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死の世界へようこそ  作者: 路明(ロア)
Episodio nove 異端審問の女
38/74

Donna dell'inquisizione. 異端審問の女 III

「お前はナザリオと関係しているのか」

「ナザリオはわたくしの甥でございます」

 抑揚のない声に、やや感情が混じった気がした。生前は、ナザリオとある程度の交流はあったのか。

「ご迷惑をおかけしたチェーヴァの方々に、お詫びをしたいと申しておりました」

「ナザリオとは二度ほど会話したが、そういう態度には見えなかったが?」

 アルフレードは言った。

「いいえ。せめてものお詫びに、チェーヴァの方々を幸せな夢の世界へお連れしたいのだと言っておりました」

 モルガーナは、赤い唇を笑むように上げた。何か含羞(はにか)むように、やや下を向く。

「わたくしは、ご親戚の方々を幸せにして差し上げたのでございます」

「なに……」

「あの屋敷の方々は、幸せそうでございました」

 モルガーナの声が少し上擦った。

「餓えていることも忘れ、広間で楽しくダンスを続けておりました」

 ヴェールが微かに揺れる。

「昼も夜もなく音楽を奏で、使用人とまで手を取り合い、歌を歌い、休むこともなくステップを踏み、眠ることすら忘れて笑い続け、倒れた者の手を取り引きずって踊り、先に死んだ者を踏みつけて踊り、それはもう楽しそうに」

 話しているうちに気持ちが高ぶってきたのか、モルガーナは白い優美な両手を芝居ががったように天井の方に掲げた。

「……お前はそれをどんな顔で見ていた」

「ご一緒に微笑みたかったのですが、わたくしは微笑むための頬はもう腐っております」

 モルガーナは言った。

「幸い、毒のお陰で声帯は腐り落ちず残ったので、笑い声を上げることは出来ますが」

 先程のように、とモルガーナは続けた。

 自害の際に(あお)った毒とは、砒素か何かかとアルフレードは思った。

「ご一緒に踊りたくても、足の筋肉は腐っております。ですが(けん)は腐らず残ったので、立つことは出来ます」

 モルガーナの声が徐々に大きくなった。

 正気を失った者を間近で見たことはないが、おそらくこんな声ではと思うような、高低のアンバランスな発声だった。

「ご一緒に歌を歌って差し上げたかったのですが、わたくしはこの時代の歌はよく知らず」

 モルガーナは歌うように言った。 

「……あの屋敷には、幼い子供や赤ん坊もいたはずだが」

 アルフレードは言った。

「ええ。とても可愛いらしかった……」

 モルガーナは手を胸の前で組みうっとりと言った。

「小さい身体で止まることなくステップを踏み、ミルクを嘔吐しながら磨かれた床に倒れ、それでも明るく笑っていらっしゃるのが、この上なく可愛いらしく」

 モルガーナは、神に懇願するかのように両手を掲げ天井を仰いだ。

「ただ微笑ましく見つめることしか出来ない自分が不甲斐なく」

 アルフレードは手を握り締めた。

「貴様……」

 感情をギリギリまで抑えた。

 激高するのは簡単だ。だがこれは亡霊だ。

 感情のまま攻撃など加えても、姿を消し逃げてしまうだけだ。

 自分に対処できる存在ではない。

 それがこの上なく牴牾(もどか)しかった。

 相手への怒りをぶつけようもなく、手応えの無さにすら怒りを感じる。

 自分に出来るのは、ここで冷静さを保ち、せめてこの女を逃がさずにいることだ。

 アルフレードは、声音を抑えた。

 静かに、口元を動かす。


「“ベルガモット”」


 かたわらで衣擦れの音がした。

 頬に触れるくらいすぐそばに、黒いドレスが現れる。

 ベルガモットは腕を組み、見下すような目つきでモルガーナを見た。

「サン・ジミニャーノの幻覚剤は、この女の仕業だ」

「聞いておった」

「本来なら私が自分で仇を取りたいところだが」

 モルガーナを真っ直ぐに見据え、アルフレードはそう告げる。

「仇を取りたいのだな」

 ベルガモットが大きく右腕を振った。

 巨大な鎌の刃が現れる。手には古木のようなごつい柄が握られていた。

 綺麗な長い黒髪が、ばさりと広がる。

「可愛い下僕の願いだ。聞いてあげよう」

 無数の鈴のような音があたりに響いた。

 モルガーナは、椅子から立っていた。

 椅子を引くという動作はなく、いつの間にか座っていた椅子の背もたれのそばにいた。

「あなたが “死の精霊” 」

 モルガーナは両手を広げ上擦った声を上げた。

「まあ、何とお美しい」

「黙らんか、(ごみ)が」

 ベルガモットは鎖鎌を構えた。

 アルフレードの首のあたりで、何かがこすれて外れた感覚があった。

 首輪(コラレ)か、と察する。

「離れておれ」

 ベルガモットは言った。

「すまないな」

 アルフレードはそう言い静かに席を立った。

 最寄りの壁に背中をあずけ、腕を組む。

 ベルガモットは上体を大きくひねると、鎌を斜めに振り下ろした。

 強い風を受けたときのようなゴワゴワとした音を耳に感じ、アルフレードは目を眇めた。

 この世の物は何も動いてはいないが、霊的には凄まじい力で周囲のものを斬りつけている。

 モルガーナの姿が揺らいだように見えた。

 やったか、とアルフレードは思った。壁から身を乗り出す。

「まあ、お美しいのになんと怖いこと」

 アルフレードは驚いて振り返った。

 モルガーナが背後にいる。

 背中と壁の間のわずかな隙間にうつむいて立っていた。





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