第一話『臆病娘とドラゴンライフ』
怖い。
お化けが怖い。暗闇が怖い。事故が怖い。災害が怖い。悪意が怖い。敵意が怖い。人が怖い――
生きるのが怖い……けど、死ぬのだってきっと怖がるんだ。
私は、ずっとずっと怖がり続けるんだ。生き続ける限り。
その日見た最後の光景。きっと生涯忘れることのできない一瞬。
二つの光。バンパーの銀色。ナンバープレート――
私は大きく目を見開いた。
その後の記憶は……暗闇に落ちた。
◆ ◆ ◆
――夢を見ていた。
暗澹と佇む闇の中に、青白い苔の光が岩の境を浮き立たせる。岩石の隙間を縫うように抜ける風が、低い唸り声のように響いていた。
否。風の声に非ず。淡い光が艶やかに黒光りする鱗を映し出す。
闇を撹拌するように、ゆらりと、長い尾が揺れた。皮膜の張られた黒い羽も、今は静かに折りたたまれている。
そのときだ。
石と石とがぶつかり、崩れる音。同時に差し込む細い光。その微かな光明が、銀色に光る爪と、それに囲われるように積もった金銀宝玉を照らし出す。
――またか……と『我』は思考した。
それと同時に、岩の隙間からいくつかの影が滑り込んでくる。灯を持つ者。細い銀色を携えた者。糸を張った小枝に針を構えた者。
空を切る音とともに、数本の針が体に触れる。それはすべて鋼の鱗に阻まれ、あらぬ方向に飛散した。銀色が振りかざされたとき、ねじれた角と共にある頭をゆるりともたげる。
息を深く吸い、胸に熱が蓄積し、そして――吐きだした。
影のいくつかが青の炎に掻き消えた。辛うじて残った影が、光の隙間へ逃げ出していく。
忌々しげに尾を振るい、穿たれた穴の上部にあたる岩壁を叩きつける。轟音と共に岩が崩れ、今しがた差し込んだ光をあっという間に閉ざした。遅れた小石の転がる音。立ち込める砂煙が、空気の流れに溶けていく。
あとにはただ……静かな、静かな優しい暗闇が残った。
――ああ、これで再び静かに眠れる。
そう『我』は考え、頭を伏せ、目を閉じる。
再び、この静寂に身を沈めるために……
◆ ◆ ◆
目を開けた。
初めに見えたのは白い視界。徐々に輪郭がはっきりとし、それが天井であると気付いた。
――ここ、どこだろう……?
最初に思ったのはそれだった。
当たりを見まわそうとしたが、首が固定されている。代わりに視線を動かすと、白いシーツにベッド。カーテンに覆われて、まるで病室……いや、完全に病室だ。
――ええと、なにがあったんだっけ? 私は、そう、確か学校に行こうとしてて……
視線を別方向に向ける。ベッドの枕元には名前のプレートが差し込まれていた。
『凛堂勇絵 様』
その下には、血液型と入院日の月日。退院日の欄は空白だ。
手書きのマジックペンで書かれた自分の名は、ひどく仰々しく見えた。
勇絵……私の名前。臆病な私にはふさわしくない名前。勇ましくもなんともないのに……
名付けてくれた両親に対して負の感情は無いけれど、名前のようには生きられていないことに、わずかながら申し訳なさがある。
――そうだ、お母さんは……お父さんも……どうしたんだろう。
学校へ行く私を玄関先で見送ってくれたお母さん。私より少し先に慌ただしく玄関に姿を消したお父さん。そんな二人の顔を思い浮かべる。
腕を上げようとして、痛みが指先から肩まで突き抜けた。怪我の傷みだろうか。
どうやら相当な大怪我を負っているようだ。首の固定で視角が制限されているのもあり、自分の身に限ってよく見えない。
――こんな大怪我するの初めてじゃないかな。小さいころからあまり怪我はしない方だったし。怖がりだったから。
思い出を手繰り寄せるが、擦り傷がいくつかあったぐらいだ。臆病ゆえに、危ないものには極力近寄らないのが幸いしたのだろう。それにしても――
直近の記憶を思い出す。最後に見たのは確か……
そう、あれは……二つの光。バンパーの銀色。ナンバープレート。
「……あぁっ」
声が漏れた。かすれていた。喉が……乾いたなぁ。
あのとき、私は――
カーテンの向こうが騒がしくなった。引き戸が開く音に、パタパタとスリッパを滑らせる音が数人分。白い布が揺らぎ、薙ぎ払われる。
「勇絵!」
血相を変えたお母さんが息を切らせていた。ベッドの横に駆け寄ってしゃがみこむと、私の顔を見た。私も、お母さんを見た。
「おかあ、さん……?」
「勇絵……ああ、よかった、勇絵……!」
そのまま泣き崩れてしまった。普段気丈なお母さんの涙に、心にずしりと重いものを感じる。
――心配かけちゃったんだ、私。
気付けば看護師さんやお医者さんが、私の身の周りできびきびと動いていた。
「勇絵……っ!」
遅れて駆け込んでくるもう一人。額に脂汗を浮かべ、曲がったネクタイに構いもせず肩で息をする人物。
「お父さん……」
「よかった、よかった……生きてる」
気の抜けたように、その場にへなへなと座り込んでしまった。
――な、なんか大袈裟じゃない……?
必要以上に取り乱す両親に反して、私は少しだけ冷静になれた。
「ねえお母さん。私、たぶん車の事故に巻き込まれたんだよね……?」
力ない声から投げかけられる疑問に、二人は一度顔を見合わせた。言い辛そうにしつつも、お母さんが口を開く。
「……勇絵、あんたね、車にはねられたのよ」
ああ、やっぱり。
「それも四トントラックに」
ああ、やっぱ…………え?
「えっ」
ひやり、と。背筋に嫌な汗をかく。一瞬、言葉の意味を理解できず間の抜けた声が出る。
「四トン……トラック……?」
まるで初めて聞いた言葉を反復する子供のように、ぎこちなく単語を繰り返した。
「失礼。この後精密検査を行いますので、どうか今しばらくお待ちください」
落ち着いた口調で医師が告げ、私は瞬く間にストレッチャーに移動させられ、そのまま病室から運び出された。視線の端に、すごく物言いたげな両親の顔を焼き付けて……
◆ ◆ ◆
「全身の打ち身ですね」
いくつかの大仰な機械を通されたり測られたりしたあと、お医者さんはカルテを見ながらそう告げた。
再び病室のベッドに戻され、傍らには両親が丸イスに腰を下ろしていた。首の固定具が外され、幾分か身軽になった気がする。
時系列を整理するとこうだ。
高校の入学式から数日経った今日。電車通学にも慣れ始め、学校の最寄駅から徒歩で向かっていたときのこと。普段は車の通りも少ない道を無警戒で歩いていた私は、道路を横切ってきた四トントラックに撥ねられたのだ。
四トン……
言葉に出しても実物にしても、重みがあるのは間違いない。
もしかしてあまりスピードが出ていなかったのかもしれない、と思ったんだけど、どうやらそういうわけでもないみたい。それの証拠に、事故の衝撃で通学鞄は歩道を超えて民家の生垣に突き刺さり、制服はおろしたて虚しくボロ雑巾に見紛うばかりだった。
――ああ……私の高校新生活……
事故のショックもさることながら、高校生活の出だしで急に休んでしまって、クラスの人たちには変に思われないだろうか……私が休んでいる間にもう仲のいい友達とかが固まっちゃって、いざ学校に行っても誰とも話してもらえないんじゃ……そんな不安でいっぱいになった。
まぁ、人間の有象無象など、『我』には些事ではあるが。
――ん? 今、私、なにを……?
「本当に……本当になんともないんですか?」
不安を声に滲ませながら、お母さんは医師に尋ねる。改めて自分の身体を見たら、それはもう赤い痣青い痣……ということはなく、赤みを帯びた箇所がいくつかあるだけだった。動かすと痛みはあるけれど、まったく動かせないということはない。
お医者さんもカルテをペラペラと確認しながら、眉間に皺を寄せている。
「ええ、特に……全身の打ち身以外、外傷はありません。ただ、精密検査はしましたが、脳に関しては後日症状が現れる可能性もあるので、なにか体調の変化などがあったらすぐに病院にいらしてください」
「わ、わかりました」
「念のため一週間ほど入院してもらって様子を見ますので、ご両親は準備の方をお願いいたします」
「ええ、ありがとうございました」
そう言って両親は立ち上がると、お医者さんに対して深々と頭を下げた。医師も軽く会釈を返し、看護師ともども病室を後にする。
再びイスに腰を下ろしたお母さんが、深く、深く息をつく。
「はぁー……よかった。本当にびっくりしたのよ。トラックに撥ねられたなんて病院から連絡が入ったときは、お母さん心臓が止まっちゃうかと思ったわ」
「でも大事がなくてよかったよ。そういえば昔から体だけは頑丈だったもんな」
となりのお父さんも仕事鞄からハンカチを取り出し、額に浮いた汗をぬぐう。丸イスに腰かけようとして――途中で止める。
「あっ! お父さん会社戻るから、なんかあったら病院から連絡するんだぞ。お前のケータイ、事故で壊れてたからな」
そう言うやいなや、電話番号を書いたメモ帳を破ってベッドサイドに置き、ネクタイを整えながら足早に病室から出て行った。
バタバタと駆け出していくお父さんを見送ると、お母さんがゆったりと立ち上がる。
「じゃあ、お母さんも着替えとか持ってくるから。またあとで来るわね。家の電話番号はわかるわね?」
「あ、うん」
目線だけで母親を見送る。カーテンがそっと閉められて、ドアの開閉音を最後に、室内には静寂が訪れた。
ここ、個室だったんだなぁ。なんとなくそんなことを考えていた。
体を動かすのは……ちょっとまだムリかな。痛いや。
――それにしても、事故って一瞬のことなんだなぁ。当たり所が良かったのがまだ救いだけど……もし死んじゃってたら、怖いなぁ。
薄皮一枚隔てた死の存在を思い出し、唇を強めに引き結ぶ。
そうだ。一歩間違えればここにはいなかった。死ぬとどうなるのか、それがわからない。わからないものは、怖い。
いかに『我』とて死の向こうまでは如何ともしがたいな。
「……?」
疲労から閉じかけていた瞼が動きを止める。
――なんだろう。変な夢を見たからかな。もしかしたら、頭でも打ったのかもしれない。わからないや……
視界が黒色に染まり、私は意識を沈めていた。
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