公爵令嬢は顔の見えない相手とバイオリンを奏でる。貴方は誰?会いたいわ。
セリスティア・アッシーナ公爵令嬢は、アッシーナ公爵家の一人娘として生まれた。
父のロベルト・アッシーナ公爵は有名なバイオリニストで、セリスティアは幼い頃から、父からバイオリンを習い、公爵令嬢としての教育もマナーも徹底して厳しく育てられた。
セリスティア10歳。まだまだ親に甘えたい年頃である。
しかし、母を生まれてすぐに亡くしており、父は厳しくセリスティアを注意してばかり、
世話をしてくれるメイドは沢山いたけれども、気軽に話をする事も出来ずいつも孤独だった。
バイオリンだって大嫌いで、父から教わる時間は苦痛で苦痛でたまらない。
いつも泣いて嫌がると、父に怒られるので、仕方なく毎日バイオリンを練習する。
アッシーナ公爵領は、カレスト王国の東端にある広い領地で、大きな湖があって自然豊かだった。
その湖畔に立つ屋敷でセリスティアは父と過ごしていたのだけれども、夜になれば、人里離れたこの屋敷では孤独感が尚更募る。
寂しい…寂しいの…
一人で眠る広いベッド。
セリスティアは震えてベッドの中で、毎日、寂しく眠るのであった。
そんなとある日、セリスティアがいつものごとく湖畔に朝早く散歩出かけた。
湖のほとりはいつも、この時期は霧が深く立ち込めており、
ひんやりとした空気がセリスティアの金の髪を撫でて、心地よい。
ふと、湖畔に立ついつも人気のない塀の高い屋敷から、バイオリンの音が聞こえて来て。
思わず、塀に近寄ってみる。
耳を澄ませてみれば、とても綺麗なバイオリンの音が聞こえてきた。
綺麗でかつ力強くて。
父、アッシーナ公爵は音楽家だから当然、バイオリンは上手い。
このバイオリンの主は、それに比べればまだまだの腕だが、それでも、セリスティアは聞き惚れてしまった。
わたくしはバイオリンは大嫌いなのに、なんてこの人は一生懸命弾いているのでしょう。
ゆったりとしたまるで湖に優雅に白鳥が泳いでいるような…
そんな曲で。
しばらく塀に寄りかかって瞼を瞑りその曲を聞いているセリスティア。
何だか嫌な父からのバイオリンの授業も、少しは頑張れるそんな気がして。
その日は屋敷に帰ったのであった。
それからのセリスティアの楽しみは塀の向こうから聞こえてくるバイオリンの音を聞く事であった。
毎朝、一定の時間にその人はバイオリンを弾いているようで、
うっとりと聞き惚れるセリスティア。
ああ…このバイオリンの主と、一緒にバイオリンを弾いてみたい。
だんだんそう思えるようになってきて、とある日、自分のバイオリンを持ってきて、
思わず合わせて弾いてしまった。
向こうの音が驚いたように一瞬止んで。
セリスティアはドキドキする。
驚かせてしまったのかしら???
どうしよう。弾いてくれなくなったらどうしよう…
しかし、そのバイオリンの音は何事もなかったかのように、再開された。
その音と合わせるようにバイオリンを弾くセリスティア。
霧が深く立ち込める湖畔に、その音は静かに流れて行き、
音を合わせる事の何という幸せ…
セリスティアは生まれて初めて、バイオリンと言う物が好きになった。
一曲演奏が終わる。
そして、同じ曲で、相手に会話するように、バイオリンを弾いて来る。
その力強い音は、まるで、君に会えて嬉しいよと言っているようで。
相手の音が止めば、セリスティアが答えるようにバイオリンを奏でる。
わたくしもよ。貴方と演奏出来て嬉しいわ。
交互にバイオリンを弾いて、まるで音で会話をしているようで。
そして、再び共に演奏をする。
なんて幸せな時間…なんて素敵な…
それからのセリスティアは、毎朝、バイオリンを持って、湖畔の屋敷の塀の前で、
演奏をする事が楽しみになった。
同じ曲を一緒に、時には問いかけるように交互に演奏する。
姿は見えなくても塀の向こうの相手とまるで心が繋がっている。
そう思えて。
セリスティアはとても幸せだった。
父にとある日思い切って聞いてみる。
「お父様。あの塀の高い、湖畔の屋敷はどなたがいらっしゃるのです?」
アッシーナ公爵は、眉を寄せて。
「中央のとある貴族から、我が領地で預かって欲しいと言われている王族の方だ。
どなたかは極秘だそうだ。何だ?気になるのか?」
「ええ。お会いする事は出来ないのですか?」
「極秘なお方だ。それは出来ない。くれぐれもあの屋敷に近づくではないぞ。」
「はい。お父様。」
そうは言ったものの、毎朝の密かな楽しみを止める事は出来なかった。
塀の向こうの主に会いたい。
でも…
会う事は叶わない。
10歳の少女の胸は時折苦しく、切なくなる…
相手が男か女かも解らない。
でも、わたくしは貴方が好き。
そんなとある日、いつものバイオリンの音に合わせて、屋敷の中から優しいピアノの伴奏が聞こえてきた。
え??ピアノ?なんて優しい音…
二人のバイオリンの演奏をまるで優しく見守るような、控えめなピアノの演奏で。
演奏しながら、尚更、屋敷の中の人物が、いや、もう一人…ピアノの演奏をしている人物も気になる。
会いたい…会いたい気持ちが余計に募って。
貴方達は誰?
会いたい…会いたいわ…
でも、それは決して会ってはいけない、王族の方々。
セリスティアはもどかしい想いに涙するのであった。
夏になるとその王族の方々は、アッシーナ公爵領の湖畔の屋敷に滞在していて、
その3か月の間、セリスティアは毎朝、湖畔の屋敷の塀の前に行き、バイオリンを奏でる。
ピアノの演奏者は時折加わるが、いつもはバイオリンの人だけで。
バイオリンを弾くたびに、セリスティアの想いは募っていく。
貴方が好き…貴方に会いたい。
男性でも女性でも構わないわ…
わたくしは貴方の演奏が好き…
相手の演奏もセリスティアの想いに答えてくれるように、
時には熱く情熱的になる事もあった…
まるで二人の心が繋がっているかのように…
そんなやりとりが夏の間だけ、5年程続き、いつの間にかセリスティアも美しい金の髪に青い瞳の17歳の女性に育った。
そして、17歳の春。父、アッシーナ公爵から驚くべき事を聞かされたのだ。
「王都へ行くぞ。白羽の矢が立ったのだ。お前をカレスト王国のディアス王太子殿下の婚約者候補にしたいと。候補は数人いるらしいから、お前が選ばれるとは限らないが。」
「候補ですか。お父様。わたくしのような領地に籠っていた者に、王妃が務まるとは思えませんわ。」
そう、セリスティアは王都の貴族の社会を知らずに育った。
何故、そんなセリスティアに白羽の矢が立ったのだ?
アッシーナ公爵は、
「お前の美貌が噂になったのだろう。それから私の娘だからな。」
セリスティアは訴える。
「お父様。お願いがございます。わたくしは王宮での顔見せにバイオリンを演奏したいと思っております。」
そう…王族の方々にわたくしの演奏を聞いて貰いたい。
もしかしたら、あの屋敷にいた人達に会えるかもしれない。
特にバイオリンを弾いていた。あの人に…
アッシーナ公爵は頷いて、
「それは良い。私の娘のバイオリンの腕を披露すれば、尚更、王太子殿下の良いアピールになるだろう。」
わたくしは、王妃になりたくはないのよ。ただ、あのバイオリンの人に会いたい。
そんな熱い想いを胸にセリスティアは、王都へアッシーナ公爵と共に行くことになった。
田舎の領地とは違い、人々が行き交い、色々な建物が立ち並び、何て凄い所なのだろうと、馬車の中から眺めて驚く。
生まれて初めて、王都のアッシーナ公爵屋敷へ着けば、沢山のメイド達が並び、出迎えて。
見慣れた執事のセレクトが、
「遠い所お疲れ様でございます。今日はごゆるりとお休みください。」
と出迎えてくれた。
領地の屋敷も立派だけれども、この屋敷も素敵だわ。
だなんて、思いながら案内された部屋でくつろぐセリスティア。
アッシーナ公爵が、明日、セリスティアがバイオリンを王宮の夜会で披露する機会を与えてくれた。
もし、そこでこの国のディオス王太子殿下に見初められてしまったら…
わたくしは王太子殿下と婚約しなければならない。
彼は噂では18歳、優秀な王太子で、将来を期待されているとの事。
田舎の公爵令嬢が王妃なんて務まるとは思えないけれども…
でもわたくしは…明日に賭けるの…
わたくしが会いたいのはバイオリンの人…出来れば、ピアノ演奏をしていた人にも。…
わたくしは精一杯の演奏をするわ。
翌日、水色の清楚なドレスを着て、髪に白の花を飾り、バイオリンを持って、セリスティアは王宮の夜会に出席した。
国王陛下も、王妃ソフィアも、側妃マルディアも、共に出席する。
アレス国王陛下は側妃マルディアを寵愛し、王妃ソフィアを冷遇していると評判だった。
ディアス王太子も側妃マルディアの息子であり、この世の春とばかり、マルディアはそれはもう真っ赤なドレスを着て、これ見よがしにアレス国王にエスコートされ、夜会に入場する。
王妃ソフィアもディアス王太子も、他の王族の方々も皆、席に着いて、
アレス国王は、アッシーナ公爵とセリスティアに声をかける。
「遠路はるばるよく来たな。この令嬢がセリスティアか。」
アッシーナ公爵が答える。
「娘セリスティアです。今宵はバイオリンを演奏したいとの事で。」
セリスティアも挨拶をする。
「セリスティアでございます。どうか、つたない演奏ですが、お許しくださいませ。」
アレス国王は頷いて、
「こちらにいるのが、王太子ディアスだ。」
ディアス王太子はセリスティアに近づき、
「そなたの演奏、楽しみにしているぞ。」
「有難うございます。王太子殿下。」
優雅にカーテシーをし、セリスティアは下がり、バイオリンを持ち、弓を構える。
そして、いつも湖畔で弾いていた曲を弾き始めた。
静かでそして、流れるようなあの曲を…
王宮の広間にその曲は響き渡る。
集まった貴族の面々も、皆、その曲に聞き惚れて。
勿論、王族の方々も、皆、その曲を瞼を瞑って聞いている。
そう、この曲を弾いている間は、あの霧深い湖の畔…
時は夏の朝に戻って…
わたくしはここにいるわ。貴方…どうか、わたくしを見つけて…
曲に想いを乗せて、奏でる。
お願いだから…わたくしは貴方を愛しているわ…貴方が誰であろうと…
男でも女でも…
お願いだから、わたくしに姿を見せて…
5年分の想いを全て乗せて…
バイオリンの曲を奏でる。
その時である。置いてあるピアノに近づき、スっと座って、静かに伴奏を始めた人物がいた。
セリスティアは視線を移して驚く。
ピアノを弾いていたのは、王妃ソフィアだった。
銀の髪に、白のドレスを着たソフィア王妃は、優しい音色でピアノの伴奏をする。
王妃様。貴方だったのですね…ピアノを弾いていたのは…
バイオリンを弾きながら、目で訴えれば、ソフィア王妃はにこっと微笑んで、
ああ…ピアノの伴奏者に会えた。
それでは、バイオリンを弾いていたあの人は誰?
その時である。
力強い聞き覚えのある音色が、広間の端から聞こえて来た。
そちらへ視線を移すと、一人の銀の髪の青年がバイオリンを奏でていた。
まぁ…貴方だったのね…
この王宮に足を踏み入れた半日前…
入り口近くで、この青年に会ったのだ。
彼は自己紹介をしてきた。
「私は、王宮図書館長をしております、レニアス・ハーレッドと申します。」
「レニアス様。」
「セリスティア様は遠くの領地からいらっしゃったとの事。王宮図書館には色々な書物がございます。
もし、御入用であれば、ご案内いたしますので、いつでも声をかけて下さい。」
「有難うございます。」
銀の髪のこの青年はにこやかに、挨拶をしてくれたのだ。
何だか初めて会った気がしなくて…
そのレニアスが、バイオリンを力強く奏でる。
セリスティアも、合わせるように奏でて、
レニアスが近寄って来て、二人で向かい合ってバイオリンを奏でる。
一旦、セリスティアがバイオリンを弾くのを止めれば、
レニアスが、バイオリンをセリスティアに向けて、熱っぽく奏でて来て、
会いたかった…君の顔が見たかった…ずっとずっと君が好きだった…
レニアスがそう訴えているようなそんな演奏で…
レニアスが演奏を止めれば、それに答えるかのように、セリスティアが演奏をする。
わたくしも会いたかったわ…貴方だったなんて…
わたくしも貴方の事が好き…ずっとずっと好きだったわ…
こうして貴方に会えて嬉しい。嬉しいわ…
二人共に、再び演奏をする。
ソフィア王妃が優しくピアノで伴奏して…
演奏が終われば、皆、総立ちで拍手をしてくれた。
アレス国王が二人に近づいて来て、
「素晴らしい演奏だった。セリスティア。」
ディアス王太子もセリスティアの前に来て、
「婚約者候補として、申し分ないな。勿論、他の令嬢達と吟味を更にしなければならないが。」
セリスティアはにっこり微笑んで、
「お願いがございます。わたくしは…王太子殿下の妃は務まりませんわ。
どうか婚約者候補から外してくださいますよう。お願い申し上げます。」
アッシーナ公爵は慌てて、
「無礼をっ。お許しください。国王陛下。」
アレス国王は手でアッシーナ公爵を制し、
「何か考えがあるようだな。聞こう。」
セリスティアは、まっすぐ国王陛下を見つめ、
「わたくしは音楽家として生きたいと思います。
わたくしは…レニアス様と共に、音楽を広めたいと思っております。」
レニアスの顔を見つめる。
レニアスはセリスティアに、
「私は王妃を母に持ちながら、王太子を外された男だ。でも、私は君の事が好きだ。
こんな私でよければ、どうか私の妻になってくれないだろうか。」
それから、レニアスはアレス国王に向かって、跪き、
「私はセリスティア・アッシーナ公爵令嬢と婚姻したいと存じます。どうか、国王陛下。
お許しを。」
側妃マルディアがアレス国王にしなだれかかりながら、
「いいじゃありませんか。田舎公爵の娘が、レニアスごときにはお似合いですわ。
ディアスにはもっとふさわしい王都の公爵令嬢を婚約者にしてくださいませ。」
アレス国王は頷いて、
「そうだな。レニアス。お前とセリスティアとの結婚認めよう。」
「有難うございます。」
セリスティアも頭を下げる。
「感謝致します。」
レニアスと手を携えて、王宮の広間退出し、テラスで話をする。
セリスティアはレニアスに、
「貴方だったなんて…わたくしずっと会いたかったの…」
レニアスもセリスティアをぎゅっと抱きしめて、
「私もだよ。一緒に演奏してくれていたのが、アッシーナ公爵令嬢だという事は知ってはいたが…私と母が、アッシーナ公爵領で夏の間、避暑に行っている事は内密事項だったから…君に会う事も出来なかった。ああ…こうして顔が見られて、こうして抱き締める事が出来てなんて幸せなんだ。」
幸せだった…
こうして、ずっと想いを寄せていた人に会えて。
結婚する事が許されて…
ふと、柱の方を見れば、王妃ソフィアが立ってこちらを見ていた。
「王妃様。」
思わず声をかけてしまう。
王妃ソフィアは慌てて、
「ごめんなさい。お邪魔でしたわね。」
慌てて、王妃ソフィアの前に行き、セリスティアは、
「いえ…王妃様にもお会い出来てわたくしは嬉しく存じます。」
「わたくしも嬉しいわ。貴方とレニアスが結婚する事になって…
わたくしも貴方と共に演奏する事で、心が慰められたわ。
本当に有難う。」
王妃ソフィアは涙を流して、感謝してくれた。
セリスティアは無礼とは思ったが、王妃ソフィアを抱き締めて。
「わたくし、レニアス様と結婚しましたら、王妃様の所へも、お茶しに参ります。
又、一緒に演奏致しましょう。」
「嬉しいわ。楽しみに待っているわね。」
それから、しばらくして、レニアスとセリスティアは結婚し、セリスティアは王都のレニアスの屋敷で暮らす事となった。
二人の仲は結婚後も更に熱々で、ほどなくセリスティアは子を妊娠し、王妃ソフィアと、アッシーナ公爵を喜ばせた。
皆して、生まれてくる子にバイオリンを教えるんだと、音楽家にするんだと、
まだセリスティアのお腹にいるうちから、皆で音楽を聞かせている。
その甲斐あってか、後に二人の間に生まれた一男一女は、どちらも有名なバイオリニストとなり、王国の音楽発展に更に尽くしたと言う。