Donna dell'inquisizione. 異端審問の女 II
執事は折り目正しく礼をすると、食堂広間を退室した。
広間の扉がパタンと微かな音を立てて閉まる。
アルフレードは無言でヴェールの女を見ていた。
相変わらず品の良い姿勢で前を向き座っている。
その様子を伺いながら、グラスに注がれた葡萄酒をゆっくりと口にした。
「わたくしは、赤が好き」
不意に抑揚のない声で女は言った。
「私は白しか飲まない」
コトンとグラスを置きアルフレードは言った。
「あなたの未来を見て差し上げましょう」
「結構だ」
「あなたに憑いた精霊はシヌ」
アルフレードは僅かに目を見開いた。
平静を装い抑えた声で言った。
「悪霊の間違いではないのか」
「悪霊……」
女は耳障りな高い声で笑った。
顔を少し上げた際に、蝋燭の灯りに透けて整った横顔のシルエットが見える。
「お前はナザリオか」
アルフレードは問うた。
女はテーブルの方を向いたままだ。
「ナザリオが憑いているのか」
いや、とアルフレードは続けた。
「先ほど一度姿を消していたのをみると、生者ではないのか」
「パゾリーニが滅んだ折に、毒で自害いたしました」
女は抑揚のない口調で言った。
「……モルガーナと執事が呼んでいたな」
女は微動だにしなかった。
「モルガーナ・パゾリーニか」
ゆらり、と蝋燭の灯りが揺れる。
「チェーヴァへの怨み言を言いに来たか」
女は相変わらずこちらに横顔を向けていた。灯りがゆらゆらと揺れ、テーブルの上の燭台の影が不安定に伸び縮みする。
「いいだろう。話なら聞こう」
アルフレードは言った。
「怨み言などありませぬ。すでに経済的にも傾き子を産める者も少なく、規律も失っていたパゾリーニは、いずれ滅んでいた家でした」
モルガーナは言った。
「では何しに来た」
「あなたの未来を見て差し上げましょう」
「だからそれは結構だ」
「あなたの許嫁はシヌ」
アルフレードは目元を強張らせた。
動揺はしたが、気を取り直してモルガーナを真っ直ぐに見た。
「そうやって勿体ぶって不安だけを煽る。三流の占い師によくあるやり方だ」
「では良い呪いをお教えしましょう」
モルガーナは言った。
両手を前に出し、壁に添えているような仕草をした。
その手が若い良家の女性の、白く優美な手であることをアルフレードは何気なく確認した。
「鏡に映った自身の顔を見ながら、“お前は誰だ” と」
クリスティーナが同じ呪いをしていたのを思い出した。
サン・ジミニャーノの屋敷の広間で、楽しそうに教えてくれたが。
「流行っているのか、その呪いは」
「貴方が流行らせてくださいませ。一族の方々に」
モルガーナは言った。
「そんな女子供のお遊びみたいなものを流行らせられるか」
「昼も夜もなく夢を見続けられる方法でございます」
アルフレードは眉を寄せた。
サン・ジミニャーノでの出来事を思い出した。
御者が、アラブの格好をした人物を見たと言っていなかったか。
一見そうと見える格好だ。
不意に心臓が早鐘を打ち始めた。
もしかすると、あの件に深く関わった者と相対しているのか。
一気に緊張した。
葡萄酒でゆっくりと口を潤しながらアルフレードは言った。
「……薬物の知識はお持ちか」
「古代の薬物の文献に嵌まったことがございます」
モルガーナは言った。
抑揚のない口調で更に続ける。
「夢中になるあまり、そのルーツを求めてアラブの方々と交流しておりました」
「成程」
アルフレードは静かな口調で続けた。
「亡くなった際にはアラブに?」
「女の身でそこまで行くのは難しゅうございました。この地方よりも、よりアラブの人の多かったヴェネツィアに。遠縁を頼って居候いたしました」
モルガーナはゆっくりとした口調で言った。
もしかすると、異端審問を受けた娘を、本家から遠ざける意味もあったのかもしれないと推測した。
「ヴェネツィアが貿易で栄えていた時代か」
蝋燭が、ジジ、と芯を焦がす音を立てた。
「幻覚剤の知識は?」
「とても惹きつけられるものでございました」
モルガーナは僅かに肩の辺りを揺らした。
笑ったのか、とアルフレードは思った。
「死ぬその寸前まで夢の世界で遊べるなんて」
「サン・ジミニャーノの件は、お前が噛んでいるのか」
冷静さは努めて崩さずアルフレードは尋ねた。
「生前に噛った、古代の薬物の知識が役に立ちました」
アルフレードは感情を抑え、静かにグラスを置いた。