Mascherata 仮面舞踏会 IV
大きくスペースの空けられた舞踏会場の真ん中に、アルフレードは踏み出した。
姿勢良く堂々とスペースの真ん中まで来ると、ひとりでウィーン風ワルツのステップを踏み始めた。
相手の女性をリードすべき両手は、即興で振りを付け加える。
長めの裾を翻しターンをする。
ざわ、と声が上がった。
疑惑を示すかのように一気に音程を上げるヴァイオリンの旋律。
呼応して音を上げては静まりを繰り返すフルートの音。
わざとリズムをずらして踏むステップが、不穏な雰囲気を掻き立てる。
招待客たちは顔を見合わせた。
ややしてから、斬新な余興と捉えたようだった。
面白がって見ていたが、やがて何人かの女性が、お相手してあげましょうか、という風に手を差し出し始めた。
アルフレードは口元に微笑を浮かべ、ステップの合間に一人一人に丁重に礼をし断った。
面白がった女性たちが、次々と手を差し出す。
丁重に断るところまでが余興と捉えたようだった。
動揺を無理やり沈めているかのような不穏な旋律が続いていた。
気の狂う直前のような不協和音。
そこから流れていく、絶望を静かに自嘲しているかのような穏やかな旋律。
突然、攻撃的に盛り上がっては、また繰り返される不協和音。
曲の退廃的な雰囲気が、匿名で楽しむ場に異様な盛り上がりを加えるようだった。
疑惑の呻きのような旋律。
音程の上下を何度か繰り返すと、音楽は穏やかな部分に差し掛かった。
広間の一角で曲を奏でていた楽隊が、何の気を利かせてか、テンポを通常より少し上げる。
確かに盛り上がるだろうが、ステップを踏む方の身にもなれとアルフレードは仮面の下の眉を寄せた。
手を差し出す女性たちに今度はくるりと背を向け、開いたスペースを流れるように移動する。
見えない女性をリードするような動きを入れると、はしゃいだ声が上がった。
ステップを踏みながら一礼する。
更に声が上がった。
「ブラーヴォ! アルフレード!」
叔父がいつの間にやら前の方で見物していた。
大仰な仕草で拍手をする。
名前を言うな、名前を。仮面を付けてる意味が無いではないかと内心で詰りアルフレードは眉根を寄せた。
叔父の声は、幸いにもざわめきと音楽に掻き消されたとみえた。
豪快なシンバルの響き。
攻撃的なトランペットの音が大きく挟まれる。
口元で扇を揺らしながら、女性たちが笑みを浮かべ眺めていた。
その間を掻き分けるようにして、長身の男性がゆっくりと最前列に進み出る。
仮面を付けていたが、グエリ家の従者と思われた。
緩く腕を組み、暫く何のリアクションもなくこちらを見ていた。
それぞれに何らかの反応をしている来客達の中で、一人だけじっと凝視している様子は、違和感があり目に付いた。
ややして男性は、下を向き僅かに肩を揺らした。
笑っているようだった。
指先で仮面を押さえる仕草をすると、アルフレードと同じスペースに進み出る。
こちらと目を合わせ、口の端をクッと上げた。
ナザリオか。
アルフレードはステップを踏む足を一瞬止め、仮面から覗く目を眇めた。
ナザリオは楽隊の方を眺めると、テンポのやや早くなった音楽に合わせステップを踏み始めた。
アルフレードのものとは違う、古風なステップだった。
派手なターンが加えられているが、即興のものだろう。
挑戦するようにもう一人が加わったことで、再びざわっと声が上がった。
ナザリオはステップを踏みながらアルフレードに近付くと、喉の奥を鳴らすようにして笑った。
「こんなお誘いは、生前を含めても初めてだ」
ターンしながらいったん離れ、ダンスの流れに見せかけ再び近付く。
「やはり若様は堪らない」
天井高く渦巻くようなイメージで貫くクラリネットの旋律。
絶望の泣き声のように寄り添うオーボエの音。
不安な吐息のように後を追うフルート。
数え切れないほどの蝋燭で照らされた広間は、僅かに揺れる灯りが天井に細かく動く影を作り、化粧と香水と酒の香りが熱気を帯び籠っていた。
ナザリオはアルフレードから再び離れると、向こう側からこちらの様子を伺い見た。
一転してステップとも駆け足とも付かない足取りで走り寄る。
「うっ」
アルフレードは、小さく声を上げ身を躱した。
袖に隠すようにして、ナザリオはナイフを握っていた。
首の辺りに振り上げるようにして切り付ける。
招待客らが、わっと声を上げた。戸惑うように顔を見合わせていたが、平然とアルフレードがステップを続けたことで、余興の一部だと解釈したようだった。
何事もなかったようにナザリオもアルフレードから離れる。
再びダンスの流れを装い、背中からアルフレードに近付いた。
「誘ってみるものだ」
背中合わせになりナザリオはそう言った。
「今度は若様から決闘のお誘いとは」
振り向きざま、もう一度ナイフで首を狙う。
声が上がる。
女性の何人かが扇で口を抑えた。
アルフレードは、ターンするふりをして躱す。
「こんな煌びやかな場所で、また若様の耳元にふしだらな言葉を囁けるとは」
ナザリオは口の端を上げると、今度は鋭い動きで連続してナイフでの攻撃を仕掛けた。
曲のテンポがますます速くなる。
完全に懇意の男性二人の打ち合わせの上での余興と受け取ったのか。
楽隊は楽器の音色をいつもより大きく鳴らし、演奏は心音の激しさを誘うような速い調子になって行った。
「くっ」
軽く歯を食い縛り、アルフレードは速いステップでナイフを躱す。
「若様、どうした」
ナザリオは昔風のステップを踏みながらアルフレードから離れ、背中を擦り付けるようにしてまた近付いては攻撃を繰り返した。
「決闘に誘っておきながら、ご自分は武器をお使いにならないのか」
アルフレードは上目遣いでナザリオを見た。
「攻撃してはどうだ」
ナザリオは、女性側になるようにアルフレードの手を取った。
「他人の身体など気になさらず」
顔を近付け耳元で囁く。
「それとも、若様は男女逆の方が宜しかったか」
含み笑いしながら、女性側として握った手を僅かに上げた。
アルフレードの表情を伺うように見ながら、握った手にギチッと力を込める。
仮面の下からアルフレードは睨み付けた。
ナザリオの手を勢いよく振り払う。
ナザリオは、ふらつくこともなくステップに似せた足取りで後ろに下がった。
アルフレードは間髪入れず踏み込み、斜め上に殴りかかった。
「おっ」
ナザリオは面白そうな声を上げ、更に後ろに身体を引いた。
「やりますなあ。その手があったか」
「そういえば、お前には平手打ちも食らっていたな」
「ああ、あれか」
ナザリオは肩を揺らし笑う。
「あの瞬間は痺れた。若様を女のように征服した気になれた」
「痴れ者が」
激しい目眩のようなクラリネットの旋律。
悲鳴のようなヴァイオリンと、それを低音で支えるヴィオラ。
気の触れる直前のような旋律を何度も繰り返し、心の臓に響くシンバルの音で正気に引き戻される。
再び離れてそれぞれのステップを踏み、ターンを繰り返す。
焦れたようにナザリオが再び踏み込んだ。
頸動脈を一気に狙う。
「くっ」
アルフレードは首を傾け、横に躱した。
咄嗟に手を伸ばす。
ナイフを持った手を掴もうとしたが、口元に笑いを浮かべて素早く避けられた。
もう一度踏み込む。
ナザリオの二の腕を掴んで、強引にこちらを向かせた。
腕を捻り上げる態勢に持ち込もうとしたが、その腕を大きく上げ振り払われた。
ナザリオが肩から背中にかけて身体を擦り付けるようにして近付く。
「中々楽しいが」
長めの裾を翻し、ターンして離れてはまた近付く。
「だが若様、これを続けてどうする」
アルフレードは背後から囁くナザリオを睨んだ。
「結局、私を一発二発殴り付けた所で、傷付くのは憑いた身体の持ち主だけだ」
ナザリオは言った。
「頼みの死の精霊は、もう花になって消滅してしまったし」
嘲るように含み笑いをする。
「限が無いですな」
アルフレードは、ダンスの流れの振りをしてナザリオから離れた。
長い裾が動きに合わせ翻る。
白い手袋を付けた手を動きに合わせ即興で上げた。
無論、ただ遊んでやるつもりはない。
時間稼ぎのつもりだ。
招待客に手出しをさせる訳にはいかない。
ベルガモットが呼び出しに応じ現れるまで、ナザリオをここに繋ぎ止めておく。
アルフレードは、煌やかな天井を見上げた。
まだか。
蝋燭の灯りが僅かに揺れ、大広間内のレリーフの影が視界の端々で震えるように動いた。
だが、待ち望んでいる姿はまだどこにもない。
復活したら、何か前兆のようなものがあるのか。
それとも、こちらが呼ぶのを待っているのか。