第十四話『臆病娘とゲキジョウの竜』
薄暗い空間。うつ伏せの身体に、コンクリートの冷たさが沁みてくる。
――そうだ、逃げないと。早く。
そう思って体を起こそうとするけれど……できなかった。
腕を支えに立ち上がろうとしても、下半身がピクリとも動かない。
不思議に思って背後を見れば――
「あ、あ……」
自分の身体の半分にのしかかる、巨大な鉄のコンテナ。下敷きにされていた。痛みがないのは、良いことなのか悪いことなのか。私にはわからなかった。
「くそっ! なんで!」
すぐ横には、片腕だけでコンテナの底に手を掛ける熊森さんがいた。
けれど到底持ち上げることはできない。悪態をついて地団駄を踏んだ。
「チクショウ……! なんで、なんで助けた!? なんでアンタがこんなことに! アンタなんにも悪くないだろ!」
血のにじんだ指先を握りしめ、コンテナを殴りつける。
――どうしよう。脚、動かない。感覚もない。
自分の身に起きていることを考えると、恐怖で叫びそうになった。
けれど。
「早く……逃げて」
口を突いた言葉はそれだった。
「ふざけるな! くそっ! 重てぇな!」
悪態をつきながらもボロボロな身体で鉄の塊と格闘している。
――ダメ。ここにいたら巻き込まれちゃう。
こんなに必死になってくれるこの人は悪い人じゃない。いや、良い人とも言い切れないけど……龍とかドラゴンとか、わけのわからないことに巻き込むべきじゃない。
それにジャバウォックも――これ以上人を傷つけさせちゃダメだ。
――誰にも傷ついてほしくない。そして、誰かを傷つけてもほしくない。これは私のワガママだけど、絶対に曲げられない。
でも……私にできることなんてたかが知れている。今はただ逃げないと。
――逃げる? 『我』が?
ジャバウォックにはもう私の声が届かない。白龍にこの場を託して、非力な自分は逃げないと。
――格の劣る相手に、尾を巻いて逃げるのか? 交渉ひとつなく?
仮にも友人と言い張ってきたのに、私の話を全然聞いてくれないのはなんで?
――『我』の言葉に耳も傾けぬ愚竜め。
なんだろう。だんだんと、心の奥底から、小さな怒りがふつふつと沸いてくる。
そう思ったとき、わずかに脚に血が巡るのを感じた。
離れた場所でズシン、と重い音が地を揺らす。視線だけ向けると、白い龍が邪竜を組み伏せ、顔を上げた。
『――ユエ!』
焦りを含んだ声。
見開いた赤い瞳に淡い光が灯ると、私の身体への圧迫感が消えた。
「な、なん……!?」
すぐ横で熊森さんがうろたえる。
――なにが起こって……?
首をひねると、コンテナが宙に浮んでいた。数メートル上で漂っている。
瞬間、あの日の光景がフラッシュバックした。夕暮れの街中、空から襲来する室外機を。
――そっか、白龍の力なんだ。
真上に浮かぶ巨大なコンテナ。その真下に居続けるのは安全じゃない。そう思ってすぐに立ち上がった。
「えっ、アンタなんで……? 脚は……!? 大丈夫なのかっ!?」
困惑しながら熊森さんが尋ねてくる。それに小さく頷いた。
「うん、大丈夫。それよりも」
倉庫奥の二体に目を向ける。
邪竜は地に横たわり、小さな呼吸を繰り返していた。対して、白い龍は毛並みを乱しながらも、その身を悠然と佇ませている。
一応の雌雄は決したらしい。
背後でコンテナが地面に落ちた。すぐ向こうには外へ出られるひしゃげたシャッター。
少し迷ったけど、おそるおそる白龍の元へ歩を進める。白い頭がこちらに向いた。
『悪竜の力に護られたと見えるな。幸運なことではないか』
「こうなったこと自体、不運だとは思うんだけど……ありがとう。来てくれて」
『誇り高き龍は契り事を違えんからな』
ふん、と鼻を鳴らして、前脚でたてがみを毛繕いする。
――白龍が来てくれなかったら、私はともかく、ジャバウォックの敵意を向けられた熊森さんは危なかったと思う。本当によかった。
「どうなってやがるんだ……?」
振り返ると、熊森さんは私のすぐ後ろにいた。ぽかんとした顔で白龍とジャバウォックを交互に見ている。
だらりと垂れ下がっている片腕が目に入った。
「あ、早く病院に――」
「それもそうだが、そうじゃねぇ! アンタこそ大丈夫なのか? この白いのは危なくねぇのか?」
戸惑ってはいるけど、少しばかりの心配も含まれている。だから真後ろに残っててくれたんだ。
『知人か?』
「えぇと……」
熊森さんと白龍、双方から質問が押し寄せて、どう答えようかと言葉を選んでいると。
『――グルル……』
ピクリ、と横たわるジャバウォックが動いた。一歩後ずさる私と、一歩前に出る熊森さん。
『気にするな。もう身を起こす気力もあるまい』
白龍の言葉の通り、邪竜は長い首を横たえたままだった。けど、赤黒い瞳だけが、じっとこちらを睨みつけている。
『さて、この大暴れのクソガキ。ユエはどう断ずる?』
「…………」
こちらを値踏みするように見据える白龍。
しばし考えて、ジャバウォックの頭に近付いた。ねじれたツノが生えている。
「あの……」
『黒竜の君』
しゃがれた声。サメのような牙の隙間から聞こえた。
『すまないね、キミの無念を晴らすどころか、こんなみっともない姿を』
「そんな――」
『だが、安心してくれ。キミに恐怖を与えた人間は、ボクが絶対に許さない……!』
グルル、と喉を震わせると、首と尻尾が持ちあがる。
「おい! 危ないぞアンタ!」
『ちっ。また性懲りもなく』
熊森さんと白龍が身構える。
けど――
「いいから話を聞きなさい!!」
ほとんど叫びだった。自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。
甲高い声の余韻が、凍った空間に漂う。
後ろの二人はおろか、ジャバウォックでさえ口をつぐんで、ただただこちらを見つめていた。
一呼吸おいて、言葉を発する。
「何度も何度も呼びかけてるのに、なんで私の話を聞いてくれないの? なんで私の主張を無視するの?」
『黒竜の君……?』
「あなたは一方的に友人だって言ってきたけど、相手の意見を無視して勝手な理想を押しつけるのは友人がすることじゃない」
『それは――』
「こんなに暴れて、熊森さんも大怪我して、あなたも白龍もボロボロで、結局なにがしたかったの? 全部あなたの自己満足じゃない!」
『あ――』
「私は誰も傷ついてほしくないし、あなたが誰かを傷つけるのも絶対にイヤ! でもあなたは約束を破った! 悪いことをしたのわかってる?」
もう止まらなかった。
一度堰を切って溢れだした言葉は、濁流のように流れ続ける。
今までの恐怖の反動なのか、ずっと理不尽な状況が続いていたことへの反発なのか。そのすべてが反転し、胃の奥が熱く感じるほどの怒りが沸いていた。
「怖いし、辛いし、もうこんなこと二度と起こってほしくない……もうイヤだよ……」
視界が歪む。
下を向くと涙がコンクリートに吸い込まれた。
――ああ、違う。泣きたいんじゃない。違うのに。
「ああ、泣かないで。悲しまないで、黒竜の君……」
いつの間にか、細身の男が立っていた。顔は見えないけど、両腕を所在なさげに動かしている。
「悲しいんじゃないの! 怒ってるの!」
情緒がくっちゃぐちゃ。自分の感情が制御できない。
「こ、黒竜の――」
「約束して! 二度と人を、誰かを傷つけないって!」
「しかし私は邪竜で――」
「そう! あなたは約束を破るし騙すし傷つける恐ろしい邪竜! そうやって私があなたを認識し続ければ、誰かを傷つける必要はないって言ってたじゃない! 嘘だったの!?」
「いや、本当だけど……」
「じゃあいいじゃない! 約束を破るあなただけど約束して!」
「もうめちゃくちゃだよ黒竜の君っ」
ジャバウォックがあたふたする。
自分でもなにを言ってるのかわからなくなってきた。
「……なんか、すげぇな」
『ユエのアレは我も覚えがあるな』
熊森さんと白龍の言葉が耳に入り、少しだけ冷静になれた。深呼吸一回。
「と、とにかく。もうこんなことしないで、なにかあったら私に話してほしい……です」
服の袖で涙を拭う。
言い切ったら言い切ったで恥ずかしさが勝ってきた。大声でわめくなんて、子供じゃないんだから。
遠くからサイレンの音が聞こえる。
はっ、と気付かされて、周りを見れば屋根も壁も崩れた廃倉庫。誰もいないとはいえ、管理している誰かはいるはず。
『貴様、結界も張らずにこの惨状を生み出したのか?』
白龍の叱咤がジャバウォックに向けられる。いつの間にか白い龍は小さくなって、私の肩にしがみついていた。
「仕方ないだろ、いろいろ急だったんだから……!」
負けじとジャバウォックも言い返すけど、どこか自信のなさを感じる。
「いったんずらかるぞ。見つかったらいろいろ面倒になる。アンタもそれでいいな?」
見かねた熊森さんが場をまとめた。私を見下ろして同意を求めてくる。
少し気が引けたけど、小さく首を縦に振る。
熊森さんの怪我も気がかりで、早く病院に向かった方がいいだろうし。
そんなとき――
「熊森さん!」
「大丈夫れしたか!」
こちらに駆け寄る二つの人影。片方は顔の腫れが引いていない。
「お前ら、ここから離れるぞ。急げ」
近付いてきた両名は熊森さんを見ると、月明かりの下でもはっきりわかるくらい顔色を変えた。
「なにがあったんスか!?」
「あ! れめぇはさっひの!」
ジャバウォックに気付いて声を上げるが、彼はそちらを気に掛ける気配はなかった。
少し間を置いて、熊森さんが口を開く。
「……あー、今はなんでもいい。さっさと行くぞ」
星の瞬く空の下、私たちは騒ぎが大きくなる前に、その場を後にした。