La mummia seduce. ミイラが誘惑する
もう一度玄関ホールに出る。
拳銃は構えたままだった。あちらこちらを見回し、装飾品の数を数える。
絵画の枚数、壁に取りつけられた燭台の数、ギリシャ神殿風の太い柱の本数。
数えながらアルフレードは階段に踏み出した。
玄関ホールには特に数のおかしなものはないようだ。
それ以前に、無人の屋敷でこれらの調度品が無事なのは、確かに馬丁の言う通り奇妙な気がする。
何日間この状態なのか定かではないが、盗みを働こうとする者が一人や二人忍び込んでもおかしくはないはず。
先ほど庭で感じたラベンダーの香りが、屋敷内にも漂っていることにふと気づいた。
香りの元はやはり屋敷内にあるのか。
どこから漂っているのかと通路や天井の吹き抜けを見渡した。
こういった香りは、何日も残るものなのか。
残り香という感じではない。今現在どこかから漂わせているはっきりとした香りだ。
アルフレードはあたりを見渡しながら、階段を登り二階の階段ホールに来た。
窓際に置かれた猫足の小さなテーブルの上に、紅茶の入ったカップと、噛りかけの焼き菓子が置かれている。
焼き菓子の欠片が行儀悪くあちらこちらに散らばっている。この家の年少の従兄弟たちが食べていたのだろうか。
つい先刻まで誰かがそこにいたかのような様子だった。
辺りを見回すと、少し離れた窓のそばに菫色のショールが置きっ放しになっている。
若く華やかな性格の女性が使いそうな色だとアルフレードはイメージした。
ここの当主は、数年前にアルフレードと大して歳の変わらない後妻を娶っている。
その後妻のものだろうか。
不意に。
何の前触れもなく、紅茶の入ったカップがカタンと倒れた。
テーブルの上を、飴色の紅茶がゆっくりと流れる。
端まで流れ、床に滴った。
始めはだらだらと音を立て零れ、やがて一滴一滴、ぽたん、ぽたんと垂れる。
アルフレードは、三階へと続く階段を昇りかけたあたりで、その様子をじっと見た。
おかしな現象だとは思わなかった。
たまたまバランスの悪い置かれ方をしていたのだろうと考える。
だがなぜか憑かれたようにじっと眺めてしまった。
ややしてから目を逸らし再び階段を昇り始める。
紅茶が、薄く湯気を立てていたことに気づいた。
「えっ……」
思わず声を上げて、もう一度零れた紅茶を見る。
紅茶の香りがあたりに広がった。蘭の花ような甘い香りが混じる葉のようだ。
つい今しがた誰かが飲んでいたかのように、淹れたての強い香気が漂う。
やはり誰かが屋敷内にいるのか。
アルフレードは身構えつつホール内を見回した。
ホール最奥の乳白色の扉に目を止める。人が隠れられるとしたらそこくらいだろうか。
「誰かいるのか!」
階段の手摺から身を乗り出すようにして、アルフレードは呼びかけた。
「アルフレード・チェーヴァだ。先日こちらを訪ねた馬丁から、屋敷の様子がおかしいと聞いて様子を見に参った」
拳銃を持つ手にじわりと汗が滲んだ。
いるとしたら侵入した盗賊か、それとも盗賊の危害を免れた親類の誰かか。
「誰かいるか!」
返事はない。
明るい色調のホール内にアルフレードの声だけが反響した。
ショールのある窓から見える外の景色に目線を移す。
なるべくなら陽があるうちに戻りたかったのだが。
三階へと昇りかけていたところを引き返し、アルフレードは二階の階段ホールに戻った。
猫足のテーブルの横を通り、ホール奥にある扉に向かう。
拳銃を構え、扉を一気に開ける。
「なん……」
思わず言葉に詰まった。
扉の外は、ちょうど二階ほどの高さの屋外だった。
足元にはベランダすらなく、下枠からぷっつりと床が途切れている。
アルフレードはとっさにノブを握り直し、真下に踏み出しそうになった身体を支えた。
「……何だこれは」
吹き上げるような屋外の風を感じながら、眼下の地面を見下ろした。綺麗に芝生の敷かれたこの屋敷の庭の一角だ。
背後から、コツリと靴音がした。
突き落とされるのを警戒して急いで扉を閉め、アルフレードは振り向いた。
紅茶の零れた猫足テーブルの横に、菫色のドレスを着た婦人がいる。
窓に置かれていたショールを両腕にかけ、手元を隠すようにしていた。
ここの当主の後妻だ。
目尻のきつい気の強そうな目、人目を引く顔立ちをしているが、どこか品のなさを感じる表情。
叔母に当たるが、さして年齢は変わらなかった。
カタルーニャの下級貴族の出ということになっていたが、一族内では格の低い娼婦ではと噂されていた。
ここの当主が親戚へのしらせもなく勝手に後妻に娶ったところから上がった噂だが、否定できない部分はあった。
良家の子女とは思い難い、教養のないところ。マナーもぎこちない。
接する機会も少なかったので、この状況では話の取っかかりに困る相手ではある。
「叔母上」
アルフレードは口を開いた。
「ご無沙汰しております。機嫌伺いに参ったのですが」
後妻は無言だった。表情もなく、アルフレードをじっと見ていた。
「他の者はどうしました? 門番すらもいなかったようですが」
後妻は何も言わず、きつい大きな目でアルフレードを見ていた。
ふと、その目の違和感にアルフレードは気付いた。
こんな目を、前にどこかで見た。
後妻は、コツリと音を立て足を踏み出すと、すっと滑るような動きでアルフレードの胸に両手を当てた。
息が触れるほど顔を近付けアルフレードを見上げる。
「叔母上?」
アルフレードは、困惑して後退った。
叔母と甥の距離ではないだろう。近すぎる。
困惑してあちらこちらに視線を這わせると、後妻の手元が不自然に動いたことに気付いた。
アルフレードは息を呑み、咄嗟に飛び退いた。
菫色のショールがふわりと床に落ちる。
露になった後妻の手には、大振りの刃物が握られていた。
「叔母上?」
後妻は表情もなく、再びアルフレードに近付いた。
まるで当然のことのように、アルフレードを狙い刃物を振り下ろす。
「叔母上!」
アルフレードは後妻の腕を掴んだ。
細く筋肉のない腕は簡単に動きを阻まれた。だが刃物を離そうとはしない。
「刃物を置いてください」
アルフレードは努めて穏やかな口調で言ったが、後妻は無表情のまま弱々しく身体を捻った。
「御免」
アルフレードは、刃物を持った手を捻り上げた。
後妻は顔色ひとつ変えなかった。腕を捻られたまま、不自然な態勢で、ぐいっとアルフレードに顔を近付けた。
唇が触れるかと思うほどの距離で目を合わせて来る。
違和感の正体にアルフレードは気付いた。
瞳孔が開いているのだ。
これは、絶命した者の目では。
「叔母上……?」
何だこれは。
アルフレードは動揺し、腕を掴む手をつい弛める。
後妻はアルフレードの手を振り払うと、刃物を両手で持ちかえアルフレードの胸元に突進した。




