第三話『臆病娘とドラゴンソウル』
思えば変だとは思ってたんだ。
昔から転ぼうが打ち付けようがかすり傷で済んだ体。トラックに撥ね飛ばされて打ち身で終わった体。
運動自体は得意でもない、むしろ苦手な方なのに、なぜだか昔から大きな怪我だけは避けられていた。
決定打は……あの夢だ。
黒く、静かにたたずむあの存在。あれはただの夢じゃない。きっとあれは……私に関わりのあるなにかだ。
そのなにかが、昔からの体質や、今起きているこの事態に関わっている。
――そんな確信がある。
◆ ◆ ◆
飛来する鉄のドア。それに私は、いや我は――
動かなかった。
もしかしたら動けなかっただけかもしれない。怖くて、足がすくんで……けれどこの足が動いてしまったら、無防備な運転手さんがさらに傷ついてしまう。
――それは、嫌だ!
顔を守るために掲げた腕に、風を切る音とともに衝撃が走る。
「ぐ……っ!」
痛い。じんと痺れが走った。けれど、怪我はない。
鉄扉がアスファルトに落下し、金属音が耳に響く。
『ふん。魂を持つゆえのその頑強さには辟易するな』
「な、なんでこんなこと、するの……?」
虚空に響く声に問いかける。
『理由を問うか。だが解を得たとしても無意味だ。貴様はただ選ばれただけだ。己の不運を呪うがいい』
「選ばれた……?」
『誰に、か? なにに、か? そうだな、無意味としても慰みにはなるだろう』
一陣の風に目をつむる。開くと――
「……っ」
電柱にまとわりついてもなお余りある、白色の長大な体躯。目の前には昔の屏風絵で見るような――龍だ。龍の頭がある。鹿のような角。ゆらりと伸びた髭。烈火の如き燃える瞳が、真正面からこちらを捉えている。
歯牙の並ぶ口が開かれる。
『貴様の内には悪竜の魂が封じられている。いや……語弊があるな。正しくは、貴様の魂は悪竜と共に在る。悪竜の魂が今世に存在することも、それが弱き人間の元にあるのも、我は看過できぬ』
「なん……どういう……」
『理解の及ぶことではなかろう。理解したところで意味のない事だ。疾く、命の終わりを迎えるがよい』
この白い龍の言葉は半分も理解できなかったけど、最後に言われたことはわかった。
――死ね、と。
「…………やだ」
『なんだと?』
無意識だった。考えるより先に言葉が口を突いて出ていた。
「嫌、だ。なんで……なんでそんな、よくわからないことで死なないといけないの?」
怖い。脚が震える。けれど同時に怒りが沸いてくる。
「よくわからない理由で私や、関係ない運転手さんを傷つけて――いや私は傷ついてないけど……それでもひどいことしようとして、それであなただけは納得して、私の意見なんて無視して」
涙は乾いていた。代わりに、頬には脂汗が伝わる。
「納得もできないし、死にたくもない」
『だが貴様の意志など初めから意味を持たない。己の不運を――』
「さっきから不運不運って、あなたそればっかりじゃん!」
声がわずかに裏返った。焦燥からか、怒りからか。語気が荒くなっていく。
「私に選択肢も与えられない、なにもすることができないってわかってるのに、それを一方的に不運だ不幸だって、そんなの勝手すぎる。ただの理不尽だよ」
『貴様なにを――』
「自分の選んだことが間違ってて、それが悪かったら反省も後悔もできるけど、なにもわからない状態でいきなり『あなたは不幸だ』って言われたら普通怒るでしょ。私のこと知りもしない相手に、私の幸せを量られたくない」
息が上ずる。言葉がポンポンと出てきて、自分でも少し驚いている。
沈黙が訪れた。葉擦れの音ひとつしない、耳鳴りがしそうな無音。じっと見据えられることに耐え切れず、つい視線を下げた。鱗に覆われた胴と足が目に入る。
白き龍の五指の前足が一歩引いた。
『……人の子はときに、我らの原理とは乖離した思考をはたらくのだったな。失念していた』
龍が首をもたげる。たてがみが夕日に揺らめき、淡い炎のようだった。
『貴様の言い分の半分すら理解できぬが、わずかながら道理の通る部分もある』
「え……」
瞳を見る。業火の如き赤色は変わらないけれど、わずか――ほんのわずかに、柔らかさを感じた。
『そうだな。ふむ……そうか、む……』
かすかにまつ毛を伏せ、言葉を漏らしつつ龍は思案する。
『――名を問おう、人間よ』
「り、凛堂……勇絵」
『ユエよ。龍たる我に対するその大口、よくぞ言ってのけたものだ。今ここで貴様を殺めるのは容易いが、それは龍が人間の言葉に敗北したことに等しい。あってはならぬことだ』
龍は小さくかぶりを振る。
『悔しいが……貴様の言葉にも理があると認めよう』
「へ……?」
呆けた声が口から洩れた。自分の頭より上にある龍の顔を見る。
『出会ったのが誇り高き我であったが故、貴様はこの場では生かされるのだ。どうだ……幸運であろう?』
「え、あの、それは……」
――どういう意味?
尋ねようとしたとき、再びの突風に視界を閉ざす。
それを機に、空気の流れる音やそよ風に揺れる葉の音、遠くから聞こえるかすかな喧噪――日常が戻ってきた。今まであった圧迫感が嘘のように、肩が軽くなる。深く息を吸い込み、吐きだした。
『期を改めよう。再び会おうぞ』
声が降り注ぐ。通りを見渡せばさっきまでの白龍の姿はなく、ただ夕方の小路があるだけ。
「なんだったの……今の……」
狐につままれたとはまさにこのことか。実際は龍だったけど。
そのときだ。
「うぅ……」
うめき声に振り返ると、横たわった運転手さんが横腹を抑えていた。
「あっ! だ、大丈夫ですか!? 救急車、えっと……ッ」
急いで駆け寄り、いつ落としたのかも覚えていない鞄からスマートフォンを取り出す。
――ああもう、新しくしたばっかりだから機能がわからない……!
手の震えを抑えながら不慣れなスマホを操作し、私はなんとか一・一・九へとダイヤルを繋げた。
◆ ◆ ◆
運転手さんを乗せた救急車の後ろ姿を見送り、彼の持っていた紙袋を片手に携え、私は帰路についていた。
考えても、ちょっとでも気を抜くと思考が散ってしまいそう。起こったことが多すぎて頭が処理しきれていないのだろう。
数分前の出来事を思い返す――
煌々と光る赤いランプとサイレンを伴って駆けつけた救急車。隊員の人たちが、倒れた運転手さんを固定すると、手早く担架に乗せた。
通報者が私であることを確認され、なにが起こったかを尋ねられたけれど、当然そんなの私の口では上手く説明できるわけもなく――
「と、扉が飛んできて……俺の横腹に……」
意識がはっきりしてきた運転手さんが、かすかな声でそう伝えた。多少強引だけど、後に突風による事故として処理されることになった。
「あと、それ……今日おうちに伺おうと思ってて……つまらないものですが……」
運転手さんは、地面に落ちて少しひしゃげた紙袋を震える手で指差し、それを最後にガタガタと車内に運搬された。
「同伴しますか?」
と隊員さんに問われたけれど、どうすればいいのか咄嗟に判断できなくて――断ってしまった。
かくして、救急車の後ろ姿を呆然と見送りつつ、私は菓子箱の入った紙袋を拾い上げたのであった。
どこか夢の中を歩くような感覚で、気付いたら家の前にいた。
玄関をくぐるとお母さんが台所から顔を出す。
「あら、勇絵。おかえり。体調大丈夫だった?」
「あ、うん」
と、私の手元の紙袋を見た。
「どうしたのそれ?」
「これは……えっと……」
どう説明しようかと言いよどんでいたら、それより先に合点がいったらしい母が声を上げた。
「ああ、須藤さんと会ったのね」
「須藤さん?」
「あのときの運転手の人よ。今日改めて謝罪のためにうちに来るって連絡あったんだけど、まだ来てなかったの。律儀な人よね。外で会ったの?」
「あー……まぁ」
その人なら、龍が動かした扉に撥ね飛ばされて病院に運ばれたよ――なんて話せるワケがなかった。
それに、当事者ではないとはいえ救急車を呼ぶ事態に遭ったなんて、またお母さんたちを心配させてしまう……
「――少し前に会って、でも忙しそうだったから、お土産だけ受け取って別れたの。だから、大丈夫」
「そう……?」
怪訝そうな顔をしながらも、お母さんは台所に戻っていった。
菓子箱の入った紙袋を居間のテーブルに置き、逃げるように階段を上り二階の自室へ。
後ろ手に扉を閉める。
見慣れた部屋。日が沈んだこの時間、室内は薄闇に覆われている。机。ベッド。ハンガーにかかった洋服。窓際に置かれた目覚まし時計、ぬいぐるみ大小……
――普通だ。本当に普通の、やっと落ち着ける場所。帰ってきたんだ。
壁のスイッチで明かりを灯し、持っていた鞄をベッドに放り投げる。そして私もそこに座り込んだ。
「――はぁー……」
肩の荷が下りて、大きく息を吐く。背筋を伸ばし、そのまま後ろに倒れ込んだ。
真ん丸の電灯が天井に張り付いている。
――結局、私が見たあの……龍はなんだったんだろう?
鮮明にまぶたの裏に焼き付いている、夕日を背に佇む白い龍。夢と呼ぶにはあまりにも生々しい存在感があったし、事実私や運転手さんが被害に遭っている。
――いや、私は無傷なんだけども……
そこではたと気付く。あの龍のことも大概だけど、自分の身体もいよいよもって人間離れしてしまった気がする。白龍が言っていた言葉――私は悪竜とどうとか……そんなことを思い出す。
「なんだっけ……悪竜が、なんだったっけ……?」
『悪竜の魂が貴様の魂と共に在ると言ったのだ。覚えの悪い人間め』
瞬間――腹筋だけで跳ね起きてあたりに視線を走らせた。
「……っ!?」
切れていた緊張の糸が固結びされた。
「な、なに? まだいるの……?」
部屋の中を見渡す。が、なにもいない。今の声は紛れもなくあの白龍。若干声のトーンが高くなっているような気が……
『ここだ。おい、人間。聞こえぬのか?』
視界の端に動くものを捉えると、そこにはベッドに投げ出された通学鞄。紺色の、そこそこ物が入る、あまり珍しくもない学生用の鞄が――
動いている。もぞもぞと。
「え、えぇ……?」
困惑。
『おい、いるのだろう? 開けよ。おい。人間。答えよ』
声はそこから聞こえてくる。
『開けんか。ねぇ。開けて。あのぉ……』
なんだかかわいそうになってきた。おそるおそる手を伸ばして、鞄のファスナーをジジジと開ける。
『おお! いるではないか! 愚鈍な人間め!』
言葉こそ乱暴だけど、心なしか晴れやかな声音と共に、するりと白く長いものが滑り出た。
その姿は、まさしくさっき目にした白龍……を小型にした存在。私の腕の肘から先くらいの長さしかない。が――
「ひぇ……」
数歩下がると腰が机にぶつかった。痛みはないけれど、これ以上後に引けない不安感が押し寄せてくる。泣きそう。
そんな私の感情なんてつゆ知らずの龍は、小さい身をするりと伸ばし――こう言った。
『期を改めたぞ。再び会いまみえたな、人間。ユエよ』
誤字脱字、表記ミス等ございましたらふんわりご指摘いただけると幸いです。