Mondo dei sogni. 夢の世界 I
グエリ家の馬丁に馬を預けると、しばらくして濃紺のドレスの女性が駆けて来た。
やはりサン・ジミニャーノで会った、クリスティーナの侍女だ。
ドレスの両端をからげ、カーテシーの挨拶をする。
綺麗にまとめた淡い栗色の髪が、わずかに解れかかっていた。
「こちらから伺いましたのに」
そう言って息を切らせる。
「なに、こちらもクリスティーナのその後の様子が知りたいと思っていたところだ」
そう言い、アルフレードは馬屋の方に引かれて行く馬を見送った。
「クリスティーナ様……」
言いかけて侍女はまた息を切らせる。
「息を整えてからでいい」
「申し訳ありません」
侍女は、はあ、と大きく息を吐いた。
「そんなに急いで来るような用件だったのか?」
「お待たせしては申し訳ありませんし」
侍女は何とか息を整えたようだった。
「クリスティーナ様のご様子が……何と言うか」
「おかしな感じだと聞いたが」
「どなたから?」
侍女はやや怪訝そうな表情で顔を上げた。
いや……と答えてアルフレードは宙を眺めた。
御者からだと言えば、家の事情をあちらこちらで話すなと彼が責められるかもしれない。
「別の話と混同したのかもしれん」
アルフレードは苦笑してみせた。
「ともかく、会って差し上げてはいただけませんか」
アルフレードは屋敷の上階を眺めた。
「当主殿は」
「外国に遊興に出掛けられております。戻るのは一週間ほど先の予定で」
「クリスティーナに問題が起こってからか」
「ええ。ただのマリッジブルーだろうと笑って一蹴なされて」
「仕方のないお人だな」
アルフレードは軽く眉を寄せた。
グエリ家の当主は子供の頃から知っているが、大雑把で細かいことは気にしない性分だ。娘の少々の不調など、深く追及するのも面倒という感じなのだろう。
とはいえ、アルフレードも大した問題だとは思っていなかった。
女性など過剰に怖がりなものだ。男性である自分が「大丈夫」となだめてやれば落ち着くだろう。そう思っていた。
侍女に促されクリスティーナの私室の前まで来ると、中から話し声が聞こえていた。
静かな調子だが、途切れることなく話しているようだ。
たびたび挟まれる控えめな笑い声は、クリスティーナのものだろう。
扉越しだが、次々と話題が出て楽しく話しているように感じた。
「客が来ているのか?」
アイボリーに金のレリーフの入った扉を眺め、アルフレードは微笑した。
私室にまで入れるとしたら、かなり親しい友人か。調子が悪いという感じではないと思うが。
侍女はドレスの胸元を掴み、複雑な表情をした。
「どなたもいらっしゃっておりません」
アルフレードは、無言で眉を寄せた。
「ここ数日、お部屋に籠りきりですので」
御者が同じ話をしていたとアルフレードは思い出した。
「食事は」
「召し上がっておりません」
「全くか?」
アルフレードは言った。
「何度お呼びしても、ああやって話し声がするだけで、お返事すらしてくださらないんです」
「馬鹿な。なぜ開けない」
アルフレードは慌ててドアノブを回した。ガチッと金属の音がする。
「鍵がかけられております」
「強引にでも開けないか!」
「その……無理にでも開けた方がとお話したのですが、旦那様が、ひとりになりたいだけだろうと」
泣きそうにも見える顔で侍女は言った。
「腹が減ったら出て来るだろうとでも言われて出掛けられたか」
「はい」
「ここのご当主が言いそうなことだ」
アルフレードは、扉の上部を眺め眉を寄せた。
扉を強めにノックする。
「クリスティーナ、私だ」
ぼそぼそと一定間隔で話し声は続いていた。
「クリスティーナ、開けてくれ」
返事はない。
アルフレードは小さく息を吐いた。
「すまんが、開けるぞ」
「あのでも旦那様が」
「ご当主が何か言われたら、私が勝手にやったと言え。しつこく文句を言われるようなら、屋敷まで私を呼びに来て構わん」
アルフレードは侍女の方を振り向いた。
「鍵は」
「は、はい」
侍女は弾かれたように周囲を見回すと、近くを通りかかった女中に「ここの鍵を」と声をかけた。
ややして持って来られた鍵を、アルフレードは雑に鍵穴に差した。
扉を少し開けてから、気を取り直して一度閉める。
許嫁とはいえ、未婚の女性の私室だ。
万が一何もなければ、乱暴に開けるのはかなり非常識だと思った。
「クリスティーナ」
改めてノックをする。
返事はなかった。
「クリスティーナ……侍女殿が入っても大丈夫か」
返事はない。
アルフレードは、背後にいる侍女をもう一度振り返り、目を合わせて頷いた。
「お嬢様」
そう言い、侍女が扉を開け中に入る。
開いた扉の隙間から、ふんわりと香水と化粧品の香りがした。
侍女に目で促され、アルフレードも一、二歩ほど中に入る。
柔らかな薄桃色で統一され、可憐なデザインの家財道具が並んだ、良家の若い女性らしい部屋だ。
クリスティーナは行儀よく寝台に座り、真っ直ぐ前方を向いていた。
ドレスを乱すことなく身に付け、飴色の髪も綺麗に整えている。
「お嬢様、アルフレード様がいらしております」
クリスティーナの目の前で屈み、侍女はそう言った。
侍女の声に反応もせず、クリスティーナは瞳すら動かさずに座っていた。
「クリスティーナ」
アルフレードは近付いて声をかけた。確かに、異常なほどの表情の乏しさが気になった。
「クリスティーナ、侍女殿が心配されているのだが」
「ええ。よその城の方へ」
クリスティーナはそう言った。
怪訝に思いながらアルフレードは許嫁の顔を見詰めた。意味が分からず、侍女の方を見る。
侍女は眉をきつく寄せ、無言でこちらを見ていた。どうして良いのか分からず、困惑しきっている様子だった。
「クリスティーナ、余所の城とは」
「それが、美しい御髪でいらっしゃるんです」
クリスティーナは何もない空間にそう語った。
しばらくしてから一瞬だけ微笑むと、「ええ」と空間に向かって相槌を打った。




