第二話『臆病娘とドラゴンハート』
事故から五日後。
退院予定日が数日繰り上がり、私は白い建物を後にすることになった。お父さんの車に乗る前に、今一度病院を振り返る。
――ここ数日のことを思い返す。
入院の次の日には体の痛みがだいぶ薄れ、それからはあっという間だった。日に日に怪我は回復し、今はもういつも通り歩いたりご飯を食べたり、場所が病院ということを除けばおおむね日常だ。
――昔から、転んだりしてもすぐ治ってたなぁ。最近は膝をすりむくことも減ったけど。それにしても、私は人より少し頑丈みたい。お父さんとお母さんには感謝しないと。
二人には心配をかけてしまっただろうな。今度からは外を歩くときは周りにも気を配っておこう。それなりに。
入院中は特に問題なく……ただ、最初の頃の点滴は、ちょっと怖かったなぁ。看護婦さんが経験の浅い方だったのか、なかなか針が刺さらなかったようだ。『ようだ』というのは、直視するのが怖くて目を背けていたんだけど、治療者の「ん?」とか「あれ?」は……すごい不安になるということを学んだ。
……あ、そうだ。入院二日目に珍客が舞い込んできたんだ。
つい珍客と表してしまったけれど、常識で考えるなら私の元に訪れても、いや訪れるべき相手だった。
トラックの運転手。
その日はお母さんがお見舞いに来ていて、ちょうど帰ろうとしていた夕方だった。
彼は病室に入ってくるや否や、涙混じりの声で――
「この度は、誠に、誠に申し訳ありませんでした!」
叫んだ。個室内に響く声で。
ベッド横のカーテンは閉まっていたので、私にはその下から覗く、床に付かれた両手足しか見えなかった。土下座というものだ。すごい、本物だ。
私はおそるおそるカーテンを開け、そっと覗きこんだ。
「なんとお詫びをして……いや、謝罪で済まないとはわかっていますが、本当に、申し訳ありませ――」
そこで。
顔を上げた彼と、私の目が合った。
叫ばれた。すごく驚かれた。小さい頃、お化け屋敷に連れ込まれた私と同等レベルの悲鳴。気持ちはわかるけど……
落ち着いた彼から丁寧な謝罪と、壊れてしまった私物の弁償や治療費の支払いを約束されて、その場は収まった。
嵐のように訪れ、嵐のように去っていった。思い返しても珍客というか、元気な人だったなぁ、と。
それから数日かけて、自分でも驚くくらいめきめきと回復していった。結果的に最終日となった日に再び精密検査が行われ、お医者さんの太鼓判を押されて円満退院となったのだ。
そして――
◆ ◆ ◆
退院から二日後。四月下旬の月曜日。
春の風を肌に感じる。葉の目立つ桜の木が校門前で揺れていた。早朝の外気を胸に吸いこみ、肩の鞄を支え直す。
まだ少し肌寒いかもしれない。制服の上に羽織ったカーディガンの袖を指先まで伸ばす。
ちょうど一週間ぶりの学校。今月半ばに入学して少ししか経ってはいないけれど、懐かしい……ああ帰ってこれたんだなぁ、という感慨がある。
――登校するの、少し早かったかな?
まばらな生徒の影を横目に見ていると、そのうちの一つが近づいてきた。
「あっ、勇絵! 事故ったって聞いたけど大丈夫? 痛いところない?」
「奏波」
背の高い少女だ。心配そうに私の頭からつま先までに視線を向ける。
彼女は沖奏波。中学のときからの友人で、同じ高校に進学した今でも仲良くしてくれる。私とは真反対のバリバリなスポーツ少女。ショートヘアもよく似合ってる。
「おはよう奏波。うん、大丈夫。もう怪我は治ったから」
安心させるつもりで言ったけれど、逆効果だったみたい。サッと奏波の顔から血の気が引いた。
「怪我してたの!? なんで連絡くれないのー!」
「えっと、スマホ壊れちゃってて……」
「スマホが壊れるほどの事故に遭ったの!?」
ああ……これはどんどん墓穴を掘っちゃうパターンだ。
と、とにかく話を変えないと。
「――あ、奏波は部活? やっぱり来るの早かったんだね」
「え? あっ」
ぱっちりとした瞳が宙へ向く。つられて視線を追うと、校舎の時計が目に入った。七時五十五分。
「ヤッバ……! 部活だったんだけど寝坊しちゃって。行かないと! あっ、あとで話聞かせてね!」
ラケットケースを肩にかけ直し、彼女は軽やかに、しかし慌ただしく校舎の影へ消えていった。
一週間の空白なんて、最初からなかったみたい。いつも通りの友人に安堵を覚える。
――最初は職員室に行って、いろいろやらないと。
ふんわりとしたプランを練り、私は昇降口へ足を運んだ。
◆ ◆ ◆
あっけないくらいに一瞬で一日が過ぎ去った。昼休みに奏波の質問攻めを受けつつも、おおむね平和な学校生活だ。
事務的な手続きがいくつかあったものの、担任の先生の手伝いもあって、手こずることも少なかった。休んでいた間の授業も、後日奏波のノートを見せてもらうことになった。
ひとまずの安心を胸に抱いて、最寄駅から家への道のりを歩いているときだ。
『――そこの貴様』
「……ッ!?」
唐突に、しかし明確にこちらに向けられた言葉に、身をすくめてあたりを見回す。
いつも通りの帰り道。傾いた日が凸凹な影を伸ばす。ブロック塀。電柱。民家の庭に植えられた木々がさわさわと揺れ動く。
……いつも通り、なんの変哲もないはず。
思わず鞄を抱きしめ、耳を澄ます。
――き、気のせい……?
『貴様だ、貴様。目つきの悪い、くせ毛の、小さき貴様』
「ひ、ひどい……」
人が気にしていることを全部……!
カチンと来る言い様だけど、声の出所が不明なのはやっぱり不気味だ。おそるおそる問いかけてみた。
「誰か、いるの?」
『こちらだ。貴様から見れば右前足の小路だ』
右前足……? 右側、ということなのかな。
見れば、建物と建物の間の細い路地。夕方の今となっては、すっかり影に埋もれてしまっている。室外機の輪郭とむき出しの配管が目についた。
『そうだ、来い』
「…………」
え、絶対イヤだ。怖い。
姿も見えない声だけの、そして失礼な相手の言うことを聞くほどお人好しじゃないし……そもそもこの声って本当に聞こえてるものなのかな。この前の事故のときに実は頭を打っていて、変な幻聴が聞こえるようになっちゃったとか。今度もう一度病院に行った方がいいのかもしれない。
『……うん? どうした? 竜の魂を持つ者が、よもや恐れから歩を進めることもしないのか?』
「えぇ……?」
――ちょっと理解が追い付かない。
やっぱり頭を打ったんだ。そうに違いない。
いつまでも変な声の相手をしていられないし、実際に人がいたとしても完全に不審者だ。
路地から一歩後ずさる。靴底がアスファルトを擦る。
『退くというか。では――』
踵を返す。
『――死ね』
風の音を捉える。
顔の横を、巨大な塊が通り過ぎた。道の反対側の壁に打ち付けられ、プラスチック片が飛び散る。角ばった部品と弾け飛んだプロペラから、エアコンの室外機だとわかった。
――なに……? なにが起こったの?
足元に欠片が転がってきて、現実に引き戻される。
――逃げなきゃ!
頭から血の気が引いた。命を脅かす相手だ。
奇跡的に動いた脚を叱咤し、駆け出す。駆け出した。
『竜の魂を持つ者が逃避を謀るか! 恥を知るがいい!』
後ろから声と、風を切る音がする。息を切らせつつ、本能的に道を折れた。最近まで病院のベッドで寝ていたなんて思えないくらいの運動量。お医者さんだったら絶対に止めてる。
ガンッ! と背後から騒音が響く。今度はなにが飛んできたのか、確かめる気にもなれない。ただ前だけを見て鞄を握りしめ、足を動かす。
『えぇい、ちょこまかと! まだ逃げるか!?』
――逃げるに決まってるでしょ!
周りに人がいないのもあって、なりふり構わずひたすらに走れる。涙があふれても、髪がぐしゃぐしゃになっても、スカートが跳ねあがっても……
……なんで誰もいないの? 夕方の、放課後の、夕飯の買い物時間の、このときに。
おかしい。わからない。怖い。おかしい……
拭えない違和感もあるけど、ただ走るしか――
「――あっ」
そのとき。道をすれ違って現れた人物にぶつかってしまった。慌てて減速したこともあってか、相手に肩を軽く抑えられるだけで済んだ。
「うわっ! ん? あれ、君は……」
「う、運転手さん……!?」
見覚えがあると思ったら。
以前見た作業着からパリッとしたスーツに身を包み、手には大きな紙袋がさげられていた。
「凛堂さんの娘さん? なにかあったのか!?」
緊急事態を察してくれたみたいで、視線に厳しさが宿る。
『……ふん。人払いをしたというのに、縁が引き寄せたか。不運を呪うがいい』
なおも声は背後から追い立てる。
「に、逃げてっ!」
「え……?」
言葉がまとまらないけれど、一番伝えなきゃいけない言葉は口を突いて出てきた。
けれど彼は――困惑し、固まってしまった。
『目障りだな』
冷ややかな声に振り返る。運転手さんが言葉を発する。
「――! 危ない!」
体が横に揺り動かされた。目の前の男性の身体が入れ違いになる。
――衝撃音。
「がッ……!」
くぐもった声。
「運転手さん!」
スローモーションだ。大人の男の人が跳ね飛ばされる。飛んできたこれは……なに? ドア?
民家の門扉。横向きになった扉が飛来し、運転手さんの横腹を叩きつけたのだろう。彼は道路の横に転がる。
「大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄り、鞄を放り出してしゃがみこむ。倒れた運転手さんはぐったりと手足を投げ出していた。
けど――指が動いてる! 生きてる、よかった……!
『脆い。脆いな、人間は』
「…………」
未だ姿見えぬ相手の声。それを受けて静かに立ち上がる。
現実離れしたことばかり起こるし、顔を知る相手が未知の力で傷つけられた。
怖い。今すぐ逃げ出したい。また走って、いるかもわからない助けを求めたい……
それでも。それ以上に。
――腹立たしい。
声の方向に振り返る。
『次は貴様だ。早々に竜の魂を開放するがよい!』
飛来する第二の鉄扉。それに対して――私は。
我は――
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