第十話『臆病娘とキュウジツの竜』
どうしよう。どうしよう。どうしよう……
この五文字の言葉を、いったい何度繰り返しただろうか。
正直に言えば逃げ出したい。なにもかもなかったことにして、布団にくるまって休日を過ごしたい。けど……それはできなかった。
あの日、ジャバウォックが告げた要求は――私と一対一の話し合いの場を設けること。白龍も同席不可。日付と待ち合わせの場所だけ決まった。どこに連れて行かれるのか、なにもわからない。わからないことは怖い。
得体のしれない、人じゃない男の隣を歩く……想像しただけで心臓が逆さになりそうだった。
まったく頭に入らないままノートに文字を連ねながら、何回目かわからない溜息をつく。
『今にも死にそうな顔だな。遺書を綴っているでもあるまいに』
机の端で、小さな手をもそもそと動かしている白龍が声を掛けてくる。
「なにかしてないと落ち着かなくて」
『なるほど、写経というものか』
どこがなるほどなのか。全然わからなかったけど、私はただ手を動かしていた。
三連休初日。
遅めの朝に、遅めの朝食。同じく休暇を過ごす両親には極力変に思われないように振る舞った……つもりだけど、どこまでいつも通りに過ごせていただろうか。
その後はすぐ自室に戻って学習机に座り、奏波に借りたノートの文字を書き続けていた。
少しでも日常と変わらないことをしていたい一心で。
けど悲しいことに――それもしばらくして終わってしまう。
――ジャバウォックとの話し合いは連休最終日。だから明後日。あと二日。ああ、どうしようどうしよう。
頭を抱えて机に突っ伏した。
『お前は一人になると急に騒がしくなるな』
呆れ半分の声に、顔だけそちらに向ける。
「……さっきからなにしてるの?」
『なに、ちょっとした小細工だ。しばし待つがいい』
細い背中の陰で見えないけど、白龍はずっとなにかを作っていた。時折しっぽの毛繕いをしながら。
「明後日どうしよう。話し合いで済むのかな……?」
『そこはお前次第だろうな……うむ、できたぞ』
白い龍は満足そうな声を上げて、私の手になにかを乗せた。
――これは……白いミサンガ?
『我のたてがみを編みこんだものだ。でぇと当日に持つがよい』
「え、なんで?」
『若造といえどあやつは竜。我が目の届く範囲にいれば気付かれるであろう。だが、これがあればユエの位置を遠方より捕捉できる』
「GPSみたい」
白く細い輪っか。手首か足首になら付けられるかな。
白龍なりの気遣いが、今はとてもホッとする。
「ありがとう。心強い……かも」
『そこは断言せぬか』
頭を振るう白龍。ふと、赤い二つの瞳が、静かな炎を湛えてこちらを見つめる。
『――もし、もしもだ。己の命が危機に瀕したときは、それを引き千切れ』
「えっ」
低い、真摯な声色。手に持った細いミサンガが、急にずしりと重くなった気がした。
『悪竜の魂を持つと言えど、お前は齢十数年の人間のおなご。竜の力もまともに扱えん。それが引き千切られる事態が起こったら、我は天より汝の元へ駆けつけよう』
「……うん、わかった。ありがとう」
力強い言葉。私もしっかりと首を縦に振る。
『ま、そうならないに越したことはないがな』
そう言って、ふいと横を向いてしまった。
白龍の後ろ盾が、こんなにも頼もしい。私も……こんなときばかりは名前通りに、勇気を持たないと。
――それがひいては先輩を、『我』の宝玉を守ることに繋がる。
固く決意を固め、ジャバウォック対策の考えをまとめようと、別のノートを開いた。
◆ ◆ ◆
自宅の最寄駅から数駅離れた繁華街。
都内へ向かうための乗り換え駅でもあるから、人通りもお店の数もこの近辺では一番の場所だ。
賑やかな人通りの一角――駅構内の柱の一つに、私はもたれかかっていた。
「…………」
落ち着かない。
まったく頭に入らないスマホのニュースをなぞりながら、これからのことを考えていた。
――とりあえず、相手の話をまず聞いてみる。聞いて、私にできることがあれば協力する。けど、私や周りに悪い影響があるのなら、白龍に協力を仰いでなんとかする。
白龍には渋い顔をされたけれど、現時点で私自身には危害を加えてこないこと、初めて出会ったときから一貫して対話を望んでいたこと。このあたりを鑑みて、さっきの決定になった。
――先輩を傷つけたことは絶対に許せないけど。
文句の一つも言いたくなるけど、それよりなにより恐怖が勝る。
白龍にもらったミサンガは、手首に付けて長袖の服で覆い隠した。服の上から、そのあたりに視線を落とす。
――いざとなったら……頼むからね。
「やあ、黒竜の君。待たせたかな?」
「ひっ」
気付けば傍らに、その男はいた。
びくりと肩を震わせて、一歩後ずさる。頭一つ大きい黒服の男が、口元だけに笑みを浮かべて見下ろしていた。
「そんなに怖がらなくても大丈夫なのに。信用ないなぁ」
残念そうに肩をすくめる。
――し、心臓が止まるかと思った。
さっきまでの決意があっさり揺らいだ。けど、ここで引くわけにはいかない。
「あの――」
「じゃあ、行こうか」
私の言葉を遮って、ジャバウォックは大股に歩きだして行った。
「えっ、どこに……っ」
「立ち話じゃなんだし、目星をつけた喫茶店があるから、そこでゆっくりしよう」
速足で男の背中を追い掛ける。
さっそくジャバウォックのペースに巻き込まれてしまい、もう先行きに不安しかなかった。
黒い痩身の男は、駅の横にある大手百貨店のエスカレーターを昇り、奥まった小さな喫茶店へ案内してくれた。店員さんに人数を伝え、四人席に向かい合わせで座る。他のお客さんは片手で数えるほどしかいない。
「これとか美味しそうじゃないかい?」
傍らのメニューを手に取り、こちらに向ける。
「いや……いいです」
今まさに胃がひっくり返りそうで、食事どころじゃなかった。卓に置かれた氷水のグラスにちびちびと口を付ける。
正面から目を合わせられない。
横目で伺うと、じっ……とこちらを凝視する二つの瞳に射すくめられた。肩を縮めてテーブルの木目を見る。
「――さっそくだけど本題に入ろうか」
ジャバウォックが口を開く。
「ボクの要望はたったひとつ。オレは、自身の存在を世界に認めてもらいたいんだ」
「世界に……?」
急な視野の広い話に、思わず眉根が寄る。
「そ。意味、通じてるかな?」
「……ごめんなさい、よくわからないです」
言葉に詰まり、うつむいた。
「そうだねぇ。なら、黒竜の君は人間として生まれてるけど、血のつながった人間はいるのかい?」
「えっ、血……? まあ。はい」
「それが親とか兄弟か、それとも子……はなさそうだね。子供はキミか。彼らは――キミを大事にしてくれている?」
私に兄弟はいないけど……
「――わからない……言われるまで、あまり考えたことなかったけど、たぶん……そうだと思う」
「ずいぶんと自信がなさそうだね」
ジャバウォックが体をわずかに傾げる。テーブルの下で脚を組んだのだろう。
こちらの返答を待っていた。もつれそうになる舌を動かし、なんとか言葉を続ける。
「わ、私は……得意なこともあまりないし、できないことの方が多いし、周りに置いていかれないようにするのが精一杯で……怒られたこともいっぱいあるし……」
「それで?」
「ええと、育ててくれた感謝はあるけど……それに見合うものを返せてないっていうか、今も竜とかわけわからないことになってるし、たぶんこれからも迷惑掛けるから――ずっと優しくしてくれるか、わからなくて……」
全然言葉がまとまらない。
一拍置いて、男が乾いた笑い声を出した。
「……キミは本当に大事にされてるんだね」
言葉の意図が掴めなくて、思わず顔を上げる。
そのとき、初めて真正面から相手の顔を見た。私を見ていた。けど、少し違う。私の後ろ……ひょっとしたらもっと遠くを見ているような。
いつもの張り付いた笑みだったけど、前髪に隠れがちの目元には別の感情が揺れているような――そんな気がした。
怪訝な顔をしていた私に、ジャバウォックは諭すような口調で話し始める。
「話をまとめると、キミはこの世界に存在を許されている」
「存在を、許される?」
「そう。人間すべてがそうとは言い切れないけど、少なくともキミは今日この日まで守られて、存在を肯定されて――生きてほしいと望まれている。それってすごいことだって気付いてる?」
言われて、数日前の光景が頭をよぎる。
病院で今にも泣きそうな顔をしていたお母さんと、汗だくで駆けつけてきてくれたお父さん。二人の顔を思い出していた。少しわかった気がする。
――私は、ずっと想われていたんだ。
水の入ったコップを包む指に力が入る。冷えた温度が指先に伝わった。
「今気付いた、って顔をしているね。まぁそれは別にかまわないんだ。本題じゃない。話が逸れちゃったけど、ボクが欲しいのは『それ』だよ」
「『それ』……?」
「そ。『居場所』って言い換えてもいいかな。物理的じゃなくて、精神的な方。いわば心の拠り所」
ジャバウォックが身を乗り出す。
「オレを認めてくれる相手。存在を肯定してくれる者。黒竜の格を持つキミに存在を許されたのなら、私は自我の安寧を得ることができる」
男の手が私の手首を掴んだ。体が固まる。
「ひぇ……ッ」
「だからね――」
深い黒の瞳。見ているだけで恐怖に駆られて逃げ出したくなる。
「――オレの友になってほしい」