Chi è quella bella donna. あの美しい令嬢は誰
屋敷に戻って一週間。
アルフレードは昼すぎまでいた執務室を後にし、屋敷の端の方に位置する薄暗い廊下をつかつかと歩いていた。
いつの間にやら後を付いて来ていた執事がおもむろに言う。
「お仕事を」
「半分ほど済ませた。休憩だ」
歩きながらアルフレードは上着を脱いだ。後ろを向き執事に手渡して更に早足で歩く。
「ピストイアの舞踏会では随分とお楽しみだったとか」
「叔父上から変な話でも聞いたか? 誰も持ち帰ってなどいない」
「いいえ」
執事は淡々とした口調で言った。
「一人ワルツなどという余興を披露した上に、ご友人と決闘の見世物までなさったとか」
うっとアルフレードは喉を詰まらせた。
「いや……」
襟元の襟締を緩めながら眉を寄せる。
「人違いだ」
「叔父上様の使いの方が、そう伝えて参りました」
「……あの人は、わざわざ人を使ってそんなことを知らせてよこしたのか」
アルフレードは眉を寄せた。
「いえ。もちろん本題は別のことでしたが」
「何を伝えてきた」
袖口の留め具を外しながらアルフレードはそう尋ねた。
「各所に住むご親戚の方々が、アルフレード様へのご機嫌伺いにそろって出向くつもりでいるようだと」
「そうか」とアルフレードは歩きながら返事をした。
チェーヴァ家の親戚同士の仲ははっきり言って悪い。特に財産管理の主導権を握りたがって当主であるアルフレードに難癖を付けてくることは、たびたびあった。
「どうせ来るなと言っても来るだろう。用意しておけ」
「はっ」
執事は礼をしつつ後ろを付いて来る。
しばらく無言で歩を進めてから、アルフレードはおもむろに付け加えた。
「……仮面を付けていたのだ。誰が誰かなど分からないだろう」
「そうで御座いますな」
執事は言った。そういうことにして差し上げようという余計な気遣いを感じる。アルフレードは更に眉根をよせた。
「どちらまで」
ぴったりと歩調を合わせて付いて来ながら執事はそう尋ねる。年齢の割に中々足腰は強いなとアルフレードは思った。
「地下だ。付いて来なくていい」
「地下で御座いますか」
執事はしばらく無言で後を付いて来た。普段、ほとんど使われることのない薄暗い廊下に行儀の良い靴音が響く。
「最近、地下のお掃除に凝っておられるようですが」
「掃除に凝っている訳ではない。探しているものがある」
執事は後ろを歩きながらしばらく黙っていた。顎に手を当てたかのか衣擦れの音がする。何かを思案しているのか。
「亡霊でもお探しですか」
「……なぜそうなる」
「何代か前のご当主の頃まで、地下牢が日常的に使われておりましたから。いまだに獄死した者の亡霊が出るとかいうお話が」
「聞いたことはなかったが」
袖を軽くまくりながらアルフレードはそう返す。
「あなた様は亡霊など全く興味はありませんから、どこかでお聞きしても聞き流してしまっていたのでしょう」
「そうか」
そうアルフレードは返した。
今となっては亡霊など、興味がないどころか見慣れているんだが。そう言っても理解されんだろうなと思う。
地下につながる階段に差しかかる。
今では使用人すら来ないであろう、古い煉瓦の壁に囲まれた暗く陰気な一角だ。
中世初期の造りそのままらしく、入り口には錆びた格子戸が設えられている。
奥からひんやりとした空気が漂っていた。同じ屋敷内でも、通常よく使われる場所の明るさ、煌びやかさとはまるで違う。
ここのところ何度か来ていたので階段を降り中に入れるようになっていたが、始めに来たときは、入り口は古い掃除道具や壊れた椅子などの不要物で埋まっていた。
どれだけ長い年月放置されていたのかがよく分かるなと、げんなりとしたものだ。
「ここにあった不要物はどうしました」
周辺を見回し執事が尋ねる。
「いったん知り合いの土地で引き受けてもらった。後で運んで片づけさせる」
「お知り合いですか」
執事が尋ねる。
「どのようなお知り合いで」
アルフレードは無言で眉をよせた。ベルガモットのことなのだが、何と説明すればいいのか。
「何というか……死にかけた時に知り合った」
錆びた格子戸を開ける。キッと耳障りな音がした。
「医師ですか」
「いや」
真逆だなと思う。
「男性で御座いますか」
「……女性だ」
執事は背後でしばらく黙っていた。要らんことを考えているのかとアルフレードは推察する。
「ピストイアの舞踏会で、喪服のようなドレスをお召しになった女性と踊っていらしたそうですが」
冷たい石造りの階段を降りかけ、アルフレードは一瞬だけ立ち止まった。
「非常にお美しいご令嬢であったとか」
「……周りにも見えていたのか?」
「は?」
執事は怪訝そうに聞き返した。そういえば、条件さえそろえば可能だと以前言っていたか。
「いや……叔父上は、あとはどんなことを」
「ええ」
後をついて来ながら執事が続ける。
「懇意の御家しか招待していない会でしたので、どちらのご令嬢か分かればすぐにでも婚姻話をまとめるのだがと」
アルフレードは眉をよせた。唐突にややこしい話になっている。
そもそも喪に服しながら舞踏会に来る者などがいるのか。そこは疑問ではないのだろうか。
「叔父上様におかれては、にわかに張り切っていらっしゃるとのことです」
「……張り切らんでいい」
「そういったお付き合いのご令嬢がいらしたのですか」
何と答えたものかとアルフレードは額に手を当てる。
「いろいろ心配しておりましたが、そういった方と出逢われていたのなら、ご相談してくだされば」
執事は口の横に手を当て、声をひそめた。
「密かに手回し致しましたぞ」
「……しなくていい」
「坊っちゃま」
執事の後ろから赤毛の女中が顔を出した。
灯りを点けた手燭を差し出す。
「ああ」とうなずいて手を伸ばし、アルフレードは受け取った。そのまま執事の方を向く。
「この先はついて来なくていいぞ。暗くて危ないからな」
「主人が危険な場所に赴くのに置いて戻る訳には」
執事はそう言い姿勢を正した。
「お前が怪我をしたら私が運ぶのか」
「そもそも地下でのご用事など、使用人に言いつけたら良いのでは」
アルフレードは返事をせず踵を返した。
「お前たち、私の部屋の掃除と掃除の監督をしていろ」
「え……お掃除なら朝やりましたが」
背後で女中が言う。
「もう一回やれ。寝台の下の隅の方に埃があった」
アルフレードはそう言い、一人で奥に向かった。




