第四話『臆病娘とドラゴンバディ』
前略。部屋に小さい龍がいる。
「え、あ、なんで……?」
白龍と鞄を交互に指差しながら、気を抜くと泣きそうになりながら言葉を発する。
『む? 尋ねたいのは理由か? それとも経緯か? 貴様の問いは判然としない。明朗に述べるがよい』
小首を傾げ、相手は言葉を返す。ミニサイズだけど、尻尾と髭、たてがみがゆらゆらと揺れる姿はまさしく龍だ。鹿に似た角もあるけど、大きさも相まって飴細工のようにも思える。
そのすべてが真っ白で、動かなければ精巧な彫刻だけど、現にこうして動いている。
「りょ、両方」
『そうか。いいだろう』
震える声で答えれば、龍はあっさり了承した。
『理由はそうだな……見定めるため、と言っておこう』
「見定める?」
勉強机のイスを引っ張り出し、障壁のようにして私と龍を隔てる。
龍の赤い瞳が細められた。
『…………ときにユエよ。貴様のその小心ぶりは目に余るぞ。先ほど我に啖呵を切ってみせたのはなんだったのだ?』
「あれはその、なんか必死で、自分でもよくわかってなかったから……」
しどろもどろに答えると、白龍は小さく溜息をついた。妙に人間っぽい仕草。
『まあいい。見定める……いや、言い換えるならば――見届けるためだ』
「見届ける……?」
彼? 彼女? は一つ頷いた。
『これは先も言ったことだが、我は悪竜の魂がこの世に存在することも、それが人の手にあることも看過できぬ。なんの因果か知らぬが、貴様もつくづく――』
「不運?」
『む』
緋色の瞳がじっとこちらを見て、無言で尻尾を横に振る。なんとなく不服な気持ちを感じる。
『……そうだな、どこから話せばよいものか』
そう前置きすると、白龍は静かに語り出した。
龍、竜、あるいはドラゴン。
物語やファンタジー映画でしか見たことのない存在のこと。
彼らは人間の文明からは消えたけれど、こうして確かに実在しているらしい。今となっては目の前に代表例がいるからわかるけれど、なにもないときに聞かされても信じられなかったと思う。
白龍が言うには、昔はもっといたらしい。けれど時代の流れと文明の発達に伴って、徐々に姿を消した。滅びたのか、あるいは身を隠したのかはわからない。
そして――私が夢の中で見た黒い竜。
「あの真っ黒い竜はなんなの?」
『悪竜だ。遙か昔に討たれたはずの、西にいた竜だ』
ずっと気になっていたことを尋ねると、吐き捨てるように白龍は言った。
『一口に竜と言っても、その認識は東西で大きく異なる。知っているな?』
「いや、そんなに……」
『ええい、浅学な人間め。簡易に述べるなら、西の竜は悪。東の龍は神やそれに類するものと認識されるということだ』
「じゃあ、あの黒い竜は西の竜なの?」
『そういうことだ。貴様も夢で見たのなら、その背に翼が見て取れたのではないか?』
おぼろげな記憶をたどると、確かに夢にいた竜はコウモリに似た翼を背に畳んでいた。
『人間には理解し得ぬと思うが、我にはわかる。貴様の内に在る竜は、数多の西の竜の中でも最たる恐ろしさを持つ存在だ』
赤い視線に鋭さが増し、こちらを突き刺してくる。
「ひっ」
『怖がるな。腰かけを盾にするな。えぇい、大人しくそこに座れ』
イスの軸を回転させ、ベッド側に向かい合うようにそろりと座る。白龍は布団を何度か踏みしめ、ネコのように身を伏せた。
『目下の問題が一つある』
「問題……?」
相手が小さく頷く。
『貴様が悪竜の魂を、形式上とはいえ保持していることは変わりなく、すべての龍が我のように寛容であるとは言えぬ。我以外の近隣の龍も、悪竜の存在に気付いただろう』
「え、でもなんで急に……?」
――今までだって身体は丈夫だったのに。
『貴様、強い衝撃を受けて竜の存在を知覚しただろう? 認識された概念はすでにそこに在るのだ』
「それって……」
背筋に冷たいものが走る。
『来るぞ。悪竜の魂を脅威と捉える者。利用価値があると判断した者。有象無象がな』
気が遠くなりそうな言葉を聞いた。
「勇絵ー! ごはんよー!」
一階のお母さんの声に、意識を引き戻される。
ドアを見て、再び視線を白龍に戻す。
『行かんのか?』
「いや……その……あなたは、ここにいるの?」
『見届けると言ったからな』
ここから一歩も動く気なんてまったくないと言わんばかりに、ベッドの掛布団に鎮座している。
「えぇ……」
階下に行くか、室内の小さな龍をどうするか……ど、どうすれば。
「――勇絵? 大丈夫?」
「い、今行くー!」
再度の呼びかけに咄嗟に声を上げて返す。
「あの、動かないでね、お願いね」
『ふん。我ら龍は人間と違って言葉を違えることはしない。それに貴様以外の人間には我の姿を見ることすら叶わんから案ずるな』
鼻を鳴らし、立ち上がり、背伸びをし、布団を踏みしめ、また身を伏せた。
――す、座り直した。
よくわからない存在を自分の部屋で自由にさせるのは不安だけれど、一応今まで嘘は言ってない……と思うから、たぶん。
不安に思いながらも、私は部屋のドアを開けた。
◆ ◆ ◆
夢だ。
――あ、これは……
空を見ると満点の星空。星々の微かな明かりが、岩肌を淡く照らし出す。
そして『我』は歩を進めていた。前足を進めるたびに、鱗が岩を削り取る。
――行かないと。
進まねば。一歩でも。手に入れねば。
渇望と焦燥。行かなければという思いが急き立てる。
ここは渓谷だ。自身の体躯にはいささか手狭だが、『我』の歩を止めるものではなかった。削岩された小石が落ちる音が岩の狭間に反響する。
視線を上げる。その拍子に、角が岩壁を砕く。
――光だ。
決して陽光のように自ら発光しているものではないが、己が求める至高のものがそこにある。
――宝玉の原石。
石に埋もれ、偶然にもその一部が表面に露出した原石。何者にも気付かれず、ただ静かに輝きを湛えている、健気な石。
――ああ、美しい……
手中に収めないと。『我』のものに。絶対に。
身を屈め、顎を開き、食らいつく。
――これで、これで輝きは、私の……
◆ ◆ ◆
ピピピ、ピピピ、ピピピ……
目覚まし時計のアラームを無意識に止めて、小さく目を開く。
――ま、また夢……?
現実感がふわふわしてる。自分の部屋ってわかるけれど、ぼんやりして――
『うわぁ! なんだ今の異音は!』
「……ッ!」
目が覚めた。本当にはっきりと目が覚めた。
布団を跳ね上げ、声の主を見る。掛布団の端っこにいる、あたりをきょろきょろと見回す……五十センチあるかないかの白い龍。
――い、いるぅ……
そうだ、昨夜はご飯を食べてシャワーを浴びて、部屋に戻ってきたらもう眠くて眠くてしかたがなかった。白い龍は怖いけれど、こちらに危害を加えるつもりはない、と当人? 当龍? の口で宣言したので、疲労に負けてベッドに倒れ込んだんだ。
『おいユエよ! 今の音はなんだ!? 我の知らぬ竜の声か!?』
「目覚まし時計だよ……」
うろたえている白龍に、力なく答えを返す。
だんだん白い龍に対して、怖さよりも小動物感が勝りつつある。
『ぬ、時辰儀か。驚かせおって』
――じしんぎ?
聞き慣れない言葉。けれどわざわざ尋ねるまでもないと思って聞き流した。
『まあいい。ほれ、起床したのならさっさと下に行かんか』
「う、うん、行くけど……」
なんでそんなに口うるさく言われないと――
昨日までの恐怖はだいぶすり減っていて、少しばかりの不満が生まれてくる。
ベッドから降りると、空気が少し肌に寒い。腕を軽くさすり、部屋のドアへ向かう。
『……なんだ、今朝は喚かんのだな』
床にするりと飛び降りながら、白龍は口を開く。こちらがなにか返す前に言葉を次ぐ。
『ああ、人間の適応力というものか。古来より人の慣れには驚かされるな』
「あの……昨日も言ったけど、変なことはしないでね。下にはお母さんもお父さんもいるんだから」
足元をちょろちょろと駆け回る相手に、小さい声で釘を刺す。
『ふん。昨夜も言ったが我の姿は凡俗の徒には見えぬ』
「ホントだよね……? 信じるからね」
とりあえず今は部屋にいてもらうことを約束して、私は上着を一枚羽織りドアノブに手を掛けた。
◆ ◆ ◆
四月下旬。
だいぶ過ごしやすい気温になったけれど、早朝の空気はまだ冷やかさがある。青い空に浮かぶ雲を眺めて、澄んだ空気を肺に取りこんだ。
事故でボロボロになってしまい、新調された制服にカーディガンを着込み、冷えた指先に息を吹きかける。
いつもの朝。穏やかな日常。肩の白龍。
「…………なんでいるの?」
すぐ横に視線を向ける。カーディガンの網目に五本指の爪を立てて、微かな重みを感じさせる白い生き物。
『何度も言わせるな。見届けるためだ』
「いやでも学校はさすがに……」
『というより、我がいなくては貴様、死ぬぞ』
――えっ。
とんでもないことを言う。
「え、なん……で?」
『悪竜の気配を感じた他の同族が貴様を見つけるからだ。悔しいが、皆我のように穏便にことを済ませるわけではない。念のため我が貴様の存在を惑わす結界を張っている』
「そうだったの?」
初耳。
じゃあもしかして、私に付きまとってきたのって、ひそかに守ってくれてたってこと……?
「言ってくれればいいのに」
『なん、貴様、人間に我が、なぜわざわざ伝えねばならぬと、ぐ……』
とてつもなく歯切れが悪くなり、そっぽを向いて尻尾を後頭部にぺしぺしと当ててくる。
――照れ隠しなのかな?
『ぬぅ、何故威嚇する。我には威嚇されるいわれなどないぞっ』
「な、なんでよ、笑っただけじゃん」
赤い瞳がこちらを鋭く睨みつける。けれど、怖くは感じない。
白龍は白龍なりに、私のことを少なからず心配してくれているみたい。口は悪いし言ってることの全部はわからないけれど、決して悪意だけじゃないのはなんとなくわかる。
――なんだか、そういうのはちょっと……嬉しいな。
初春の涼やかな空気の中、心はほのかな暖かさを感じる。
「ありがとうね」
『言葉の選択を理解しかねる』
鞄を肩に下げ直し、駅へと足を向けた。