12
アデライーダ女王といまは亡きエルランス殿下が、創星の神の御前で永遠の愛を誓いあった、聖なる記念日──。
両親と同じ道を歩むはずだった第三王女は、その日、対角線上を一気にすべり落ちるかのように、極端な変化を経験することになった。
国中でもっとも神聖な場所のひとつである大聖堂から、箱馬車が通り抜けたことさえないほど辺鄙な村落へ。
最上級の典礼衣裳に身を包んだ貴族たちの目の前から、すり切れかけた日常着しか持たない有翼の村人たちの目の前へ。
エセルは結局、日が落ちてくる時間までを村人たちとともに過ごして、交流を深めることになる。
夕暮れを迎えたころに、彼女をとりまく局面にふたたび変化が訪れる。さらに翌日には、思いもかけないような危機にみまわれて、誰もが──エセルもラキスも村人たちも──翻弄されることになるわけだが……。
星の神様でもない彼女たちに、そんな先のことが見通せるはずもない。
少なくとも、いま現在、エセル姫が悩んでいることが何かといえば、口の中のビスケットをどうしたら噛み砕けるだろうかということだった。
ふだん自分の食べていたものがどれほどぜいたくなものであったか。具体的に言えば、どれほど甘くてやわらかかったかを、姫君はいま実感していた。
ビスケットの外見は薄い木切れにそっくりで、おそるおそる口をつけてみると、ますます木切れに近かった。かたすぎて割ることができないし、かつて味わったこともないような風味だ。
かじりとるのをあきらめて、むりやり口につめこむと、姫君としてはあるまじき顔つきになってしまった。
口元をなんとか両手でおさえながら、エセルは横目でラキスのほうを盗み見た。平然と食べている様子から見て、やはりこれは、このあたりでは普通の食料なのだろう。
わたしにはわからないけれど、慣れれば案外おいしいとか……?。考えていると、二枚目を食べはじめたラキスが、ちらりとこちらを見やって苦笑した。
「二度焼きしてあるから、けっこうかたいよな。旅の保存食として持ち歩くには便利なんだけどね」
彼女たちがすわっているこの場所は、炭焼き頭領ジンクの家の庭先だった。寄り合いに使用しているらしい椅子のひとつに腰を落ち着けて、姫君はただいま、村の子どもたちの心のこもったおもてなしを受けている。
エセルとラキスの間には、チャイカがちんまりすわっていて、次のビスケットをふたりにあげようと待ち構えていた。
チャイカ以外にも数人の子どもたちがまわりに立ち、ビスケットを手に順番待ちをしている。姫君と剣士に、どうしても捧げものがしたいらしい。気持ちはとてもうれしいのだが……。
「すみませんねえ、お姫様。すぐに出せる食べ物がこんなもんしかなくて」
おだやかそうな中年の女性が寄ってきて、やはり苦笑しながら説明した。
「小麦は全部売っちまうんで、うちではオート麦くらいしか使わないんですよ。全然ふくらまないけど、栄養はちゃんととれるんでね」
差し出された木製のコップは古びていたが、中につがれているミルクは新鮮でおいしそうだった。口にふくむと、ほのかに甘い水分がざらざらしたかたい破片をとかしていく。おかげでエセルも、ようやく一息つくことができた。
「どうもありがとう、ルイサさん」
にっこりしながらお礼を言うと、ルイサだけでなくあたりにいた人々みんなが、吸い寄せられるように姫君の笑顔に見入った。
エセルはすでに、ある程度の村人たちの名前を覚えていた。炭焼き頭領のジンクと妻のルイサ、息子のゼム。ゼムと結婚する予定だという娘のマージ。
大聖堂に乱入してきた男たちはサンガとテグ……だったような気がする。
つい先ほどまで、彼女は子どもではなく大人たちにかこまれて会話していたのだった。ジンク宅の庭先で、エセル姫の到着を待っていた村人たちは、姫が腰かけにすわるやいなや、ことの次第を聞きたがった。
道中では、一応たずねるのをひかえてくれていたらしい。
ほぼすべての質問に応じたのはラキスで、流れ者の剣士が姫君とどこで知り合ったのかという問いかけには、こう答えた。
「都で」
たいへん短い答えだが、一同も長い答えがくるとは思っていなかったようだ。自分たちで勝手に事情を補足してくれた。
「へえ、ラキスって都で働いてたのか」「道理でなんだかあか抜けてると思ったよ」「わかった。都に魔物が出たときに、あんたがかっこよくお姫様を助けたんだね」
ほかにもいろいろな質問が出たが、どれもラキスが非常に短い答えを返し、村人たちが非常に長い補足を加えた。
しばらく話をして一段落ついたところで、ジンクがひとまずの解散を宣言し、大人たちの半数はそれぞれの仕事や家庭に戻って行った。あとの半数は、いつ追手が来るかわからないから見張りに立つように指示されて、いくつかの場所に向かっていった。
それでようやく、子どもたちにとって、あこがれのお姫様と剣士様を独占する時間がやってきたというわけである。
それにしても、追手……。実際に追手が来たら、もちろん村人の見張りなど、なんの役にも立たないだろう。そもそも村人たちも、乱入したジンクたち三人も、婚儀をめちゃめちゃにしたことが大罪だとは、まったく思っていないように見える。
自分たちの行いが正しいことだと信じ切っているのだ。
その理由はただひとつ。マリスタークの次期伯爵が、身重だった哀れなカーヤを無残に殺した張本人だから。エセルシータ姫を殺人鬼から救い出すのは、これ以上ないほどの正義だから。
正義をおこなった人間たちを、レントリアの司法が断罪したり処罰したりするはずがないから──。
彼らの会話の端々から、強くそれが感じとれたため、エセルはひどく困惑した。だが、犯人について反論することはできなかった。もしも、この場で異をとなえたりしたら、大変な騒ぎになることは目に見えていたからだ。
村人たちの会話の中で、彼女が反論したくてもできなかったことが、実はもうひとつある。
人々の間から大聖堂の話題が出たときに、木こりのテグがこんなふうに言い出したのだ。
「しかし、炎の使い手って奴は恐ろしいよな。本気でおれを浄化しようとしたんだぜ。とんでもねえ話だよ」
聞いていた女性たちが声を高めて「まあ、こわい」だの「やっぱりねえ」だのと言い合いはじめた。
ジンクがうなずき、サンガもそれに賛同した。
「噂で聞いてたとおりだよ。使い手ってのは魔物と半魔の区別がついちゃいないんだ」
「あの、やたらピカピカしておっかない魔法剣とかいう剣で、何をやってもいいと思ってるんだろうぜ」
「そ……」
そんなことないわ、と、思わずエセルは叫びかけた。剣に対するそのような発言が、ラキスの前で出たことに驚いたのだ。
だが、エセルの真横にすわっていた──そのときはチャイカは間にいなかった──当のラキスが、わずかに腕に触れてきて、彼女がしゃべり出すのを止めた。そして、肩をすくめながら小さく首を振ってみせた。
自分が魔法剣をあやつる身の上だったということを、ジンクたちには伝えていないらしい。
いまの彼は、普通の長剣を腰にさげただけの、流れ者の剣士だ。きっと使い手たちによくない噂があることを知っていて、あえて伝えずにいるのだろう。でも……。
ラキスという若者と魔法剣とを、いまだに分けて考えることができないエセルは、すぐには割り切れないものを感じた。
けれど同時に、大聖堂で使い手の男が仕掛けた攻撃を思ってみると、彼女自身にも村人たちと同じような反感が湧き上がってくるのだった。
王家側の来賓だったらしい、ステラ・フィデリスの使い手。二十代後半程度の年齢に見えたわりには、女王陛下に直接声をかけることをはばからない貫禄があった。ジンクたちに迷わず剣をふるった様子には、非情という言葉がぴったり当てはまる。
あんなふうに問答無用で浄化しようとする人が、王家の招待客だったなんて。だいたい、本当に浄化などできると思うほうがどうかしている。
魔法の炎が浄化するのは、深淵に根差した魔性の命だけ。あのときテグもわめいていたように、生粋だろうがそうでなかろうが、人間が炎に裁かれるはずはないのだ。
ただ正直なところ、あのときの村人たちがかなり──彼女はしぶしぶ考えた──人間離れしていてこわかったことは、たしかなのだが。
それに、全身が魔物に変わってしまうような子どもがいるという事実は、無視できない大問題ではあるのだが……。
その大問題の子どもが、ゆるんだ笑みをたたえながら、すぐとなりにすわっているため、エセルは子どもの顔を思わずしげしげと見直した。
ほかの子どもたちの顔つきよりは、だいぶぼんやりしているが、小さめの目鼻立ちには愛敬がある。あどけなくて、何ひとつ罪がないような表情だ。
ヴィーヴルに変わった瞬間をまのあたりにしたはずなのに、こうしていると、あれが本当の出来事だったとは信じがたいような気がしてくる。
この子はどうなるのかしら──ふいに不安な気持ちがきざしてきて、エセルは落ち着かなく身じろぎをした。
こんなにあどけない女の子なのに……無事に育っていけるのかしら。
エセルの顔をふしぎそうに眺めていたチャイカが、思いついたように勢いよく次の行動をおこした。
ビスケットを食べ終わってがっかりしているお姫様のために、もちろん二枚目を突き出したのだった。




