Corridoio con persone morte. 死者のいる廊下 III
男は肩をすくめた。
その仕草やタイミングは、生前のラファエレとそっくりだ。
だが、動きにぎこちなさがあることにアルフレードは気づいた。
「……肩と腕が動かしにくそうだな。関節をやっと動かしているように見える」
まるで骨と皮だけになった老人の動きだとアルフレードは思った。
成りすましているのは、老人なのか。
怪訝に思った。死者と同年代の者を使うのが普通だと思うが。
「仕方ないよ。骨だけになってしまったのだから」
男は、ゆっくりとこちらに近づいた。
「お前も、私の棺を見ただろう?」
「棺……」
「流行り病で死んだので、誰も近づいてはくれなかった。アルフレード、お前も伯母上に手を添えられて、遠くから見ていたよね」
そう男が語る。近づくごとに、ギイギイと何かの軋むような音がした。
「あのときお前はまだ少年だったけれど、会わないうちに随分と顔つきが男らしくなったね」
アルフレードは、思わず半歩ほど後退った。
「顔に痘痕のある墓掘り人夫が、お前達に託された花を添えてくれた。お前がくれたのは、東洋の紫陽花の花だったか」
アルフレードの脳裏に、八年前の葬儀の光景が浮かんだ。
曇天の日だった。
今にも雨が降りそうで、途中何度か空を見上げたのを覚えている。
チェーヴァ家の霊廟前。
杖を持った大天使の像の前に掘られた四角い穴に、蓋をされた棺が沈められていく光景を、離れた場所からじっと見ていた。
アルフレードが墓掘り人夫に託したのは、青い紫陽花の花だった。
本好きのラファエレは、生前、東洋の珍しい花の博物画を見せてくれた。
紫陽花はその中にあったものだった。
ラファエレが一番気に入っていたのは椿だったが、貿易商に「あれは真冬の花だ」と教えられた。
季節が全く違っていた。
「これくらい詳しく話せば、私だと信じてくれるかい?」
男はもう一度肩をすくめた。
「……そんなものでか。親族の誰かから聞ける範囲の話だと思うが」
アルフレードは答えた。
「疑り深いね」
「貴族家の当主なんてものは、疑り深くなければやっていけん。自分の判断に、大勢の命や財産がかかっているのだからな」
アルフレードは、男の方に歩を進めた。
「そんなことも分からない者が当主の座なと乗っ取っても、領地と心中するだけだぞ」
カツ、カツ、と革靴の音が廊下に響く。
あと数歩で男に手が届く位置に来たとき、アルフレードは突き当たりの窓の外に、真っ黒い雲が掛かっていたことに気付いた。
今にも雷雨が来そうだった。
あまりの雲の色の黒さに、ついそちらに気を取られた。
男の方に視線を戻すと、男の身に付けた服が酷く汚れていることに気付いた。
労働者や貧しい者の泥や垢で汚れた服とは違う。
服の中で何かが腐り、更に放置された汚れ方に似ている気がした。
滲み出た水分に浸され、乾くことなく痛んでボロボロになってしまった生地。
アルフレードは眉を寄せた。男の身に付けた服が、放置された死体にものに近い気がした。
ラファエレの遺体から剥ぎ取ったのか。
まさかと思った。
そんなことをして何になるのか。
成りすますのなら、それこそ貴族然とした清潔な服を着るものではないのか。
男はアルフレードが近づくと、おもむろに上半身をよじらせ、背後の窓を見た。
「あのときも、こんな曇天だったね……」
アルフレードからは、顔を思い切り逸らしたような格好だ。
「そうだったかな。もう少し雲の色が明るかった気がするが」
アルフレードは言った。
「お前たちが帰ったあと、こんな空になったよ」
アルフレードは、もう一度窓の外に視線を移動させた。
もはや、こちらですら記憶が曖昧なことを言われても仕方がない。
あるいは、そういう手だろうかと思った。
あえて相手の記憶が曖昧そうな部分を饒舌に話し、自分の方がよく覚えていると見せかける。
「雨が降り出すのが、埋葬の後で良かったよ。埋葬中に降りだしたら、正確な場所が分からなくなったなんて話もあるからね」
男は含み笑いをしたようだった。
意を決し、アルフレードは男の方に走り寄った。
男の髪の毛のあたりに手を伸ばし、強引に振り向かせようとする。
だが手が触れるより先に男がこちらを向いた。
前のめりになって手を伸ばしたアルフレードの顔を、眼球の無い顔が真っ直ぐに見る。
眼球のあるはずの位置に空いた大きな空洞、頬の肉が綺麗に削げ落ち、シンプルなラインで直接繋がれた頬骨と顎。
綺麗な並びをした歯は、剥き出しで奥歯まで全て晒され、にやけたように、緩やかに上向きにカーブして耳の近くまで届いていた。
アルフレードは思わず絶叫した。
脚をもつれさせるようにして、反射的に後退る。
そこにいたのは、生前のラファエレでも、成り済ました人間でもなかった。
ラファエレの埋葬時の服を着た骸骨。
「アルフレード」
骸骨はそう言い、ぎこちなく肩をすくめた。
「だから、ちゃんと私だと言ったではないか」
「お前たち! 何に仕えていた!」
相変わらずペタリと座り込む使用人二人に向け、アルフレードは大声で問うた。
「なに? なんですか坊っちゃま」
女中がおろおろと言った。
「お前たち、骸骨に仕えていたのか!」
「骸骨?」
女中と馬丁は、首を伸ばしこちらに目を凝らすようにした。
「彼らは、ちゃんと生前の私が見えてるみたいだよ」
ラファエレに成り済ました骸骨はそう言った。
「……幻覚剤でも飲ませているのか」
「それじゃあ、家の中の仕事が出来ないではないか」
骸骨は、くすくすと笑ったような息遣いをした。
「いずれにしろ、もう死んで埋葬されたお前の話など誰も信じないよ、アルフレード」
骸骨は、アルフレードの両肩にそっと手をかけた。
軽く、ゴツゴツした指先。
奇妙な感触だった。
本来動くはずのないものが、思い切り力を込めているのだ。
「教会の地下墓地で、静かに眠っておれば良かったのに」
静かに手の位置を移し、骨の手はアルフレードの首筋に触れた。
親指で喉仏をグッと押される。
「大丈夫。この家は、私がちゃんと盛り立ててあげる。お前は安心してここで身元不明の死体におなり」
首を絞めようとしていると気付くのに暫くかかった。
食道が圧迫され、息が詰まる。
切れ切れの息を吐きつつアルフレードは踠いた。
不意に。
アルフレードの喉仏の辺りを覗き込み、骸骨は絞め続ける手を止めた。
「……首輪が邪魔だな」
「あ?」
隙を見てアルフレードは骨の手を振り払った。
自身の首を押さえ、屈んで咳込む。
「お前、つまらない女に引っかかったね」
「……女」
アルフレードは目を眇めた。
「クリスティーナのことか?」
「あれは本当の意味でのつまらない女だ」
骸骨はギシギシと首を傾けた。笑ったとみえた。
「この場合は、忌々しい女という意味だ」
次にまばたきした瞬間。
アルフレードと骸骨との間に、黒いドレスの女がいた。