39(クリセダ)
夜そのものを煮詰めたように闇の深まる場所があれば、夜が更けるほど明るさを増す場所もある。晩課の鐘が鳴り響いても買い物客が途切れない、クリセダの町の職人通りは、そんな場所の典型だった。
黒ずんだ木組みと白っぽい漆喰壁の二階家が、両側にひしめきあった細い道。どの家も二階が住居、一階が店舗兼工房になっていて、通りに面した大きな窓から露台を突き出し、そこに商品を陳列している。
靴屋は靴を、鍋屋は鍋を、文具屋は鵞ペンやインクを。各店の軒先にいくつも吊られたランタンが、商品のみならず道全体を明るく照らす、まぶしい常夜灯だ。
昼間とは質のちがう光の中を歩いていたレマは、女性向けの雑貨を並べた露台の前で、ふと足をとめた。着色された小さな木彫りの人形に、目を引かれたのだ。
髪飾りや櫛、小ぶりの食器やスプーンなどがところ狭しと置かれた中に、薄羽をつけたエルフの人形が混じっている。実物よりも大きめだったが、鶏卵のような卵にもたれてすわる姿が、なかなか愛らしい。
買っちゃおうかしら……? 若い女性らしい感覚で、レマはそう考えた。薄汚れた路地裏界隈を、薄汚れた格好で一日中歩きまわっていたのだ。かわいいものを見て、少しは癒されたい気分だった。
彼女はいま、肩の上で切りそろえた少し癖のある黒髪を、地味な色のフードですっぽり覆っている。神秘的と評される薄い菫色の瞳も、フードのつくる影の下だ。
長身だが優美さのある身体つきも、足首までの冴えないマントにかくれて、いまは見えない。マントは無論、腰に佩いた愛用の剣もかくしていた。
マリスターク領主館で護衛兵だったレマが、クリセダの町に移動してから、今日で三日になる。なぜ移動したかといえば、ディークリートとともに次期伯爵についての聞き込みをすすめていたとき、クリセダという地名が出てきたからだ。
どうやらコンラートは、二年ほど前にこの地を訪れたことがあるらしい。そしてもしかすると、それが彼の素行に深く関係しているかもしれない。きちんと確かめるには、やはり現地に行くしかないだろう──。
話し合った結果、領主館にはディーが残ってコンラートの監視を続け、レマは衛兵を辞めたうえでクリセダに移り、別の仕事仲間の力を借りながら調査する、という分担になった。
だが分担しても、結局調査がはかどらず、婚礼にはまったく間に合わなかったわけなのだが──。
「それはお買い得だよ、別嬪さん」
店の奥で木切れを彫っていた職人が、客に気づいて声をかけてきた。職人たちはどこの店でも、作業しながらすばやく売り子に早変わりする。
レマは、別嬪さんと呼ばれるにふさわしい微笑だけを返すと、雑貨屋の店先から離れた。さすがに、趣味の小物を買っている場合ではないことを思い出したのだった。
昨日おこなわれるはずだった第三王女の婚礼が、誓いを立てる前に中止されたことを、レマはすでに知っていた。夕暮れ時に、旅人ふたりが声高にしゃべっていた噂話を聞きつけたのだ。
マリスタークで起きた出来事が、人の口から口へと伝わって、たった一日半ほどでクリセダまで到着したらしい。
それによると、大聖堂に暴漢が乱入して挙式を荒らしまわったうえ、姫君をさらって逃亡したのだという。
なんと恐ろしい事件だろうと旅人の片方がふるえあがり、まさか本当の話ではないだろうと、もう片方が唸っていた。また聞きの噂話など、いい加減な内容が多いからだ。
だが今回に限って、レマは疑わなかった。大聖堂に入り込んだラキスが──銀鱗を素肌に刻んだもと勇者様が──婚儀を阻止したのだと、正しく察した。
ディーが予想していた通りだ。絶対に姫を救いに来るはずだから、警備を少しでも薄くできるかどうかやってみると言っていた……ただ、姫をさらうとまでは予想していなかった気がするが。
ラキスは今頃どうしているだろう。レマは足早に歩きながら、そう考えた。
ディーにはちゃんと会えただろうか。お姫様を連れて逃げ切れるとは思えないから、もう捕らえられてしまったかもしれない。
ひどい扱いを受けていないといいけれど──。
行きかう買い物客たちの間を抜けて、彼女は四辻まですすむと、そこで立ち止まった。協力してくれている仕事仲間と、このあたりで待ち合わせていたのだ。
まだ来ていないかとあたりを見まわしたとき、路地などないように見えた細い隙間の道から、一組の男女がひょいと姿を現わした。仕事仲間のアレイとグリンナだった。
ふたりともレマと同じようなマントとフードをまとい、くたびれた単なる旅人を装っている。とにかく目立ちたくないというのが、三人共通の考えだった。
「レマ!」
こちらを向いたグリンナが、うれしげに片手をあげながら近づいてきた。目立ちたくないと言いつつ、自慢にしている栗色の巻き毛がフードからこぼれて、はなやかな雰囲気がある。
「それらしいとこ、みつけたわ。今度こそ当たりかも」
「三十二丁目?」
「ううん。えっと」
「三十五丁目の猫小路」
そう答えたのは、となりにいるアレイだった。赤毛の若者はいつものごとく、陽気で気楽そうな提案をしてきた。
「でさ、そっちに行く前に寄り道してかない?」
レマは眉を寄せて彼を見た。
「夕飯ならとっくに食べたでしょ」
「いや、ちょっと先にある居酒屋の前で呼び売りやってるんだ。すごく出来のよさそうな葡萄酒で……」
「……すでに飲んだわね?」
緊張感のない男女は、あわてて弁明しようとした。
「ちゃ、ちゃんと働いてるわよ」
「そうだよ、だから猫小路もみつけたんじゃないか」
「偶然?」
「そう、呼び売りを追っていったら偶然……じゃなくて!」
いささか騒々しくなりかけたそのとき、辻の端にたむろしていた別の集団の間から、さらに騒々しい声が上がった。
「そんなの聞いてないぜ。ただの暴漢かと思ってた」
「黒い翼ってことは半魔か。出まかせじゃないだろうな」
通りすがりの買い物客たちが、商人風の中年男をかこんで口々に騒いでいる。人々を見まわしながら、中年男が興奮したように説明していた。
「出まかせなものか。マリスタークの町民たちが、みんな目撃してるらしいぞ。こうもりみたいな翼をつけた若い男が、エセル姫を抱えて飛んでるところをな」
「こうもり……はっきり言えよ、魔物だって」
中年男は大きくうなずいて続けた。
「姫様はぴくりとも動けず、ぶらさげられるままになってたそうだ。お気の毒に、どんなにこわかったことか」
レマたち三人は思わず顔を見合わせた。グリンナが目を見張りながら呟く。
「翼って……暴漢はラキスじゃないのかしら?」
同じく驚きながら、アレイも呟いた。
「それとも奴に翼が生えた? 案外そういう種族だったとか……」
二人が同時にレマを見たが、レマもすぐには答えられなかった。
銀鱗だけでなく途中から有翼になる──そういう可能性もあるのだろうか。
街角には、いつのまにか人だかりができていた。
半魔の野郎、姫様をさらうなんて許せねえ。誰かがそんなふうに叫び、いくつもの同意の声があがりはじめる。
唇を軽く噛みながら、レマは半ばひとり言のように呟いた。
「姫様は抵抗していない……相手がラキスだからかもしれないけど、よくわからないわね」
マント姿の三人はうなずきあうと、辻を離れて足を速めた。何にしても、悠長にしている暇はなさそうだった。




