Donna dell'inquisizione. 異端審問の女 I
屋敷に戻ったのは夕暮れ時だった。
陽は城壁の向こうに隠れ、最後に残った光が消えていくところだった。
玄関扉が閉められると、古い造りの玄関ホールはもうだいぶ暗い。
「何か変わったことはあったか」
アルフレードはホール内をつかつかと歩きながら手袋を外した。出迎えた従者に手渡す。
「グエリ家の、クリスティーナ様の侍女だという方が訪ねて来ておりましたが」
後ろを付いて歩きながら執事が言った。
「クリスティーナの」
「何かご相談があるとかで」
「サン・ジミニャーノで会った女性かな」
アルフレードは宙を眺めた。
そういえば、御者がクリスティーナの様子がおかしいようなことを言っていたが。
「相談の内容は?」
「特にはお聞きしませんでした。アルフレード様に直接お話ししたいとのことでしたので」
「明日訪ねてみるか」
アルフレードは廊下を歩きながら首元の留め具を外した。
「今日はもう遅いですからな。麦酒でも用意させましょう」
「……麦酒はいい」
低く声のトーンを落としアルフレードは言った。
「何か有りましたか」
「気にするな。だが当分麦酒は飲まん」
ナザリオに口移しで飲まされた麦酒の味が口中に甦った。
生暖かい舌触りと、きつい香水の香り。その後に言われた台詞まで考えたらトラウマものだ。
一生飲めんかもしれん。
「では何をお出ししましょうか」
付いて来ながら執事はそう言った。
「……葡萄酒でいい」
「葡萄酒は、ご夕食のときくらいしかお飲みにならなかったのでは」
「当分くつろぐときも葡萄酒でいい」
「赤と白どちらで」
「……白」
シュル、と首の襟締を解く。
「わたくしは、赤が好き」
「えっ……」
女性の掠れた声がした。
声の聞こえた方を振り向く。
たった今通って来たばかりの廊下の角。
薄紫色のヴェールを被った人物がいた。
一見アラブの民族衣装を纏っているように見えたが、よく見るとヴェールの下は前時代風の緩やかなドレスだ。
「あれは」
そうと口にする前に、その人物の姿は消えた。
「どうかしましたか」
執事が伏せかけていた顔を上げた。
「……女性が」
「女性?」
執事は辺りを見回した。
窓は突き当たりにしかない、ひんやりとした薄暗い廊下。
アルフレードと執事の他には誰もいない。
「いや……見間違いだ」
アルフレードは前を向き廊下を進んだ。そのまま食堂広間へと入る。
古い造りの空間に、内装を付け加えた形の広間だった。
時代を経た暖炉の上には大きな人物画が飾られ、暖炉の前からは長テーブルが伸びている。
テーブルの上には、古びてはいるが高価な燭台が数台置かれていた。
既に灯が灯され、広間内を橙色に照らしている。
アルフレードは上座に着いた。
母が奇妙な死に方をしていたというテーブルだった。
代々伝えられて来た古い屋敷の中には、あちらこちらに先祖が変死したり急死したりした場所がある。
蘇生した当初は、そのことを改めて考えたりもしたが。
「何か軽く召し上がりますか」
執事は言った。
「そうだな。軽くでいい」
「トスカーナの塩気のないパンと、燻製の肉を」
女の声がした。
アルフレードは、ゆっくりと下座の方を見やった。
薄紫色のヴェールを被った人物が座っていた。
こちらに横顔を向ける形で、品良く膝の上で両手を揃えている。
ヴェールから、赤く肉感的な唇と形の良い顎が透けて見えたが、顔全体を見ることは出来なかった。
アルフレードは、ちらりと執事を見た。
何らおかしな表情はしていなかった。
自分にだけ見えているのか。そうと考え、見えないふりをした。
そのときだった。
「モルガーナ様」
執事が口を開いた。
アルフレードは目を見開いた。執事を振り向く。
「アルフレード様、どう致しました。姉君のモルガーナ様ではありませんか」
執事が言う。
「何を言っている。そんな名前の姉は……」
「お久しゅうございます」
執事は、ヴェールの人物に一礼をした。
「何年ぶりでしたかな」
執事は感じの良い笑みを浮かべたが、目の焦点が合っていないことにアルフレードは気づいた。
「いつからお会いしていないのでしたか……」
執事は顎に手を当てた。
「はて。いつから」
「……下がっていい。“姉上” とふたりきりで話をさせてくれないか」
アルフレードは執事にそう命じた。




