第十五話『臆病娘とジブンサガシの竜』
「勇絵、遅くなるなら連絡しなさい。何時だと思ってるの?」
「ご、ごめんなさい……」
家の玄関。
静かにドアを開けたけど、すぐに奥からお母さんがやってきた。眉間にわずかにしわが寄っている。
――そういえば、遅くなっちゃったけど家になにも連絡してなかったな……
鞄の中のスマホの存在なんて、今の今まで気にもしていなかった。
お母さんは小さく息をつく。
「またあとで話聞くけど、ごはん先に食べちゃいなさい」
「うん。お父さんは……?」
「今日は遅くなるって言ってたわよ」
それだけ言い残すと、キッチンでお鍋を温める。
ぐつぐつと煮える音を聞きながら、鞄を置いて洗面所に向かう。どう言い訳すればいいのか頭を巡らせていた。
――嘘をつくのは気が引けるけど、本当のことは言えないし、こればっかりはしかたない……よね。
◆ ◆ ◆
数時間前を振り返る。
廃倉庫から数ブロック離れた場所まで来たところで、熊森さんは足を止めた。病院に行かないと、と告げるけど――
「アテがある」
それだけ言って、ふらりと進路を変えてしまった。
「ま、待ってください!」
「俺らもお供しあふ!」
名前も聞きそびれた男子学生二人も、それを追うように夜道へ消えた。
取り残されたのは私と、肩の白龍。そして――
「…………」
さっきから一言も発していない黒服の男・ジャバウォック。
静かになると、遠くのサイレンの音が耳に入る。
『ほれ、さっさと帰るぞ』
白龍が前脚で肩を叩く。辺りは暗く、街灯の明かりが等間隔で灯っている。
――そうだ、帰らないと。
駅の方向はなんとなくわかる。そう思って歩き出そうとしたとき――服がなにかに引っかかった。
「えっ」
振り向く。ジャバウォックが私の上着の袖をつまんでいた。周囲の暗がりと長めの前髪で、その表情は読み取れない。
けれど――どこか居心地悪そうな、しぼんでいるような、そんな気がした。
横目で白龍を見るけど、鼻を鳴らして顔を逸らした。
――私がなんとかしろってことなのかな。
改めて、真正面から向き直る。
「あの――」
「黒竜の君……」
ぼそり、と呟かれる。
「はい」
「ボクは、どうすればいいのか……わからないんだ」
目が合った。不安で揺れる瞳。
――こんなジャバウォック初めて見た。
黙って相手の言葉を待つ。
「すごく心情が複雑で、言葉にし難い。ボクは……その……これを言ったらまた怒られるかと思うんだけど」
まるで叱られる前の子供みたいだった。
「うん。大丈夫」
「――嬉しいんだ。少し前から、ボクがボクであると強く感じている。キミがボクの存在を明確に認識してくれた。それがわかる」
「え……?」
思いがけない返答に、目を丸くしてしまった。
「伝わるかな?」
「ごめんなさい、よくわからない……」
「前にも言った通り、ボクたちドラゴンや龍は、本来この世界にはいない概念の存在だ。意志ある者――人間に認識されなければ、存在することすらできない」
そう語るジャバウォックの口調はとても穏やかで、別人みたいだった。
「けれどキミが、ボクのことを考え、認識し、理解しようとしてくれた。そのおかげで、ボクはここに『在る』と感じる」
そこまで言うと、急に表情を曇らせた。
「それと同時に、ひどく……悲しくもある。キミに怒りをぶつけられて、本当に言われた通りで。なにより友を傷つけてしまったことを、とても悔いている」
そこまで言って、自嘲気味に笑った。
「ははっ。人を貶める邪竜がなにを言ってんだ、って思うだろう?」
「そんな……」
「いや、いいんだ。たぶんボクには、考える時間が必要なんだと思う」
ジャバウォックは小さくかぶりを振ると、私をまっすぐ見下ろした。
「しばらくキミから離れることにするよ。キミの友たる竜として、ふさわしいボクになるために、ボクはなにを成すべきなのか……それを考える」
きっぱりと、迷いのない言葉だった。
――あれ、こんなしゃべり方だったっけ?
「ジャバウォック……」
「次に会う日が近いか遠いか……ああ、人間とは感覚が違うんだったね。じゃあわからないか」
そう語る彼は、どこか寂しそうだった。
「いずれまた会おう。さようなら、黒竜の君――ユエ」
「えっ、今、名前……!」
気付けば、宵の黒に紛れてジャバウォックは消えていた。煙のように。
あとにはただ、電灯の無機質な光だけが残された。
「大丈夫かな? なんだか様子が……」
肩の白い龍に問いかける。
『自身の存在定義が固まったが、それに戸惑っているだけだ。気にすることはない』
またよくわからないことを言いだすので、質問を返そうとしたけど――
『それよりよいのか? 月は中天だぞ』
「えっ、あ!」
――早く帰らないと!
頭上には綺麗な半月。こんな遅くなるなんて思ってもいなかった。
鞄を抱え直し、私は駅の方向へ駈け出した。
◆ ◆ ◆
『なるほど、顛末は理解した』
夕食をとって、お母さんに改めて叱られて、自室に戻ってきたときにはクタクタだった。
白龍に今日のことを説明して、着替えもしないでベッドに倒れ込む。
――すごい疲れたなぁ。でも寝る前の準備はしないと。
重くなるまぶたを持ち上げて身を起こす。
『なんとも愉快なことになっていたようだな』
「愉快じゃないよ……」
大きく息をつくと、疲労が肩にのしかかった。
白い龍は机の上に降り立つと、前脚でたてがみを梳く。
『しかし、お前の啖呵で若造が気圧される様は、なかなかに見物だったぞ』
くつくつと、喉の奥で笑う。
「あ、あれは……よくわからなくなって」
思い返すと恥ずかしくなり、顔が熱くなる。
勢いで言い放ったことが大半だった。なんで自分でもあんな言い方をしてしまったんだろう……もっと別の言い方もあったんじゃないのかな。後悔が募る。
『――ときにユエよ』
炎の色の瞳が、冷ややかにこちらを捉える。
『お前の内に……いや、魂に混在する悪竜の正体、おおよそ見当がついたぞ』
「えっ」
反射的に驚きの声を上げたけど――
「……たぶん、言われてもわかんないと思う」
『だろうな』
呆れるでもなく、淡々と白龍が肯定した。
――仕方ないじゃない、竜の事情なんて知らないんだから。
不満は心の中に押しとどめて、次の言葉を待つ。
『ここしばらくお前を見ていたが、悪竜の力が顕現するときは特定の条件がある』
「特定の条件?」
白い頭が頷く。
『初めに、我が相対したときだ。お前は人間の男を庇った』
結界に覆われた無音の世界で、偶然出会ったトラック運転手の……確か名前は須藤さん。
『次に、ジャバウォックがお前の前に初めて現れたとき。共にいた人間――』
「白銀先輩?」
『その人間に危害が及び、お前は若造の結界を内側から弾き飛ばした』
あのときは必死で記憶がおぼろげだけど、確かにそうだった気がする。
『そして今日。再び人間を守り、お前は傷一つなく立ち上がった』
「本当だ……」
思い返せば返すほど、竜としてのなにかがはたらくときは、絶対にそばに誰かがいた。
『さらに言うと、若造の結界を破壊したとき、お前は丸一日眠りに落ちた。思うに、自身を頑強に保つことは得手としても、外部へ拡幅することは不得手と見える』
白龍の分析は的を射ていた。
一息置いて、白龍は続ける。
『結論だ。お前に混在するものは、強固な護りに長けた西の悪竜――ファーヴニル』
「ファーヴニル……?」
言われた単語をただ繰り返した。
――知らない名前なのに、なぜか遠いものだとは思えない。
『どうだ? 名を聞いて心境に変異はあるか?』
「……わからない。でも、変な感じ」
自分の手のひらを見下ろす。
なにも変わってない、いつもの自分。初めて聞く名前を言われたはずなのに、ずっと前からその名で呼ばれていたような……
『我から見ても、お前のような存在は前例がない。気に掛かることがあるならすぐに申し出よ』
「うん、わかった」
釈然としないことは多いけれど、今日はもう頭が働かない。
ベッドから立ち上がると、寝るための身支度を整えた。髪の毛が埃っぽいけど、もう明日になんとかしよう。
明かりを消して、布団にもぐりこむ。机の上で身を丸める白龍が目に入った。
「……あの」
『なんだ』
「今日は、ありがとうね。おやすみ」
あのとき来てくれなかったら……そう考えると、怖くて怖くて仕方なかった。
返事はない。気まずくなって、寝返りを打って背を向けた。
目を閉じれば、待ち構えていた睡魔にあっさり飲み込まれる。
いろいろなことは、また、明日――
◆ ◆ ◆
眠りについた少女を、朱色の瞳が見下ろす。
規則正しい呼吸に、掛布団がわずかに上下に揺れていた。
白龍は思案する。
この小さな命を終わらせる――そうすれば、この世から悪竜の脅威は消える。
しかし、知れば知るほど、この少女はどこまでも人間だった。それも善良な部類の。
少女自身は平穏を望んではいるものの、悪竜の魂を有してしまったがために、今後も苦難は絶えないだろう。
『……難儀なものだな』
小さな呟きは、夜の室内に溶け消えた。