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祝福のあかしとして人々がつくる祭壇への道を、エセルはゆっくりと、けれど迷いは持たずに進んでいった。
と、道の先、祭壇に近いあたりの人垣から、髪をふたつに編んだ少女がひょこんと頭をのぞかせた。新郎新婦を待ち切れずに、乗り出したらしい。まわりの大人たちが、あわててその子の身体をおさえて、自分たちのうしろにひっこめる。
エセルはほほえましく思ったが、その後ふっと別の思いを抱いた。
あの子の目に、わたしはどんなふうにうつっているのだろう。
あの子が見てもおかしくないくらい、ちゃんと花嫁らしく歩いているかしら。ちゃんと笑っているかしら。青ざめたり涙ぐんだりしていないかしら……。
していないはずだ、とエセルは考えた。まわりの来賓たちはみな喜んでくれていて、怪訝そうな顔はどこにも見当たらないし、コンラート様も満足気に堂々と歩いていらっしゃる。
大丈夫。わたしはしっかりやっているし、このあとだってしっかりやれる。
なぜなら、こうするのが誰のためにも一番いいということを、十分に承知しているのだから。
そう、どんなに考えても、これ以外に道はない。王家のためにもマリスタークのためにも、自分自身のためにも。そして、南の塔でかつて出会った、あの人のためにも。
褐色の髪とはしばみ色の瞳の彼を、ふいに思い出してさえ、エセルの心は平静さをたもっていた。
彼のことを、彼と過ごした日々のことを、完全に抹消できていたわけではない。そうしようと試みた時間もあったが、自力ではとても実現できそうになかったため、努力すること自体を早々にやめてしまった。
ただ、強い思いが向かう先を、別の方向に変えることならできた。
だから、いま祭壇への道を歩みながら、彼についてエセルが願うことは、たったひとつだけだった。
逃げてほしい。誰にもつかまらずに、無事に逃げおおせてほしい。
東の空からやってきたあの朝みたいに、天馬に乗って、どうか自由に飛んでいって。かろやかに城壁を越えたあの日みたいに、領地を飛び越え、国境を飛び越え、誰の手も届かない遠い場所まで行ってしまって。
そうして、もう二度とわたしの姿を見ないでほしい。ほかの人のもとに嫁いだ、わたしの姿を。
パイプオルガンの響きがわずかに途切れ、はなやかな調べから粛々とした調べへと、曲調が少し変化した。身廊をつらぬいている道もなかばを過ぎて、祭壇のある内陣が近づいてきたのだ。
エセルは、先導役の背中から、正面に迫ってきた内陣へと視線をうつした。
見上げれば、壁面上方ではステンドグラスの窓が燦然としたきらめきを放っている。
窓は巨大な円のかたちに造られ、中心から外枠に向けてのびた何本もの線が、円の内部を花びらのように分割している。花びらは、青を主体にした色ガラスでさらにこまかく区分けされて、晴天の光を吸い込みながら輝いていた。
一方、円窓の真下にあたる位置には、陽光ではなくろうそくの火影の中に浮かび上がる祭壇があった。
祭壇の前面をおおっているのは、この世界を球状に見立てて描いたタペストリー。壇上には、守護聖獣リンドドレイクの彫像。
守護聖獣の竜体に守られるかたちで、虹色の小さな炎が、かすかにふるえながら燃えている。
壇の周囲はろうそくで照らし出されているのだが、この炎だけは、ろうそくによるものではなかった。祭壇となっている切り石から直接燃え出している、魔法の灯火なのだ。
大地から上がってくる途中で石に宿ったのだと伝えられ、大聖堂の建立以来、今日までただの一度も消えることなく燃え続けているという。
こうした灯火をもっているのは、ここマリスタークの大聖堂だけではない。他所の大聖堂や、ときにはもう少し規模の小さい聖堂にも、古来から存在している。
どの灯火も、世界が聖なる魔法に満ちていることを人々に教えてくれる貴重な存在だ。
もちろん人々もこの灯を大切に受け継ぎ続け、敬意をこめて聖火という言葉で呼んでいた。そして、その聖火が石にとどまるのではなく、浄化のために外に飛び出してくるときは、区別をつけて別の名前でこう呼んだ。
魔法の炎──魔法炎と。
エセルシータ姫はまばたきをした。瞳は前方の祭壇をみつめたままだったが、気持ちが急激に離れていこうとしていた。
ちがう。ふいに、叫び出したいような強さで彼女は思った。わたしが心を奪われたのは、祭壇なんかにおさまって守られている炎じゃない。
炎はいつだって、ひとふりの剣とともにあった。剣身の中でじっと時を待ち、いったん外に噴き出せば、それ自体が聖獣であるかのような激しさで魔物にぶつかっていった。
あのときも──小雪が舞い散るあのときも、空を飛びまわる魔物を追いかけ、白銀の奔流となって、何度も何度も剣の先から噴き出した。
あんなに剣を振り続けたら、持ち手の命が尽きてしまう。わたしは思わず走り寄り、上を見上げて我慢できずに名前を呼んだ。
ラキス……!
いつのまにか足を止めていることに、エセルは自分では気がつかなかった。かたわらで、低く落ち着いた男の声がささやいた。
「姫様」
エセルは、見下ろしてくる漆黒の瞳をふしぎな気持ちでみつめ返した。心を小雪の中の荒れ地に残したままだったので、となりにいる男性のことがすぐには思い出せなかったのだ。すると男性は、そっと彼女の手をとった。
──参りましょう。
視線だけで、彼が言葉を伝えてくる。さからわずに手をあずけながら、エセルも声を出さずに答えた。
──はい。
近くにいた来賓たちは、花嫁が急に立ち止まったことに一瞬とまどったが、花婿のエスコートが適切だったことには、ほっとした。
人形のような従順さで歩みを再開しながら、エセルは胸の中で呟いていた。
大丈夫。コンラート様なら、わたしがしっかりやれないときでも、ちゃんとみちびいていってくださる。
コンラート様なら、考えてはいけない様々なことを、きっと忘れさせてくださる。大丈夫。
誰かが咳をしている音が、堂内の調和をかすかに乱した。人垣の後ろのほうにいる来賓のひとりが、咳を止めようと苦労している。聖堂というのは、少しの音でも異様に大きく響く場所なので、咳が長引かなかったのは幸いだった。
ただ別の来賓は、オルガンの音が先ほどからわずかにひっかかっているような気がして、なんとなく落ち着かないものを感じていた。
少しの間違いでも目立つ場所なのだ。しかし、自分の耳のほうがまちがっているのかもしれない。
別の来賓は、花婿がずっと花嫁の手をとり続けているのを、興味深い目でみつめていた。下町ならともかく、貴族の婚礼ではあまり見かけない光景だったからだ。
もちろん花婿が、年若い花嫁をとても大事に思っている証拠なのだろう。
来賓たちは誰も知らない。花婿のその手が、ほんのひと月ほど前の森の中では、あざやかな血に濡れていたことを。
堂内にいる人々は、誰ひとりとして知らない。花婿の片手だけでなく両の手が、血にまみれきっていたことを。
新郎新婦は歩みをすすめ、人々がつくった祭壇への道が終わるところにまでたどりついていた。そこは貴賓席の最前列にあたる位置であり、女王陛下とふたりの姫君たちが、祝福のまなざしで彼らのことを迎えていた。
アデライーダ女王、それにリデル姫やセレナ姫が、月光のような姿の花嫁に、ほかの貴族たちとはちがう特別な感慨を抱いていたのは、まちがいなかった。
だが、そんな彼女たちでさえ、やはり知らないのだった。花嫁と肩を並べている男が、森の中で高らかに笑っていたことを。
祭壇の横では、何ひとつ疑念を抱いていない司教が、加護の儀に引き続く貴い典礼をとりおこなうために、新郎新婦を待ち受けていた。
司教と彼らは、祭壇の手前、来賓たちから見ると聖火をはさむような位置に立って対面した。
オルガンの音は鳴りやんでいる。新郎はすでに新婦の手を離している。
司教の荘重な声が、婚姻の誓いをたてるための一番最初の質問を、しきたりどおりに投げかける。
「コンラート・オルマンドにまちがいございませんね」
答える声には、抑えきれない喜びがにじんでいるようだった。
「はい。まちがいございません」
「エセルシータ・ルノーク・レントリンディアにまちがいございませんね」
「はい。まちがいございません」
「では、これより創星の神の御前で、おふたりの誓約の儀を……」
と、そのとき突然、予定外の声が司教の言葉を妨げた。生まれてちょうどひと月になる赤ん坊の、高い泣き声だった。
これには誰もがぎょっとした。加護の儀を終えたばかりの赤ん坊が泣かないものであるというのは、ごく一般的な常識だったからだ。
恵みの光がよほど心地いいらしく、儀式があった当日はずっとご機嫌なのがあたりまえとなっていて、泣いたりぐずったりする赤子は見かけない。だからこそ、乳児を証人にするなどというしきたりが、長く受け入れられている。
赤ん坊を抱いていた仕立て屋夫婦が、必死になって子どもをあやしはじめた。夫婦は、加護の儀のあと北側に寄せられた聖水盤のそばに立っていたのだが、こんなふうに注目を浴びるとは思ってもいなかった。赤子をつれて外に出なければいけないだろうか。
だが夫婦の努力はすぐに実を結び、幸いにも赤ん坊はあっというまに泣きやんだ。
儀式の中断はほんのわずかな時間にすぎず、気を取り直した司教が、少し肩の力を抜いたような口調で語りはじめた。
「今日の佳き日は、我が国にとっても忘れられない記念の祝日にあたります。アデライーダ女王陛下とエルランス殿下が神の御前で愛をお誓いになった、すばらしき祝福の日であるのですから」
思わぬ泣き声に緊張した面持ちだった一同は、皆ほっとしたように大きくうなずいた。司教もかすかにうなずいて続けた。
「その同じ日を、ご息女であらせられるエセルシータ様とマリスターク伯爵のご子息コンラート様は、ご婚礼の日として選ばれました。いまは亡きエルランス殿下も、どんなにかお喜びでありましょう。加護の儀を無事に終えた証人を得まして、それではこれより、おふたりの誓約の儀を……」
「証人はいない」
司教の言葉を妨げる声が、ふたたび響いた。今度の声は、内陣でも身廊でもなく天井にあり、驚くほどはっきりと堂内に反響した。
「証人になるはずだった赤子は、泣き声をもって役目を拒否した。よって──」
次の瞬間、複数の悲鳴が上がった。悲鳴は、加護の窓辺の歩廊から夢中になって儀式を見ていた助祭と、窓のほうを偶然見上げた来賓たちのものだった。
直後、窓辺から、大きな黒い塊がいきなり落下してきた。
人々は避けることもできずに突っ立っていたが、塊は床に激突する寸前にはね上がり、祭壇の方角に向かって突っ込んだ。
鳥のはばたきにも似た音を響かせながら、新郎新婦にぶつかったかと思うと、たちまち今度は、壁近くにおかれた台座の上の天蓋めがけて飛び上がった。天蓋に着地したところで、動きを止めた。
それでようやく人々の目にも、塊だったものの正体が確認できるようになった。
黒々と大きな魔性の翼を背中に生やした、凶悪なる侵入者。その片腕は、婚礼衣装に包まれた花嫁の腰をがっしりと自分に引き寄せ、抱えている。
侵入者は、はしばみ色の瞳で平然と堂内を見まわし、人々の顔を見下ろした。そして、さめた口調で言い捨てた。
「よって、婚儀はこれにて打ち切りだ」




