9.闇
......星が一つ落ちた。
美しい尾を描いて遥か彼方、地平線の方へと吸い込まれていく流れ星を彼女は目で追う。
蒼い夜空に満月が控え目に輝く暮れ六つ時の幻想郷、博麗神社の桜吹雪舞う境内にて。
社の縁側に腰掛けて夜桜を眺めながら盃を片手に酒を呷る一人の紅白巫女の姿があった。
桜や夜空、月などの情景も相まって美少女の容姿がより一層映える。まるでその少女の存在そのものが幻想であるかのようだ。
ーー彼女の名は博麗 霊夢。
忘れられし者たちの楽園、幻想郷における結界守護や異変解決などの役割を担う調律者、“博麗の巫女”である。
彼女が護るのは幻想。その存在は、美しくて脆くて儚い。万一にも彼女が何者かに敗れる時は幻想もまた終わる時。故に彼女には生まれながらにして“無類の強さ”が備わっている。
「......なんだか嫌な予感がするわね。」
今日は珍しく誰も神社に転がり込んで来なかったので邪魔者がいないうちに、と一人で夜桜を肴に酒を呑んでいたのだが。
ふと微かに何か強大な力が何処かに現れたのを感じ取り、彼女は柄にもなく悪寒を覚えた。結界を破って侵入して来たのだろうか。
彼女の予感はいつも的中する。今までに起こった数々の異変の解決は全部彼女の直感力あってこそのものだ。
何かまた面倒な事が起こるぞ、と彼女は眉を寄せる。
その時、霊夢の頭上からひらひらと桜の花びらが盃の上に落ちて来た。酒の上に浮く花びらをじっと眺めてから霊夢は一つ、深いため息をついた。
ーー”美しい桜を見たければ博麗神社を訪れろ。“
昔からよく人里で言われる皮肉だ。
このような皮肉が里で言われるくらい博麗神社は幻想郷の中でも屈指の桜の名所なのだ。
そんな名所の桜を背景に酒を飲む紅白巫女からはどこか寂しげな雰囲気が感じられる。
「まあ異変を起こすような奴が出てきたら片っ端から退治するだけだけどね。」
そう呟いて霊夢は盃に残っていた酒を一気に流し込んだ。
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気がつくと、彼は暗闇の中に一人で立っていた。地面が少しぬかるんでいる気がするが暗くて何か判別することはできない。
どちらを向いてもまるで墨汁で染めてしまったかのように、黒、黒、黒。生命の存在すら感じさせない。
ーーここはどこだろう。何か霧がかかっているかのようにモヤモヤとしている頭で彼は思考を巡らせた。
ーーあぁ、そうだ。俺は死んだんだっけ。
幼馴染一人助けることができず、挙げ句の果てにはもう死んでしまおう、なんて諦めてしまった。
もう何も考えたくなくて、どうにかして頭を空っぽにしようと俯いていると。
???ー「......て。」
何処からともなく掠れた声が聞こえてくる。
???ー「.....す.....けて。」
「えっ?」
???ー「たす.....け....て。」
声は次第に鮮明になっていき、色々な方向から聞こえるようになってきた。
「助けて、助けて、助けて、助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて!」
「嫌だ、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」
「助けて助けて助けてたスけてたすケテタスケテェェェェェェェェ!!」
「痛いイたいイタイイタイイタイイタイィィィィィ!!」
やがて何かを懇願するような、苦痛を訴えるような悲鳴に変わった。
何なんだ一体。何が起こっているんだ。
これだけたくさんの悲鳴が聞こえてくるのに、周りは闇ばかりで影すら視認することができない。
次の瞬間。
沢山の白い手が彼の身体を掴もうと闇の中から伸びてきた。
「や、やめろっ!」
必死に抵抗するが、白い手はどんどん増えていく。ついに彼は体の自由を奪われてしまった。
「何なんだよ....こいつら.....」
恐怖に耐えるために無意識のうちに歯を食いしばり、握りこぶしをつくったその時。
彼は何か生暖かい液体状のものが自分の手にべったりと付着していることに気がついた。恐る恐る顔を近づけて手のひらを見てみると。
ーーそれは大量の鮮血だった。
「うわぁぁぁぁぁっ!!」
「ひゃん!!な、何ですかいきなり!?」
......え?
周囲を見回してみると先ほどの陰惨な光景とは打って変わって畳や木目の天井、襖などが視界に入ってきた。
ごく一般的な和室(?)の風景を見て自分の置かれている状況を悟り、胸をなでおろす。
ひどい悪夢だった。
それにしても。
ーー此処、何処ですか?
この落ち着いた雰囲気の和室で布団に寝かされていたようだ。
そんなことは見ればわかるのだが、どうしてこんな知らない場所にいるのかがよく分からない。
もちろん学院寮の自分の部屋であるはずがないし、少なくとも記憶の限りでは見たことのない部屋だ。
自分の身なりを確認してみたが、胸当てなどの防具の類は外されているものの服は学院の制服から変わっていないようだ。
何故、生きている?
俺は偽りの神の魔法を受けて死んだはずだ。
いや、もしかしたら此処は.....
........っていうか。
今俺の前で怯えつつこちらを凝視しているこの少女は誰だ?
ショートボブぐらいの長さに切り揃えられたふわっとした銀髪に黒いリボンを結っており、瞳は澄んだ青緑色。肌はまんま雪のように白い。
白シャツの上にこれまた青緑色のベストを着ており、胸元には黒い蝶ネクタイを着けている。身長はレンよりも頭ひとつ分くらい小さい。見た目から察するに歳はレンと同じ十五、六歳ぐらいだろうか。
可愛らしい容姿の女の子だが、それは置いておいてもう一度問おう。
ーーこの子、誰だ?
そしてここは一体何処なんだ?
「あ、あのぉ......大丈夫ですか?」
銀髪の少女が何故か少し申し訳なさそうな表情でこちらに問いかけてきた。
「あ...だ、大丈夫だよ。あの......ごめん、ここは一体......?」
「あっ.....貴方が目を覚ましたらお連れしろと主に仰せつかっていますので、取り敢えずお話はそちらで、という感じでもよろしいでしょうか?」
「わ、分かった。」
「では、ご案内いたします。」
少女はそう言って立ち上がると、障子を開けて縁側へ出て行った。レンもそれに付いていこうとして立ち上がろうとした時。
急な立ち眩みに襲われた。視界は目まぐるしく明滅し、鼓動は早鐘を打つように早くなり、遂には平衡感覚を失ってその場にしゃがみこむ。
「うっ......。」
「だ、大丈夫ですか!?」
レンの異変に気付いた銀髪の少女が駆け寄ってくる。
「意識が戻ってすぐに立つのは流石に無茶でしたね.....。何せ十日間以上意識が無い状態でしたし。もう少し安静にして、体調が落ち着いてからの方が.....」
「いや、大丈夫だよ。もう治まって来た。それよりも早く君の主の元へ案内してくれ。」
「そうは言われましても......」
「ほんとに大丈夫だから。さあ、案内してくれ。」
「......分かりました。こちらへ。」
再び部屋を出る少女の後に続く。
「お、おぉ.........。」
レンは縁側へ出て中庭の風景を見た瞬間、思わず息を漏らした。
よく手入れが行き届いているようだ。
青々とした低木たちは綺麗な丸型に刈り込まれており、敷き砂は流麗な線を描いている。これが枯山水という奴だろうか。
松の木が所々に植えられていて、庭の中心にある朱塗りの橋が架かった池では色鮮やかな錦鯉が悠々と泳いでいる。
そして、何よりも目を引くのが沢山の灯篭に照らされて厳かに佇む桜の木々である。どちらかと言えば白に近いような、淡い桃色の花弁を枝いっぱいに湛えている。
「綺麗な庭園だな.....。」
「ありがとうございます!この庭園は私がお手入れしているんです。」
「へぇ......こんなに広い庭園を一人でお手入れしてるの?」
「はい!一応全部一人でお手入れしています!えへへ、縦横二百由旬程の広さがあるんですよ。」
「に、二百由旬!?......ってどのくらい?」
「一由旬が約七〜八キロメートルくらいなので、大体千四百から千六百キロメートル....ですかね?」
「えぇ......?」
それ端から端まで歩いたら何日かかるんだろうか。
「大変だけど、庭のお手入れってすごく楽しいんですよ!例えばですね、あの低木は枝の先端の方が........」
少女は目をキラキラさせて庭について語り始めた。よっぽど好きなのだろう。話が止まらない。
感嘆の声を漏らしつつ庭を見回していると、結構遠くの方に一際幹が太くて大きな木を見つけた。その荘厳な佇まいからは相当な樹齢を重ねていることが窺えるが、不思議なことにその枝には花弁はおろか膨らんだ芽一つついていない。
「あの大きい木は?見た感じ枯れてるっぽいけど。」
「あれは“西行妖”という名の桜の木です。気が遠くなるくらい昔からあそこに根を張っていて、人の精気を吸収してあそこまで大きくなった妖怪桜なんだそうです。何だか物凄い力が封印されているらしくて、結構前に“春度”を集めてその封印を私のご主人様が解こうとしたんですけど、霊m........博麗の巫女がすっ飛んできて懲らしめられちゃいました......。」
「それはなんらかの理由があって封印されてるんだから解いちゃダメなやつでしょ......。」
「ですよね......。私もあの桜についてあまり詳しい事は知らないのですが、封印されているからか春になってもあれだけは花を咲かせないんですよ。」
「春になっても咲かない桜、か......。不思議なもんだなぁ。」
そう言ってまじまじと西行妖を見つめる。
確かに魔力と同じような類の力を帯びているようにも感じられる気がする。
「そういえば.....。」
「.....? 何でしょうか?」
「さっきから気になってたんだけど.......その辺を浮遊しているあの白くてふわふわした物体は何?」
レンはその白い物体を指差しながら問うた。よく見ると少女の周りにも一匹ふよふよと飛び回っているやつがいる。
「ああ、これですか。幽霊です。」
今この子さらっと凄いこと言った気がするんだが。
「......今なんて?」
「幽霊です。」
「え?」
「幽霊です。」
「ん?」
「幽霊ですっ!」
聞き間違いじゃなかった。
「幽々子様、客人の方をお連れしました。」
「あら妖夢ちゃんご苦労様。お客様をお通しして頂戴。」
一体どういうことだ、と聞き返す前に目的の場所に着いてしまったようだ。
「中にお入りください。」
少女が障子を開けて中に入るよう促すので部屋の中へ入った。
レンが通されたのはこれまたひときわ豪勢な内装の和室であった。
違い棚や綺麗な装飾の施された襖があり、床の間には見事な生け花と掛け軸が飾られている。
そして、そんな一室の奥に佇む女性の影があった。
美しい女性だ。
薄桃色の髪とは対照的に淡い空色の着物を着込んでおり、銀髪の少女と同じように肌が白い。見た目から察するにレンよりも少し歳は上だろう。
物腰の柔らかいお姉さん、といった印象だ。
「私に聞きたいことがたくさんあるのでしょう。一つ一つ私が出来る範囲で順を追って説明してあげるから取り敢えずここに座りなさいな。」
「じゃあ....失礼します。」
幽々子、と呼ばれていた女性が指差す座布団の上にレンは腰を下ろした。