17.いずれ妃となる、君。
部屋の入口近くには護衛騎士と侍女が控えている。
ベッド脇に椅子を置き、わたくしはディートリヒ殿下を見つめておりました。
出逢ったあの日と比べれば確実に成長されているのですが、それでも懐かしい寝顔です。
もう、何年前の事でしょう?
殿下が瞼を開けて、その青い瞳にわたくしを映した……あの瞬間を、今でもはっきりと思い出せます。
貴方様が覚えていなくとも。
高熱に苦しみ、記憶の彼方に消えてしまっても、夢のようであったとしても。
あの日のわたくし達は確かにいたのだと、果たすべき約束があるのだと、わたくしは知っています。
だからご安心ください、殿下。
もし《主君》になってくださらなかったとしても、わたくしは覚えている。
お傍にいられない立場に、日々に、戻ってしまったとしても。
あの日の出会いを、最期まで思い出してくださらなかったとしても。
それでも必ず全う致しましょう。
貴方様の…
「う……ん…」
瞼がぴくりと動き、掠れた声と共に殿下が目を開ける。
まだ少し意識が浮上しきらない、ぼんやりとした表情。深い青色の瞳。ゆるりと瞬いてわたくしをその目に映し、殿下は微笑んでくださいました。
「ユリア…」
「はい。ディートリヒ様」
人目がありますので殿下とは呼びません。
わたくしが婚約者らしく微笑み返して名を呼ぶと、殿下は嬉しそうに目を細め――…ぴたりと、真顔になりました。少々眉を顰めておられます。
「ユリア?」
「はい。わたくしです」
「何で私の部屋にいるんだ。いや、今は何時だ?私は一体、」
記憶がやや混濁しているご様子。
眠りについたのではなく失神なさいましたから、無理もありませんね。わたくしは「大丈夫ですよ」とできるだけ穏やかに語り掛けました。
「緊急時であると判断し、付き添わせて頂きました。ディートリヒ様は午後二時七分に失神され、今は午後四時三十八分でございます。」
「四時半過ぎ!?ニクラス――」
「はい。レヴィン様にはご連絡済みです」
殿下が勢いよく起き上がろうとなさったので、それとなく両肩をストトッと突いて押し戻し、お布団を素早く、かつ丁寧にかぶせ直す。これで元通りでございます。
急に起き上がるなんて、立ち眩みなど起こしたらどうするのでしょう?いけませんよ、殿下。
「……、今何が起きたんだ?」
「二時半予定でしたシンデルマイサー医師との面談は、僭越ながらわたくしが代理を。第一王子殿下の病状は、ここ一週間ほど安定しておられるそうです。少量ずつであれば、来週から新薬を試す方向で調整できると。」
「そうか、それはよかった…」
安心された様子の殿下は、ひとまず落ち着いてくださったようです。
ある程度対応をしたのだろうと察し、こちらの話を聞こうとなさっている。えぇ、きちんとやったのですよと言いたくて、わたくしはサイドテーブルに置いていた資料を手に取りました。
「三時十五分には予定通りフィッシャー様の訪問があり、ブライトナー領について報告書の提出がございました。口頭で補足があった部分は別紙にまとめております。また一点、わたくしの愚見を添えてしまいましたが、もし不要と判断されましたらお気になさらずに。」
続けて何点か、レヴィン様がわたくしに明かしてよいと判断された限りで、幾つか報告と相談がございましたので、その対応と、必要であれば「なぜその対応をしたか」についてお伝えしておきます。
殿下は思案顔でじっと聞いていてくださいました。
眉を顰めるような事はなかったので、おおよそ、わたくしの対応は誤っていなかったはずです。
「…後はバルヒェット伯爵領の鉱山事故が、実情より大袈裟に報告されていた件について。こちらの調査報告を虚偽だと仰って、伯爵ご自身が押しかけて参りました。」
無論、警備にあたっていた騎士が廊下の先で止めてくださったのですが。
少々お声が大きかったものですから……殿下の眠りを見守っていたわたくしとしては、姿を現して「お静かに願います」と、そうお伝えした次第でございます。
「廊下で急にお眠りになられましたので、後の事はゼッフェルン様に対応をお任せしております。」
「わかった。それで大丈夫だ……すまない、随分手間をかけてしまったようだな。」
殿下はゆっくりと身を起こし、わたくしと目を合わせて苦笑されました。
申し訳なく思っておられるご様子ですが、そんな必要はありません。
「この程度は当然です。」
殿下の手を取り、滑らかな手の甲にわたくしの額をあてました。
続けて、指先に口付けを。
「わたくしは、貴方様の妻になるのですから。」
顔を上げて微笑むと、なぜか殿下の喉がヒュッと音を立てました。
はて。わたくしは殺気も武器も出していないのですが。
「………ユリア」
「はい」
返事をして手を離そうとしたものの、今度は殿下がわたくしの手を握っています。
赤いお顔で、熱っぽい眼差しでわたくしを見つめたかと思えば、視線を泳がせる。
「ありがとう…その、君が居てくれてよかった。」
「お言葉を嬉しく思います、ディートリヒ様。わたくしは――お力になれたでしょうか。」
使えますでしょう、という言い方はせずにおきました。殿下が明確に拒否した表現ですから。
わたくしの手を握り、殿下は僅かに目を細めて微笑みます。
「もちろんだ。……私の妃は優秀だな」
妃。
そう言い切って頂くにはまだ…ほんの少し、気の早いお言葉ですが。
甘く優しい眼差しについ、見とれてしまいます。ディートリヒ殿下がわたくしを真っすぐに見つめている。
変わりませんね。
貴方様の、その――真摯なお心は。
暗殺者の主には向いていない。
だって、わたくしを道具として見れていません。その気もないご様子。
幼い頃から磨いてきたこの腕を全力で振るう機会は…ディートリヒ殿下に仕える限り、そう多くはないのでしょう。
殿下は「人を殺す道具」を欲していない。
けれど。
『――…どうか、長くお傍にいさせてくださいね。』
『ああ、共にいよう。私が望み、君が許してくれる限り。』
けれど貴方様は、わたくしを選びました。
わたくしを求めました。
『君がそう言ってくれるなら、私は婚約を続けたい。』
他の誰でもない、わたくしに頼んだのです。
だから。
「どのような《お仕事》でも、ご期待に沿ってみせましょう。」
あの時と同じ温かさを感じながら、わたくしは微笑んでお約束致します。
嬉しくて、喜びで胸がとくとくと高鳴っている。
「ありがとう。頼りにしているよ、ユリア。」
「はい。ディートリヒ様」
必ず応えましょう、貴方様が望む限り。
守ってみせましょう、貴方様が想う人を。
共に支えていきましょう、貴方様が背負う国を。
そうしていつかは殺しましょう、貴方様が望むまま。
穏やかに笑って終わりましょう、わたくし達の物語を。
いずれ……遠い未来で。
◇
豪奢な屋敷の一室で、騎士が跪いている。
「……天使」
長椅子に腰掛けた金髪の女は、艶やかな唇でその単語を呟いた。
イザーク・メルツァー公爵令息が、第三王子ディートリヒに対し、その婚約者ユリア・シュミットの存在を揶揄った言葉だ。
人の姿を取りながら、人とは思えぬ程の美貌を持つという神の使い。
そんなものは――
「お伽噺、ですわね。」
長い睫毛をゆったりと重ね合わせ、女は熱の無い冷めた声で言葉を紡ぐ。
騎士は熱心に彼女を見つめている。焦点が合っているのか怪しい程に。
「――《神は常に我らを見守り、正しき者には天使を遣わす》。」
天使は光の翼を広げ、手にした刃で闇を払う。
神の御業で道は開かれ、人は新たな生を得る。
今世もし上手くいかずとも来世がある、そんな話だ。
人生に絶望するような事があっても、正しく生きる事こそ素晴らしいのだと。より良く生きなさい、より善く在りなさい、そう言いたいだけのこと。
「天使なんて…そんなもの、どこにもいませんのにね。」
彼女が返事を求めていない事を、騎士は知っている。
騎士が何も聞いていない事を、彼女は知っている。
美貌を見つめるだけで幸福だと言う、その心の奥に「あわよくば」などないと信じている、馬鹿な男。
蠱惑的な唇を広げた扇子の裏に隠し、エルフリーデ・アイレンベルクはため息をつく。
その仕草までもが美しい。
彼女は王妃になるべくして生まれ育ち、第二王子エドゥアルトと結ばれるはずだった。
けれどそれでは困るから、いずれ彼を落とし、第三王子ディートリヒを得るはずだった。
それがどうしてかエドゥアルトは自ら去り、道は簡単になったかに見えた。
しかし。
『シュミット侯爵令嬢!』
ディートリヒの選択はあまりに重かった。
それがわかったのはあの夜会からしばらくの後。数多の罠も襲撃者も、誰一人ユリア・シュミットを落とせないとわかってからだ。
侍女の一人に同僚の仕業に見せかけて毒を入れ続けさせても、ユリアは誰を遠ざけるでもなく、毒入りだけを的確に避けている。
さすがに偶然ではない。「そこから離れろ」と、その意図は伝わっているはずだ。
なのに動かない。
『望まれたなら全力でお応えする覚悟がある、それだけの事です。』
ディートリヒはユリアを選び、ユリアはディートリヒに応えようとしている。
それは決して悪い行いではない。むしろ本人達からすれば《正しい》行いだろう。
あの二人は悪くない。
だが、それならば。
――……わたくしは、何のために…。
望んだ結末があり、思い描いた未来があった。
そのために前を向き、努力してきた自分がいた。
けれど、それが手に入らないのなら。
前を向く意味は。
努力した意味は。
願いを支えに生きてきた自分は。
未来を頼りに立っていた自分は。
「――…本当に、滑稽で………なんて、惨め。」
ぱきん、と音がした。
閉じた扇子か、別の何かか、エルフリーデは音の原因を考えない。
光のない碧の瞳はただ、閉じた窓の向こうを見つめていた。
色を深めた青空にじわり、黒が滲んでいく。
夜が始まった。




