Luna invisibile. 見えていない月 II
「そういえば」
アルフレードはサインした書類を横に置いた。
「クロエという名は何か悪かったのか?」
「クロエ?」
「マリア・チェーヴァのミドルネームに付けようとしたら、君が止めただろう」
インク瓶の底をつつき羽根ペンにインクを付ける。アルフレードは次の書類にサインをした。
「棺に薔薇が沢山あったのを見て、咄嗟に思い付いただけの名だったのだが」
アルフレードは言った。
「 “ 咲き誇る ” という意味だったと」
ベルガモットは、ぽかんとアルフレードの様子を見詰めた。
「てっきり……」
あの女の名前を付けるのだと思ったのだ。
「何だ?」
アルフレードが顔を上げる。
「い、いや」
ベルガモットは顔を傾け髪を掻き上げた。平静を装う。
「マリアだけで良かろう。良い名だ」
「そうか」
アルフレードは次の書類を手に取り、暫く文章を目で追っていた。ややしてからサインをする。
「花までは失念していた。用意してくれて感謝する」
「感謝など要らん。それより地下にあったガラクタを早う引き取らんか」
「そうだな」
アルフレードが苦笑する。
どうやら今のところこの下僕は無事なようだ。ベルガモットは目を眇めた。
冥王の口説きにはまだふらついてはいないとみえる。
だが油断は出来ん。今のうちに冥王にも改めて釘を刺しておかなければ。
「ではな」
そう言い、ベルガモットは踵を返した。冥界への入り口を自ら作り、足を踏み出す。
「今日は月が綺麗だな」
不意にアルフレードがそう口にした。
「まだ昼間ではないか」
ベルガモットは窓の外を見た。夕刻近いとはいえ、いまだ外は明るい。
「出ていなくても言うものなのだろう?」
顔も上げずアルフレードはそう言った。羽根ペンが紙を滑る音が微かに耳に入る。
「意味の分からん者に言われてもな」
「意味なら聞いた」
サインした書類を横に置き、アルフレードは羽根ペンにインクを付け直す。
「あとは、執務が終わってからにしてくれないか」
一切顔も上げずそう言うアルフレードを、ベルガモットはじっと見た。
「……うむ」
とりあえずそう返事をしてみたが、つまりどういう意味なのだと首を傾げる。
「また来る」
そう言い、ベルガモットは改めて冥界の入り口に足を踏み入れた。
「ああ」
アルフレードが書類を見たまま、そうと返した。
LIETO FINE
Distinti saluti.