愚かな人の行く先は
アンリ・ワイルズは馬鹿な男であった。
「アンリ、また金を盗まれたんだって?」
ソフィア・フェルマーは、ワイルズ邸の執務室の扉をノックもせずに開け放った。
幼馴染特有の明け透けな質問をアンリに放ったのだ。
アンリは、書類から視線を上げてニコリと笑顔を浮かべた。
「やあ、ソフィア。それは違うよ!アニサはお金は盗んでいないよ」
アニサとは、つい数日前までアンリの恋人だった女性だ。
「お金はって何よ?」
ソフィアが間髪入れずにアンリを問い詰める。
アンリは困ったように目を泳がせてから、観念したように目を伏せて答える。
「審判の杖だよ」
「しっ……!」
ソフィアは絶句して言葉を無くす。
それもその筈だ。
審判の杖とは、侯爵であるワイルズ家が建国の始祖である初代国王陛下より賜った超がつく国宝級の宝である。
「追ってはかけたの?!ああ、家門の恥になるから大っぴらに私兵を動かせなかったのね?それならどうしてすぐに私に相談しなかったのよ!うちの密偵の実力は知っているでしょう?!いくらでも力になるわよ!」
ソフィアが捲し立てて言うと、アンリは首を振って恐縮した。
「ソフィア、良いんだよ!形ある物はいずれ無くなる定めだから。アニサにもきっと事情があったんだよ」
「いい訳無いでしょう!だから言ったでしょう!あんな身元の怪しい踊り子に入れ上げるなんて!どうかしてるわよっ」
「ソフィア!!」
アンリが咎めるように口調をきつくした。
ソフィアは何か言いたげにアンリを見つめて溜め息を溢した。
アンリはいつもこうだ。
同情心か、はたまた本当に愛があったのか。
いくら幼馴染とはいえ、アンリの機微はソフィアには計りかねる所ではある。
が、これではあんまりではないかとソフィアは思うのだ。
アンリは今年二十五歳で侯爵家の主人であるが、ソフィアから見ると純真無垢な弟のような存在だ。
アンリにかかると総ての人は善人になってしまう。
だから昔から良く人に利用されたり騙されたりする。
そんなアンリを傍らで見てきたソフィアは反対に総ての人を疑ってしまう癖がついた。
お陰でソフィアは侯爵家の娘でありながらも、既に生涯独身宣言をしている。
ソフィアはフェルマー一族の結晶であるかのような美貌と知性を兼ね備えており、フェルマー家に女しか生まれなかった事もあって今年正式に爵位を継いだ。
実に珍しい事ではあるが、既に幾例かの前例もある。
いずれは妹達に生まれた子を養子に取る算段がついた段階で爵位を継いだのだ。
そんな幼馴染として、同じく爵位を継いだ同志として、そして手のかかる弟のような存在として、ソフィアはアンリを心配しているのだ。
「アンリ……。口煩く言って悪かったわ。でも貴方、このままじゃ駄目よ。今のままじゃ貴方の悪い結末しか浮かばないわ。本当に心配しているのよ、分かって頂戴」
ソフィアがアンリの座る執務机の下まで歩み寄り、アンリの肩に手を添えて言った。
その添えられた手にアンリは手を置いた。
「ソフィア、分かっているよ。ありがとう」
ソフィアは思うのだ。
アンリは何も分かっていないと。
♢
「ねえ、アンリ。考え直して頂戴」
ソフィアはいつかの執務室と同じようにアンリへ詰め寄った。
「ソフィア、祝福してくれないか。幼馴染が結婚するんだよ」
「あの男爵家の娘は前の婚約者との間でも良い噂を聞かなかったわ」
「彼女を悪く言わないでくれないか。ソフィアは彼女の事を噂でしか知らないからだよ」
アンリは視線を上げずに何かの書類にサインを書き殴った。
「いいえ、アンリ。彼女か何と言って貴方を誑かしたかくらいは分かるわ!社交界じゃ有名ですもの。貴方が憐れな女に弱いという事くらいね。きっとその女も憐れぶって貴方に近付いて涙を拭う振りしてハンカチの下で笑っているのよ。貴方は何も分かっていないのよ!」
「分かっていないのは!」
アンリは視線を上げてきつくソフィアを睨んでから、視線を逸らした。
「君の方だよ、ソフィア。君は何でも持っている。美しさも、知性すらも。だから持たざる者の気持ちが分からないんだ。僕の気持ちですら、君は分からなかったじゃないか」
「アンリ……、貴方の気持ちってどういう事?」
ソフィアが困惑の表情を浮かべて問い掛けた。
アンリは立ち上がり、ソフィアに背を向けて窓際に立った。
「帰ってくれ」
「アンリ!お願い、考え直して」
ソフィアは最後の懇願をした。
「帰ってくれ!そしてもう二度とここには来ないでくれ」
完全な拒絶であった。
ソフィアは言葉を繋げずに、唇を噛み締めてワイルズ邸を後にした。
帰途に着く馬車の中、ソフィアはアンリの言葉を反芻していた。
アンリは完全な拒絶を示していた。
アンリが言っていた言葉の意味がソフィアにはさっぱり分からなかったのだ。
まさか、これが最後にはなるまい。
そう思っていた。
だが、ソフィアのその願いは叶わずに終わった。
♢
あれから二十年の時が経った———。
当時あれだけ親交の深かった両家にも関わらず、アンリはソフィアを結婚式に呼ばなかった。
ソフィアは幾度かの謝罪の手紙を送ったが、アンリは返答を寄越さなかった。
ソフィアとアンリは四十五歳になった年、アンリは着の身着のまま、馬車も連れも無く、ソフィアのフェルマー邸に現れた。
だが、ソフィアがその事を知る事になったのは、アンリが既に冷たい棺に横たわった後だった。
余りにも見窄らしいアンリの姿に、門兵がアンリを通さなかったのだ。
ワイルズ家の惨状はアンリも知っていた。
矢張りソフィアの懸念していた通り、アンリの妻となった夫人とその子らの散財や他家の家門に働いた数々の仕打ちに対する補填などで、王国に五つしか無いワイルズ家の莫大な資産は失われた。
ソフィアはワイルズ家の惨状を耳にする度、胸を痛めた。
だから幾度かの手紙の中には率直な気持ちと支援の申し出も添えて出しもしたのだ。
アンリは、供も馬車も連れられない程困窮してしまうまでソフィアの元には来られなかったのだろう。
ソフィアは悲しみの底へ沈み切った中、アンリの葬儀に参列した。
そこに居た夫人やアンリの子だという息子達を見て違和感を感じた。
ソフィアが調べた結果だが、アンリの血を引く子は一人も居なかった。
正式な裁判を起こし、ワイルズ家から夫人らを追い出した頃、一人の老女がソフィアの元へ現れた。
矢張り門兵に追い払われたらしく、七日間門前に 近くに張り込み、出掛ける所だったソフィアにやっと声を掛けたのだと言う。
彼女は、ソフィアも良く知る人物であった。
アンリの乳母に当たる人物で、ナディアといった。
ソフィアも世話になっていた人物だからだ。
ソフィアは出掛ける用事を取りやめ、屋敷へと招き入れた。
彼女の身形を見れば、ワイルズ家の困窮具合が良く窺い知れた。
きっと最後まで資材を投じてアンリに付き従っていたのだろう。
暖かい茶を出すと、彼女は両掌で大事そうにカップを包み込み、しゃくり上げる様な仕草をした。
まるで枯れ尽くした涙を零すような仕草だった。
「ソフィア様、お久しぶりでございます」
「ナディア、良く来てくれました」
ソフィアは殊更声音を和らげて目尻を細めた。
ナディアはシワだらけの指先が曲がっている。
歳を取ったのだ。
それはソフィアも同様だった。
「ソフィア様、こちらをお渡し致します。旦那様の書斎にあった本を整理していた時に見つけたのです」
ナディアは懐に仕舞っていた手紙を取り出した。
ソフィアは封筒に押された封蝋のワイルズ家の家紋を見てからペーパーナイフを持ってこさせて封を切った。
手紙の書き出し、癖のあるアンリの文字に、懐かしさが込み上げた。
『ソフィア、まずは謝罪をしなければいけない。
度重なる君の忠告を愚かな私は聞き入れる事が出来なかった。
私は、君の望むような善人では到底無かった事を今更ながらに白状しようと思う。
私は、詰まらない意地からこのような結末を招いてしまったのだ。
最初に私が善人の振りをした時を憶えているかい?
遠い昔の記憶になってしまった。
君が憶えていなくても無理は無い事だ。
あの日、君と二人でワイルズ領の市場へ行った帰り。
路地裏に佇む少年が居たね。
彼は酷く痩せ細っており、君が彼を見る哀れみの目に僕は珍しく大胆な行動をした。
彼を屋敷に連れ帰って使用人として迎え入れた。
少年は最初こそ感謝し、懸命に働いているようだったが、一年もしない内に屋敷のそれ程高価でも無い装飾品を市場に売り払った罪で結局鞭打ちの末に亡くなった。
君はその時再三忠言をくれ、私を心配してくれたね。
身元の不確かな者を屋敷へ連れ帰るリスクを諭してくれた事を良く憶えているよ。
その時の君を見て、私を心の底から心配してくれている姿を見て、私は益々君の気を引く方法ばかり考えた。
だって君はいつまで経っても僕を家族以上には見てはくれなかったからね。
それでも良かったんだ。
例え君が手に入らないとしても。
君が誰の物にもならないと分かっていたからね。
だから、これは当然の結末なんだと思う。
私が連絡を絶ってからも君から時折送られてくる手紙が更に私を破滅へと導いたのだ。
皮肉な事に。
心から愛するソフィアへ。
アンリ・ワイルズ』
ソフィアは、この上無い呪詛が籠った手紙に、止め処なく涙が流れた。
ただ、一言アンリが生前にこの言葉を告げていてくれたら。
否、告げていてくれたとしても今程切実に解りはしなかっただろう。
だからアンリも自身の破滅を以て証明したのだろう。
ソフィアへの抱え切れない想いを。
ナディアは手紙を抱きしめて項垂れるソフィアの肩にそっと手を添えた。
いつかのソフィアとアンリのように———。
♢
以後、ソフィアは己の信念通りに生涯独身を貫いて、その命を全うした。
フェルマー家は、ソフィアの宣言通りに、二番目の妹から長男を迎えて存続した。
ソフィアは己の命が尽きる間際に、病床に伏した床の中で養子に迎えた妹の息子の前でぽつりと呟いたのだ。
———やっと長い懺悔を終えられる。
一体誰が愚かだったのだろう。
了