20
エセルは、薄暮の中でもそれとわかるほどに青ざめた。
そんな彼女の表情を、ラキスはじっとみつめていたが、ふいに肩を揺らすとかわいた笑い声をたてた。
「おれはいったい何をやってるんだろうな」
自嘲ぎみの口調になって続ける。
「召喚なんかしている場合じゃなかったのに。いま斬らなければいけない相手は……斬りたいと思っている相手は人間なのに、肝心の剣を役に立たない代物に変えちまうなんて」
言っている意味がわからなかったので、エセルは声を返さずにいた。すると彼は、少し意外そうに眉を上げて、こうたずねた。
「もしかして、魔法剣で人が斬れると思ってる?」
「え……斬れないの?」
答えるかわりに、彼は腰の鞘に手をやると剣の柄を軽く握った。仕上がったばかりの剣を引き上げて、エセルの前にかざしてみせる。
魔法剣は、全体がほのかな光に包み込まれているように見えた。根元から剣先までまっすぐ通った炎の芯は、はかなげなほどかぼそいが、その細い輝きが透明な剣身に映っているのだ。
かつて王城の中庭で──あのおだやかな陽だまりの中で──幾度か剣を見せてもらったことがある。
そのときも美しいと思ったが、夕闇の迫るこんな時間に眺めてみると、ただ美しいというだけではない、神秘的な何かの力を感じとらずにはいられなかった。
「魔法剣っていうのは、魔性にしか反応しないんだ」
彼女と同じように剣の光に見入りながら、ラキスが言った。
「できるのは、魔物を浄化することだけ。人や動物を斬ることはできないんだよ。おれがインキュバスと闘っているところ、エセルも見てただろう?」
「ええ」
「剣がリドの身体を通り抜けていたのに、気づかなかった?」
エセルは瞳を見開いた。浄化の炎がひろげた翼を突き抜けているのはわかったが、剣まで突き抜けるとは思っていなかったのだ。
でも、たしかに普通の剣であれば、魔物を斬る前に翼を斬ってしまいかねない。通り抜けるからこそ、上空でもあれほど自由に剣を振りまわしていられたのだろう。
「覚えてるかな。以前おれが、聖獣と魔物とどこがちがうんだって、エセルに突っかかったことがあったけど……」
ずいぶん昔のことを思い出すような調子で、ラキスが言った。
エセルはうなずいた。もちろんよく覚えている。
一面に降りつもった雪が、青空の下できらめいている朝だった。純白の中庭に翼をのばして立つリドを、ふたり並んで回廊から眺めた。
それは美しさと同時に切ない痛みをともなう記憶として、エセルの胸にずっと残り続けている。
「あのときはなんだかいらいらしてて、わざとあんな言い方をした。でも……炎で浄化される魔物と聖獣とはちがう。本当は全然ちがうんだ」
エセルは、目の前でちらちらとまたたいている虹色の芯を、ふたたびみつめた。それから、おそるおそる手をのばして、その長い剣身に指先を触れてみた。
両刃の剣の中央を樋が走っている形状は、普通の長剣とまったく同じもののように見える。なめらかでかたい感触も、ごくあたりまえの鋼のものだ。
これがリドの身体を通り抜けていくなんて……。
あまりにもふしぎだったので、エセルはあどけない少女のような表情になって、小首をかしげた。
ラキスは、引き込まれるようにその顔をみつめたが、すぐに視線をそらすと、こう言った。
「手……かしてみて」
下におろしかけていた姫君の右手に、自分の左手を添えると、こわれものにさわるような動作で持ち上げる。
そして、片側の手に握っていた剣を動かし、刃の部分を彼女の手に向けて近づけた。
エセルは思わず手をひっこめようとしたが、彼が指先を軽く握っていたので、さからえなかった。はぐれ剣士が静かな声で言った。
「大丈夫。動かないで──」
よく研がれて、いかにも切れそうに見える刃が、ゆっくりと姫の右手に押し当てられていく。
いや、押し当てたわけではない。まるでやわらかな雪に入っていくように、姫の手の中に沈んでいく。
剣士が動きを止めると、刃の動きも止まった。魔法の剣が、彼女の手を突き通したかたちになった。
エセルが息を呑んで呟いた。
「うそみたい……」
そんな子どもっぽい言葉しか出てこない。ひとかけらの痛みも感じていないのに、たしかに刺し貫かれているのだ。
どんな感じ?と、彼女の手を支えたままでラキスがたずねた。エセルが呆然とした声で答えた。
「何も感じないわ。何かがさわっていることさえ……。でも、そうね──ほんの少しだけ、あたたかくてやさしい感じ……」
彼女の返答を、ラキスはどこかまぶしそうな表情をうかべて聞いていた。それから、ひとりごとのようにこう呟いてほほえんだ。
「あんたは本当に……生粋なんだな」
なんともいえず、さびしげな微笑だった。
それから、ふと思いついたように言葉をついだ。
「炎の使い手たちは、こういうことができないんだ」
「……そうなの?」
「気持ちがいいとは思えないらしい。魔物狩りで瘴気を浴び過ぎているせいで、不快に感じるんだと言われてる。もっとも」
肩をすくめると、急にさばさばした口調に切り替わって、
「おれなんかがこれをやったら、不快どころかあっというまに浄化されちまうだろうけどね」
「そんなこと」
「前からあぶないとは思ってたが、こんな姿になったいまでは決定的だな。ついでに、あんたとの違いも決定的だ」
ラキスは、気分を変えるようにひょいと剣を振って、無造作に姫君の手から遠ざけた。
腰の鞘にそれをおさめ、エセルから数歩離れて、現実的な問題に戻ろうとした。
「さて、そろそろ帰ろうか。日が落ちきったら本当に歩けなくなっちまう。幸い食事は出してもらえるみたいだから、早くジンクの家に行って夕食を──」
エセルは聞いていなかった。彼の背中に歩み寄り、閉じられた黒い両翼をみつめると、片方の翼のはしにそっと手をかけた。
ラキスの声が途切れたのは、そのことに気づいたためらしい。息をついて話を進めようとしたが、言葉はふたたび揺れて途切れた。
「夕食を……とって……」
エセルは、翼と翼にはさみこまれるようにして、彼の真後ろの位置に立っていた。両手で顔をおおいながら、彼の背中に自分の頭を押しつけて、ふるえる声でささやいた
「さらっていってくれないの……?」
「………」
「あなたがどんな姿でも、わたし、かまわない。あなたが連れていってくれる場所なら、どんなところでもわたし……わたし──」
ラキスは唇をかみしめてうつむいたまま、返事をせずに立ちつくしていた。
下におろした両手のこぶしを、白くなるほど強く握りしめていたが、それでも振り向こうとはしなかった。
だが、やがて彼は腕の力を抜いた。何かを振り切るように彼女のほうに向き直り、きゃしゃな肩に両手をおく。
そして、小さな子どもに言いきかせるような口調で、やさしく話しかけた。
「馬鹿だなあ……相手のことをよく見ろよ。住む世界がちがうだろ?」
こんなふうにさ、と、軽い調子の声が続けた。
エセルがはっとしたとき、彼は飛膜の翼をはばたかせて、暗い上空に舞い上がっていた。
草地に立つ大きな老木の梢まで、あっというまに行きつくと、手前に張り出している太い枝に手をかける。若葉を軽くかきわけながら、ふわりとそこに腰をのせた。
「ラキス」
エセルはあわてて走り寄り、枝分かれしている巨木の梢を見上げて呼びかけた。
「ラキス、おりてきて。そんなところにいたら話ができない──」
けして姫君が登ることのできない場所に、はぐれ剣士の若者はあたりまえのような様子ですわっていた。姫の声が耳に届くと、ちらりと下を見下ろしたが、短い笑みだけを投げ返す。
それから、ふと何か別のものをみつけたように、視線をそらして空を見上げた。
エセルもつられて空のほうに目を向けた。
夜の闇を迎え入れる直前の、暗く澄みきった空の彼方で、金色の一番星がまたたきはじめている。
エセルは気づいた。彼のいる場所のほうが、地上よりも星の光に近いのだと──。
彼女の胸の奥底から、ふいに自分自身の小さな声が聞こえてきた。
それは、ほんの二十日ほど前に王城の窓辺で感じた思いと似ていたが、そのときとは別の深みから生じているようだった。
──わたしでは、だめなんだ。
内なる声はそんなふうにささやいた。
──どんなに好きでも、ただ好きなだけではだめなんだ。ラキスが背負いこんでいる荷物を、わたしは持ってあげられない。わたしがそばにいると、この人はよけい苦しむ──。
金の星から目を離すと、彼女は若者の姿をもう一度みつめた。しなやかな細身の身体も、ととのった静かな横顔も、出会ったころと少しも変わっていない。
ただ木の葉をまといつかせた両翼だけが、一足先に夜を吸い取ってしまったように、闇の気配に同化している。
その姿は、人と言うにはあまりにも魔物に近く、けれど魔物と言うにはあまりにも人に近く、そしてなぜか聖堂の繊細な彫刻群を思い起こしてしまうほどに──美しく見えた。
エセル姫は目をそらした。見ているだけでつらい気持ちになってきて、思わず樹木に背中を向ける。
だが向けたとたん、彼女はそこに思いもしていなかったものを見出して、動きを止めた。
純白の翼を持った一頭の天馬が立っている。いつのまにか草地にたたずみ、湖のように青い瞳で姫君のほうを眺めていた。




