21
「リド、いつのまに……」
その名前を口にするのは、ひどくひさしぶりのような気がした。マリスターク城の庭園にリドがあらわれ、またたくまに消え去ってしまって以来の再会だ。
エセルは思わず背後を振り返り、樹上にいる若者の反応を確かめた。目を見開いて天馬をみつめる彼の表情が、薄闇の中でも見てとれる。彼にとっても、やはり久々の再会であるにちがいない。
だが、ラキスは愛馬に声をかけようとはせず、大木の枝から動く様子も見せなかった。天馬のほうも同様で、樹上にはなんの興味も抱いていないかのように、エセルだけに静かな視線を向けている。
エセルは一瞬当惑したが、行動を起こせないほどとまどったわけではなかった。足早に天馬に近づきながら、切羽詰まった声を投げかけた。
「わたしを乗せて、リド」
乗り手であるはずの若者に遠慮するような心の余裕は、どこにもなかった。リドが嫌がるかもしれないとは思ったが、そんな心配も不要だったらしい。大きな片翼が、声に応えてあっさり差しのべられてきたのだから。
天馬の背中にたどりつくと、姫君はためらわずに足をひろげて両翼の手前部分にまたがった。うつ伏せに近い位置まで上半身をかたむけ、リドのあたたかな首を両手でしっかり抱え込む。
乗馬にしてはずいぶん不自然な姿勢になるが、仕方ない。鞍も手綱もつけない裸馬を、ラキスのように楽々と乗りこなせるはずがないのだ。
ふさふさしたたてがみに頬を押しつけると、エセルは天馬に身をまかせながら目を閉じた。力強い翼の動きとともに、ぐんと身体が持ち上がる。
全身がななめに傾いだが、水平な状態に戻るのはあっというまだった。案外地面に近い場所を飛んでいるのだろう。
鳥たちがはばたき上がるときにくらべると、天馬の翼の動きは、はるかにゆったりしている。聖獣しか持ち得ないふしぎな浮力が働いて、それが乗る人の側にまで及んでいるような気がした。
婚礼衣装の広い裾が風に乱れるのを感じたが、エセルは目を閉じたまま動かずにいた。目を開けたら、振り向いて樹上の若者を確認してしまうとわかっていたからだ。
一番最初にリドに乗ったときのことが、嫌でも脳裏によみがえってくる。彼女の後ろで揺るぎなく支えていてくれたのは、はしばみ色の瞳の彼だった。二回目は、その彼を追いかけるために王城の窓辺から飛び出した。
そして三回目のいまは、彼から離れていくために、こうしてたったひとりで飛翔している──。
「マリスターク城まで行ってほしいの」
散歩を楽しむようにのんびりとした聖獣に、エセルは声を少し強くして頼んだ。
「少しでも早くお母様のところに戻りたいの。お話することがたくさんあるのよ」
目を閉じたまま、相手の反応を気にもせずに言い続ける。
「速く飛んで、リド。お願い、できるだけ速く──」
だが、次の瞬間、エセルは自分が言い過ぎたことに気がついた。聖獣はたしかに気楽な態度を改めたが、その改めかたは想像もしていないものだったのだ。
かつて感じたこともないほど異質な、何かの力が加わったと思った直後、周囲を取り巻く大気が一変した。視界一面が変化して、夕暮れの薄闇の向こうから、まったく別のあらたな闇がせり出してくる。
その感覚をどう表現すればいいのかわからない。ただ聖獣が大気の幕を押し開けて、乗り手ごと異空間に入り込もうとしているのだけは、本能的に察することができた。
恐怖のあまりエセルは悲鳴を上げた。思わず天馬の首から両手を離して、変化から逃れようとする。
だが動いたとたんに腰がすべり、バランスが大きく崩れた。小柄な身体が、一瞬のうちに聖獣の背中から投げ出される。純白の裾の布地が、視界いっぱいにひろがるのが見えた。
全身の血液が逆流していく体感とともに、意識が遠のく。姫君は空中であっけなく失神しかけたが──。
地面に激突するという最悪の瞬間は訪れなかった。落下地点に走り込んできて、彼女を受けとめることに成功した人物がいたのである。
「間一髪!」
開放的な声を響かせたのは、淡茶の髪と藍色の瞳の護衛兵だった。
彼は騎乗していたが、馬上で平然と姫の身体を抱え直しながら、今度は空を仰いでこう叫んだ。
「こら、リド! いきなり<星の道>に入ったりするな。誰だって驚くに決まってるだろ?」
上空から下を気にしていた天馬は、反省したのかこそこそと──そのように見えた──向きを変えた。そして空中の穴に頭を突っ込み、例によって溶け込むように消えていってしまった。
エセルは呆然としていた。叩きつけられるはずだった身体は、馬に横座りにさせられた姿勢で安定し、怪我ひとつ負っていない。
後ろには護衛兵がまたがって、片腕で彼女をしっかり支えながら、もう片方で手綱を操り馬を進めている。
「大丈夫ですか? 姫様」
「……ええ……」
「申し訳ありませんが、ちょっと飛ばしますよ。暗くなってしまうので」
ショックと安堵の両方で頭がぼうっとしていたため、エセルは返事もろくにしないまま、振動に身をまかせていた。
そして、暗がりの向こうに集落のかすかな灯りが見えたとき、ようやくはっと我に返った。あのあたりはジンクたちの民家が集まっている場所のはずだ。
「止まって! あちらには行かないで」
我に返ったとたんに攻撃的な口調になったのは、いたしかたないことだった。
「あなた、マリスタークの追手ね。ラキスを捕まえに来たんでしょう。ジンクさんたちも」
いきなり馬上でもがいた姫君を、衛兵が驚いたように押さえつけた。
「捕まえる気はありませんよ。わたしはただ姫様を保護したいだけで」
「馬止めでは保護しなかったくせに、いい加減なこと言わないで」
「あれはたしかにまずかった。つい頭に血が昇って……暴れないでください! 天馬じゃなくても落ちたら大怪我ですよ」
「離してよ。あなたの手は借りないわ」
墜落を食い止めたときより、よほど多くの労力を使って、衛兵は怒っている姫君をどうにか地面に着地させた。そして辟易したようにたずねた。
「どうして嫌がるんです。わたしのこと、少しはラキスから聞いてらっしゃるでしょう?」
「聞いてないわ」
「全然?」
「全然、一切、まったくよ」
「あの馬鹿……」
エセルの声がますます尖った。
「誰が馬鹿ですって? ほんとに失礼な人ね」
エセルにとって、この衛兵は完全に敵として認識されていた。
マリスターク領主館の庭園では、問答無用でラキスを捕らえようとした。今日の馬止めでは、捕えるどころか浄化の炎を迷いもせずに放ってきた。どこをどう見ても敵としか思えない。
だが、そういえばラキスはこの男と知り合いのようなそぶりだった気がする。たしか名前を呼んでいた。それに……。
「どうしてリドを知っているの?」
いきなりエセルが叫んだので、彼はふたたび驚いたように目をみはった。
「唐突ですね……昔馴染みだからですよ、コルカムにいたときからの」
「え……」
「ちなみに乗ったこともありますよ。ラキスと二人乗りでしたけどね。<星の道>に連れ込まれたときは、腰が抜けるかと思いました」
「………」
二の句が継げなくなって、エセル姫は黙りこんだ。衛兵はそんな彼女をみつめていたが、ふと思いついたように持っていた手綱を上げて、近くの樹木にそれを結びつけた。
それから姫を振り返り、軽い笑みをうかべながらこう言った。
「少し話をしましょうか。わたしのほうでも姫様にうかがいたいことがあるんです」




