第十七話『臆病娘と麗人と』
『――これは長き時代を見てきた我の勘だが』
学校からの帰り道。肩に居座る細長い白龍が、おもむろに口を開いた。
『近々、また新たな来訪者が現れる気がしてならない』
「や、やめてよそういうこと言うの……」
家までの最寄駅まで奏波といっしょに電車に乗って、そこからは別方向なので数分前に別れたばかり。
――なんで急に不穏なことを……
白龍が言うとシャレになってない。小声で抗議した。
「そういえば、私を隠すためのなにか……やってるって言ってたじゃない」
『隠蔽の結界か?』
「そう、それ」
以前、白い龍が話していたことを思い出す。
そもそもこの小さな龍が私に付いて回るのも、悪竜の気配を消すためと言っていたはず。言い方はどうあれ、私を守ってくれていたのは変わりない。
――本人……本龍? は恥ずかしがって明言はしなかったけど。
『……口惜しいが、我よりもユエの内に在る悪竜の方が強大だ。我の力を持ってしても、完全に翳らせることは敵わん。勘の良い者共は遅かれ早かれ気付くであろう』
「そんな……」
絶望的な事実を突き付けてきた。
『そのときはそのときだ。あの若造のように言い負かしてしまえ』
「無茶言わないでよ」
さっきまでの穏やかさは、束の間の静けさだった気がする。
けど、最初の頃に比べると、谷底に突き落とされるほどの絶望感は感じなかった。慣れって怖いな。
重くなる気持ちを抱えたまま、次の角を曲が――
「――ひぁっ」
「あら」
道を折れた直後、誰かにぶつかった。後ろに倒れた――かと思ったら、腕を掴まれる。
「す、すみませ……ん……」
支えてくれた相手に反射的に謝った。そちらを見上げて、言葉に詰まる。
綺麗な人だった。
つばの広い帽子の下の長い髪は、脱色しているのか銀色に輝いて、一束の真っ赤なメッシュがアクセントになっていた。薄いサングラスの奥には、切れ長の蒼い瞳に、鼻筋の通った顔立ち。長身を包む春物コートが、驚くほど似合っていた。
――モデルさんみたい。
ファッションとか、まだ私には全然わからない。それでも、目の前の人が雑誌の紙面を飾る光景がありありと浮かんだ。
「こちらこそ、ごめんなさい。大丈夫かしら?」
耳元のピアスを揺らしながら、低く穏やかな声で尋ねてくる。
「え、あ、はい」
「ふふっ、よかった。それじゃあね、お嬢さん」
そう告げると、ハイヒールをコツコツと鳴らしながら、綺麗な姿勢で歩き去っていった。
――ああいう人っているんだ……というか。
「声……男の人だったね」
『人間の雌雄差など我はわからん』
コロンの残り香に包まれながら、なんとも言えない衝撃を受けて、私はしばし放心していた。
◆ ◆ ◆
「え! それ絶対Meiだって! 会ったの!? いいなぁー!」
教室の休み時間。
なんの気もなく昨日の話をしたら、奏波が目の色を変えた。
「め……い?」
「男だけど女に見える、ミステリアス・モデルだ、って最近ネットでよく聞くよ」
そう言って、スマホの画面を見せてくれる。
写真投稿SNSかな。白百合に囲まれて寝そべり、胸元を大きくはだけた――
「ちょ、ちょっとなんか……すごいね」
「ね! ドエッチでしょ」
「奏波! 言葉っ!」
目のやり場に困る写真だけど、写っているのは確かに昨日見た人だった。纏っている雰囲気は別人みたいだけど、特徴的な風貌はそのままだ。
――本当にモデルさんだったんだ。
偶然とはいえ、有名な方に出会っていたことには素直に感動した。
「意外と近所にいるんだねぇ。あたしも奇跡的に会えたりしないかなー」
机に肘をついた奏波が、ふと神妙な顔をする。
「――ていうか最近、勇絵の周りの人脈ヤバくね?」
「えっ……!?」
鋭い指摘に、身をこわばらせた。
こっちの緊張に気付かず、奏波は言葉を続ける。
「入学早々に白銀先輩と知り合いになってるし、熊森先輩っていう見た目ヤバめな人といつの間にか仲良くなってるし、昨日はMeiにも会ってるし」
「最後のは通りすがりみたいな感じだけど……」
「なんかキテるって、絶対」
――確かに、来てるっちゃ来てるなぁ。いろんなのが。
机横に掛けられた鞄の中には、私にだけ見える白い龍が瞳を閉じてじっとしている。
現在進行形で、いろいろ起こってはいるんだ。
「来てる、かなぁ……?」
「まぁでも、この中で勇絵に一番合ってるのは白銀先輩だと思うけどね」
彼女の話の方向性はころころと変わる。
「なに、急に」
困惑に眉根が寄る。
「なんかそういうゲームの主人公みたいだよ、今の勇絵」
「そういうゲーム?」
「恋愛シミュレーション系の」
「……ゲームやる方なんだっけ?」
「ううん。あたしじゃなくて、兄ちゃんとか姉ちゃんがよくやるの。さすがにこれは姉ちゃんの方だけど」
そういえば、奏波は三きょうだいの末っ子だった。
なんとなく奏波が言わんとしてることはわかったけど、友人捕まえてなんてこと言うの。
「あとはそうだなぁ……ミステリアスでちょっと危ない執着系男子とかいたら完璧だと思うよ」
『んごっふッ』
「あーはは……」
鞄の中で盛大に吹き出した白龍に反して、私はただ乾いた笑いを浮かべるほかなかった。
◆ ◆ ◆
『お前の友人、なかなかの慧眼の持ち主と見えるな……くくっ』
「ときどき鋭いから心臓に悪いよ」
午後の授業も終わり、奏波は足早に部活へ向かった。
明日から連休。部活にも入っていない私は、一週間ほど学校に来る予定がない。
――でも課題が多いな……授業の内容もだんだん難しくなっていくし、今のうちにできることをしないと。
中学校に比べて、どうしても教科が多い。科目によっては資料を調べる必要もあって、なにより――連休明けに確認テストがある。
ごたごたの中ですっかり忘れていた、避けては通れない試練。
今のうちにできることはないか……そう考えて、私はある場所に足を向かわせている。
扉の前を見上げれば、『図書室』と表記されたプレート。
引き戸を開けると、紙の匂いがする。
入学してから初めて来る場所だった。カウンターと、立ち並ぶ本棚に圧倒される。
――思ってたより広い。
正直、あまり縁のない場所だと思っていたけど、空調の音が響く静かな室内には、居心地の良さを感じる。
何人か自習中の生徒が、テーブルに座ってノートや教科書を開いていた。
私の目的は、社会科の課題で必要になる資料。ネットで調べれば早いのかもしれないけど、そもそも課題のテーマも決まってなかったから、それを探すためにもここに来た。
――もしかしたら、竜に関わる本もあるかもしれないし。
淡い期待も、わずかにいだきながら。
「あ……」
本棚の間に足を踏み入れたとき、ちょうど反対側から現れる影を見て、小さな声が漏れた。
相手も顔を上げ、すぐに柔らかい笑みを浮かべる。
「こんにちは、凛堂さん」
「白銀先輩?」
思いがけない人物に驚いた。近くに寄って声のボリュームを落とす。
「先輩もテスト対策ですか?」
「テスト? ああ、一年生は確認テストがあるんだったね」
話を聞くと、どうやら近々試験があるのは一年生だけで、他の学年は校外行事の準備に追われるらしい。
「――そうだったんですね」
「うん。だから今日は、ただ読みたい本を探しに来ただけ」
先輩の手には、数冊の本が収まっていた。
「本……お好きなんですか?」
「好き、というか、入院している間によく読んでいたのが、いつの間にか習慣になってた感じかな」
手元の単行本を見下ろす。つられて目を落とすけど、知らないタイトルの本だった。
「凛堂さんは、なにか探しているの?」
「あ、えっと、社会科の資料を……」
「それなら向こうの棚だね。こっちだよ」
手招きした白銀先輩のあとに続いていく。
案内してもらった本棚。そこに収められた背表紙の文字を目で追う。
「――このあたりのです。ありがとうございます」
改めてお礼を言って先輩を振り返ると、彼はじっと棚を見定めていた。白く端正な横顔に、長い睫毛が影を落とす。
「……先輩?」
「あ、ああごめん。このあたりの本はまだ読んだことがなくて、少し気になって」
小さく苦笑しながら言葉を返す。
――さっきはああ言ってたけど、やっぱり先輩は本が好きなんだと思う。
不思議と嬉しい気持ちがこみ上げてきて、口元が緩んだ。
「いえ、大丈夫です。あの、じゃあ、私はこれで」
これ以上先輩の時間を邪魔したら悪いと思って、一つ頭を下げると、自分の用事に取りかかろうとした……けど。
「――そうだ、凛堂さん」
唐突に、嬉しそうな声音で白銀先輩が声を掛けてくる。
「な、なんですか?」
「もしよければ、今度うちに来ないかい?」
――なんて?
「……え?」
言葉の意味を飲み込むのに、タイムラグが生まれた。小さな声だけが口から洩れる。
「テスト前に集まって勉強会。一度やってみたかったんだ」
「勉強会、ですか?」
花が咲いたような笑みで、目をキラキラさせながら先輩は語る。
「少しなら僕も教えてあげられるし、僕自身も前学年の復習ができるから、お互い損はないかなって。ああでも、予定が合わなかったら断っても構わないからね」
「えっと……」
わかってる。先輩は純粋な善意で提案してくれたんだって。
わかってはいるけど、ああなんで――
――嬉しい、気がする。
自分の気持ちなのに、自分で判断がつかない。うつむいていると、先輩が話を続けた。
「ぜひ、お友達もいっしょにどうぞ。今決められなかったら、あとで連絡を……そうだ、連絡先交換しておこうか」
「え、あ、え、はい」
言われるがまま、先輩は折り畳み式の携帯、私はスマホでお互いのアドレスを連絡先に追加した。
「連休中はずっと家にいるから、もし来られそうな日があったら教えてね。できれば前日までに連絡もらえると、お茶とかお菓子も用意できるから」
「わか、りました」
心の底から楽しそうに先輩が話す反面、私は心ここにあらずで間の抜けた相槌を返すことしかできなかった。
短く別れの挨拶をすると、先輩は軽やかな足取りで本棚の向こうへ去っていった。
スマホ片手に、それを見送る。
――どうしよう。どうすれば。こんなときどうするのが正解なのか。
先輩は、お友達もいっしょにと言っていたから、頼れる相手はもうわかり切ってる。
「……助けて奏波」
颯爽と部活へ向かっていった友人の名を、小さく、小さく呟いた。