…貴女に婚約でも申し込もうかと。」
「ふ。正面から入らず、牢へ向かっておいて?冗談は結構よ。誰か、見張りでも立てていたのかしら。ネズミを潜らせていた?口の軽い者がいた?」
推測を並べたてながら、彼女は答えを問うていない。
どれであっても、全て違ってもどうだっていい、そんな声色で続けて言う。
「護衛もなしに飛び込んで、貴方一人に何ができて?」
「……説得できればと、思ってしまいましてね。」
「説得。」
エルフリーデは鼻で笑った。
大して信頼関係もない相手を説得できると思ったなら、それは随分と自信家だ。聖書に書かれた物語でも読み聞かせるつもりだったのだろうか。
苦笑していたそれまでの軽さとは打って変わって、イザークはエルフリーデをぎろりと見据えた。
「随分と杜撰な動き方だ。すぐにボロが出る、結果は見えてるだろ。なぜこんな事をした」
「…貴方には一切、関係のないことです。」
「私にとっては大ありだ。君は王家を潰して何を得る?破滅願望でも芽生えたのか」
声を低めたイザークの気迫に怯み、けれど後ずさりするような無様を見せる事なく、エルフリーデは腹の前で揃えた手を握る。
破滅願望。
全てどうでもよいと感じ、投げやりになって――自らの破滅を望むこと。
「これはただの執着です」
エルフリーデは、気付けばそう口走っていた。
どうでもよくなっていたのは事実だが、自らの破滅を望むなど、まるで全てへの敗北を認めたようで。間違っていたと自ら認めたのだろうと問われたようで、そんな事は受け入れられなかったから。
だから、言わなくていい言葉までもが零れ出す。
「わたくしは、ディートリヒ殿下と共に歩む日を思って生きていたのに。……殿下は、そうではなかった。いつかわかってくださると、そう思っておりましたが………彼は、シュミット侯爵令嬢を選びました。わたくしの方が早く知り合っているのに」
そう語る声は僅かに震えていた。
心に留めきれない激情が碧の瞳に表れ、まるで揺らめく炎のようだった。
「これがたとえ一方的な想いでも……積み上げてきた、わたくしの全てを否定されるなら…」
ならば捨てよう、消してしまおう。
自身の中にある苛烈な怒りと嘆きに触れ、エルフリーデはこみ上げたものを隠して瞬いた。黙って聞いていたイザークは、二人を隔てる檻の前へと歩く。
どうしてか彼は、困ったように笑った。
「…相変わらず真面目だな。君は」
今声を発すればどう聞こえるかわかっているから、エルフリーデは言葉を返さない。
手を伸ばしても彼女には届かない事を承知で、イザークは鉄の檻に触れる。
「――ディートリヒなんかやめて、私にしておけ。」
命惜しさに言っている目ではなかった。
けれど手を伸ばしたら、自分が弱い生き物になってしまう。そんな気がして、エルフリーデは瑠璃色の瞳から目をそらした。
「……ご冗談を。貴方では意味がありません」
そのまま踵を返し、早足に地下牢を後にする。
檻に寄り掛かって俯いたイザークは、足音が完全に聞こえなくなると深いため息を吐いた。捕まる時に痛めつけられた身体が軋む。
五年ほど前、当時はまだ身長が近かった彼女の姿が脳裏に浮かんだ。
『良い夜だな、エルフリーデ嬢。私と一曲どうだろう』
『…初めまして。随分と馴れ馴れしいのですね。貴方はメルツァー公爵家のご令息かしら』
『……ああ、これは失礼。ご推察の通り、私はイザーク・メルツァーだ。』
『先に言っておきますが、わたくし将来は王家に嫁ぎますの。そちらも、良いご縁が見つかるといいですわね。』
同じ女に二度フラれたなと、イザークは苦い顔で椅子に戻る。
一人用の小さなティーテーブルに置いていた聖書を取り、組んだ脚の上で開いた。メルツァー公爵家の人間から聖書を奪う者はまずいない。高位貴族や彼らに仕える者なら猶のこと。
「…裁定前に殺してくれるなよ、神様。償う機会をやってくれ」
罪を抱えた者は、神から新たな生を貰う事ができない。
ゆえに罪は裁かれ、罪状が確定した上で償わなければならない。
そうでなければ誰一人、その者に再会する事はないだろう。
聖書を傾けると、背表紙と本の背の隙間から細長い金属が滑り落ちる。先端が真っ直ぐな物と曲がった物。チャリ、と鳴らしたそれを手に檻の扉を見やり、立ち上がる。
――アイレンベルクの地下牢。脱出には骨が折れそうだな……。
まずは開錠にどれ程かかるかと考えながら、イザークは聖書を閉じた。




