Mascherata 仮面舞踏会 II
広間から音楽が聞こえ始めた。
始めは顔見せ程度のカドリーユだ。
ゆったりとした穏やかな音楽が延々と続く。
素性を隠しての遊戯的な会なので、あまり決まりきった流れではなかった。
アルフレードはそっと広間を抜け出し、客室の並ぶ廊下の方に移動した。
滞在にと当てがわれた部屋で、時間を潰すつもりだ。
蝋燭で明るく照らされた廊下を歩く。
扉のノブに手を掛けたとき、奥の方から来た長身の男性が目に入る。
グエリ家の従者だった。
足元に敷かれた燕脂色の絨毯が、ただでさえ静かな靴音をほぼ完全に消している。
アルフレードは、じっと従者の様子を見た。
顔の表情から足元まで、目線を動かし念入りに観察し警戒する。
「アルフレード殿」
従者は穏やかな口調でそう呼びかけ、微笑した。
「先程、回廊の方にいらっしゃるのをお見掛けして、もしやと思っていたのですが」
ああ、とアルフレードは曖昧な返事をした。
あれは、ナザリオに憑かれて凝視していた訳ではなかったのか。
ホッとして微かに息を吐いた。
「先日は私室まで押し掛けまして。ご無礼致しました」
「……いや」
甘やかで、耳に心地のいい発声だ。
低めの声で言い聞かせるように話すナザリオとは違う。
「あれか……気にされるな」
アルフレードは苦笑した。
「今日はチェーヴァの方はいらっしゃってはいないと伺ったのですが」
「……まあ、たまたま」
従者は、舞踏会の行われている広間の方向を見た。
ここまでは音楽は殆ど聞こえない。
客が行き来している範囲の場所とは、別世界のように静かだ。
「うちの旦那様にも、たまには顔を見せて差し上げてくださいませんか」
「いや……」
アルフレードは再び苦笑した。
何度も婚姻を繰り返している間柄の家だ。
親戚も同然の付き合いだが、取りあえず今はあの家の娘の婚約者という立場ではない。
「面会の件も気になさっているみたいですし」
「ああ……」
アルフレードは曖昧な返事をして目を伏せた。
結局、グエリ家の当主が帰って来た後も、面会はしないままだった。
クリスティーナについての話をしたかったのだ。
彼女が亡くなった後に会っても意味はない。
「面会については……もう良いのでと伝えてくれ」
「そうですか」
「旅を急がせて申し訳なかったがと」
「クリスティーナ様のことで御意見申し上げたかったのでは」
従者は言った。
「あの時はクリスティーナ様が、……ああいった時でしたし」
従者は少々言葉を濁した。
「宜しければ、そうお伝えしますが」
アルフレードは、曖昧に頷いた。
少し間を置いてからふと思い出し尋ねる。
「……クリスティーナの侍女を勤めていた方はどうしている」
「あの方ですか」
従者は記憶を探るように少し目線を動かした。
「確か、ご実家に戻られたと」
「そうか」
「行儀見習いとして来ていた方ですから。輿入れの話があったのかもしれないですね」
そう従者は言った。
侍女とて、どこかの御家の令嬢だ。そんなところだろうとアルフレードは思った。
「あまり話したことはない方だったので、詳しくは分からないのですが」
「あの後、何か咎められはしなかったか」
アルフレードは言った。
「いえ……」
従者は少し考えるような表情をした。
「突然のことで慌ただしかったですし、親交のある家の令嬢なので。まあ……経緯は聞かれたと思いますが」
「そうか……」
「では」
従者は一礼した。
すれ違うようにして立ち去る姿を、アルフレードは身動きせず見送った。
ナザリオではなかったか。
ホッとして目を伏せた。
真横まで来たとき、不意に低い声で従者が呟いた。
「若様」
心臓が跳ね上がった。
「今日はまた、一段と汚し甲斐のある衣装で」
アルフレードは勢いよく振り向いた。
従者と目が合う。
従者は驚いた顔でこちらを見た。
「何か……?」
今度は本人か。
「いや……」
アルフレードは、言いながら従者の顔をつい凝視した。
広間の方へと向かった従者の姿を、アルフレードは廊下の角に見えなくなるまで見送った。
「アルフレード様」
ようやく扉のノブを回しかけたとき、同じ廊下の角から現れた年若い女中に声をかけられる。
反応し手を止めると、女中は駆け足気味で近付いた。
「旦那様が、そろそろ顔を出さないかと」
「まだ始まったばかりじゃないか……」
アルフレードは顔を歪めた。
終わる頃に少し出て、主要な客に挨拶する程度で済ますつもりだった。
「その」
女中は言いにくそうに口籠った。
「既にお部屋に持ち帰った方がいらっしゃるなら構わないがと」
「叔父上が?」
アルフレードは小柄な女中を見下ろした。
女中とはいえ、女性に何の伝言を託しているんだと呆れた。
「特にそうつもりはないのでと伝えてくれ。もう少ししたら顔は出す」
女中に背中を向け、アルフレードは客室の扉を開けた。
「……好みの従順な女が今日はいないのでと、はっきりお伝えしたら早いのでは」
女中は不自然なほど背後に密着して言った。
アルフレードの二の腕の辺りから大きな目を覗かせるようにしてこちらを見る。
話し方も目つきも完全に変わっていた。
「……ナザリオ」
アルフレードは眉を緊く寄せた。
女中の大きな目を気味の悪いほど見開き、ナザリオはじっと目を合わせて来る。
「死の精霊のような、高飛車な女は好みではないのでと」
ナザリオは含み笑いをした。
アルフレードは、一度開けた扉を無言で閉めた。
何か言いたいことが頭に浮かんだ気がしたが、頭の中で纏まる前に消えた。
「仮面で素性を隠した女性の性格など、分かる訳がないだろう」
アルフレードは言った。
「だが全て、高貴な女だ。私は楽しめそうだ」
「貴様」
「誰に取り憑いて悪さをしようか」
「……本気で言っているのか」
ナザリオは口の端を上げた。
「せっかく大勢いるのだ。次々に高貴な男に憑いて、次々に高貴な女を。これは面白い」
「ナザリオ!」
アルフレードは声を上げた。
「面白いだろう若様」
「何が面白いか、貴様!」
「分家とはいえチェーヴァの主催した会でのことだ。大変なことになるな」
ナザリオは含み笑いをした。
「激高する者もいるだろうな。死人が出なければ良いが」
思わずナザリオの胸倉を掴みそうになった。
小柄な女中の身体だと気付いて、咄嗟に手を大きく振り下ろす。
「何なら止めに来てはどうか、若様」
ククッと笑いナザリオは肩を揺らした。
「若様がもっと面白い遊びを提案してくだされば、そちらに乗ってやろう」
女中が前後に大きく身体を揺らした。
表情が変わり、アルフレードの顔をぼんやりと見上げる。
「えと……わたし」
「……すぐに行く」
アルフレードは女中にそう言い、廊下を歩き出した。