11
有翼の村人たちの一団がふたりから離れていってしまうと、にわかにあたりが静まり返った。
空をゆく鳥たちのさえずりだけが、ときおり風にのって運ばれてくる。
ふたりが立っている場所は、集落で共同の放牧場として使われている広い草地の端だった。青々とした草をはんでいる牛やロバたちの姿が、遠くのほうに見えていた。
「……マリスタークに帰りたい?」
草地と道をへだてる古びた柵にひじをのせながら、ラキスがたずねた。視線は、エセルではなくのどかな風景のほうに、ぼんやりと向けられている。
エセルは少しためらってから、かすかにうなずいた。そして、うなずいた意味を小さな声で補足した。
「帰りたいとか帰りたくないとかいう問題じゃないわ……。帰らなければいけないのよ」
「あそこには帰さない」
彼女の返事が聞こえなかったかのように、ラキスが言った。
「あんたが帰るべき場所は都だ。パステナーシュに帰るんだ」
「立場をわきまえろと言ったのはあなたじゃないの」
行き先を断定する言い方が気に障ったため、エセルも思わず声を強めて言い返した。
「わたしひとりの婚礼ではないのよ。今日という日のために、どれだけたくさんの人たちが動いてくれたと思ってるの? わたしとコンラート様を祝福するために、みんなが心を砕いてくれたわ。それをいきなり全部放り出して都に帰るなんて、そんなことできるわけが」
「エセル」
ふいにラキスがさえぎった。
静かな声だったが、反論する余地をあたえないほど真剣な響きがあった。
エセルが言いかけた言葉を呑み込むと、彼は身体の向きを変え、はしばみ色の瞳をまともにこちらに向けてきた。
「おれは、おふざけでこんな大それたことをしたわけじゃない。ちゃんと理由があっての行動だ。その理由を、いまから話す。それなりの覚悟がなければ聞けない話だと思うが……」
「………」
「聞いてくれるか?」
「……告発の続きね」
無意識に身体に力を入れながら、エセルが呟いた。ラキスの瞳をしばらく無言でみつめ返し、それから深く息を吸い込むと挑むように返答した。
「いいわ。覚悟するから、遠慮なく話して」
──エセルはそのとき、本当に覚悟を決めたつもりで、そう言ったのだった。
そして実際、ラキスが話している間、彼女は自分の覚悟をしめすために、一度も話をさえぎろうとはしなかった。よけいな質問をすることもなく、耳をふさぐこともなく、唇をかみしめながらじっと話を聞いていた。
だが、だからといって、心までがその内容を受け入れていたわけではない。
ラキスが語った事件のあらましは、エセルシータ姫が生きてきた世界とあまりにも……おおげさでなく、天のいただきと地の底ほどもかけ離れていたため、そんな事件を自分の領域に入れることなど、とてもできなかったのだ。
ラキスの声は淡々としていて、感情的な表現もくわしい描写もまったく入っていなかった。事実を伝えるのに必要な最低限の情報だけを、抜き出して話しているのだろう。
その淡白な語り口を聞きながら、エセルはぼんやりとこう考えた。
──これはいったい、なんの話? 魔物狩りの話なの? もしかすると討伐のさなかのことを言っているの?
だって、人間の話なんかであるはずがない。罪もない女性をつかまえて木の枝からつるして……金銭のためでも恨みや憎しみのためでもなく、人が人を切り裂くなんて、そんな恐ろしいことがこの世にあっていいはずない。
しかも、それをしたのがあのコンラート様だなんて、そんな突拍子もないことをどうして信じられるだろう。
信じがたい話を語る声に重なって、エセルの耳の奥では、いつのまにか別の音が響きはじめていた。
その響きは、大聖堂で彼女を包みこむように鳴り響いていた、パイプオルガンの深い音色によく似ていた。
星の神様をたたえる清浄な堂内、祭壇の上の守護聖獣。聖獣の胸でゆらめく聖火。
加護の窓から差し込む光に、ステンドグラスの五色のきらめき……。
清らかなもの、善なるものの象徴であるそれらすべてが、とうとい命が奪い取られる光景と、二重写しにだぶって見える。
ふしぎだわ。対極にあるはずの光景なのに、どうして重なりあって映るのかしら──。
聖堂の記憶に引き出されるように、マリスタークで見た絵画の数々が、エセルの心にふっと浮かび上がってきた。
領主館に飾られていた、天つ御使いの少女の絵……それを見ていた次期伯爵の、やさしいまなざしを思い出す。すばらしい聖母子像を集めて大切にしていたのも、彼だった。
絵だけではなく、美しい音楽にも心を寄せていて造詣が深かった。エセルのこともいつもやさしく見守ってくれたし、心から婚礼を望んでくれた──そう、彼が犯人だなんて、どう考えてもありえない。
「人違いよ」
いきなりエセルが口をひらいたので、ラキスが驚いたように目をみはった。彼はジンクたちについての説明をひととおり終えて、話すのをやめたところだった。
「人違い? 誰が誰を?」
「あなたが見たのは、コンラート様によく似た別の誰かだったと思うの。空の上から、ちらっと見下ろしただけなんでしょう。見間違えてもおかしくないわ」
「間違えてなんかいない」
ラキスが眉を寄せて言い返した。
「エセル……こんなひどい話を信じたくないと思う気持はわかる。本当は──」
迷うように言葉を切ると、彼はため息をついて続けた。
「本当は、エセルにこんなことを話すつもりはなかった。あんたは何も知らなくていいと思っていたんだ。でも……婚儀が決まってしまった以上、エセル自身が、あの男とは結婚しないという意志をかためてくれないと、もうどうしようもない。そのうえで、できればエセルから女王陛下に真相をきちんと伝え──」
「お母様には、あなたがどうして婚礼を壊そうとしたのか伝えるわ」
と、きっぱりした調子でエセルが口をはさんだ。
「わたしを助けようとして無茶をしたんだってこと、ちゃんと話してわかっていただくわ。でも……コンラート様が犯人だと言うのは無理よ」
なぜなら、自分はラキスよりもコンラートという人物のことをよく知っている。次期伯爵としての心がけが立派なことも知っているし、彼とふたりでマリスタークを見てまわったときも、領民みんなに好意をもたれていることが一目でわかった。それに……。
「絵画館の帰り道で、怪我をした吟遊詩人に出会ったの」
と、エセルはラキスの思い違いを正すために、具体的な例を話しはじめた。
「リュートを弾きながら歌っていたのだけど、コンラート様はわざわざ馬車をとめて、その楽師に銀貨をお渡しになったわ。そして、そのお金で指の怪我を治すようにとおっしゃった。わたしには全然わからなかったのに、無理して弾いていることが、すぐにおわかりになったのね。音楽にくわしいだけでなく思いやりもあるかたなんだと、わたし、とても感心して……」
「そして結婚したいと思ったわけか」
エセルは、不意を打たれて黙りこんだ。ラキスが険呑な口調で続けた。
「そうだよな。式をあげようとするくらいだから、よっぽど気に入ったんだよな」
「いえ、そういうことでは……」
「邪魔してすまなかった」
「ラキス、わたし」
「ひとつだけ言っておくが、いい人だと思わせるなんて案外簡単なことなんだ。エセルみたいに疑うことを知らなくて、なんでも前向きに考えてくれるお姫様が相手なら、とくにね」
エセルは目を見開いて、急に感情的な口調になった若者をみつめていた。
それから、ふいに泣き出しそうに顔をゆがめた。
「あなた、意地悪だわ」
訴えるような細い声が唇からもれる。
「わたしのこと、怒っているのね。勝手に結婚を決めてしまったわたしに、ほんとはすごく腹を立てているんでしょう。だからわざと嫌なことばかり言うんだわ」
今度はラキスが不意を打たれたようだった。
「いや、怒ってない。いま怒っていたのは、コンラート・オルマンドのやり口に対してだ」
「かくさなくていいのよ。そうね、たしかに腹が立っても当然かもしれないわね。でも、わたしだけが悪いんじゃないわ。こちらにだってちゃんと言い分というものがあるのよ」
「エセルが悪くないのは知ってる。しかたがなかったんだってこともわかってる」
「うそ」
「うそじゃないよ。だから怒ってなんかいない、本当だ」
エセルシータ姫がふいに叫んだ。
「そんなの変よ、ふつうは怒るはずだわ。どうして怒ってくれないの?」
ラキスが叫んだ。
「どっちが望みなんだ?」
パイプオルガンの聖なる音色は、どういうわけか急激に遠ざかりつつあった。
入れかわりにガタゴトと近づいてきたのは、先ほどまでエセルが乗っていた荷車だ。引っぱっている村人のゼムとビルが、あきれたように大きな声を投げてくる。
「なんだなんだ、また、けんかしてんのか? しょうがねえなあ」
彼らは、いったん車からおろした荷物を、森のきわまでわざわざ取りに戻っていたのだった。
ゼムのとなりにいるビルは、もともとの荷車の持ち主で、最初にラキスが村に来たとき、草刈り鎌で出迎えた男でもある。
あのときはやけに迫力があったが、知りあってみれば人がよく、いまも荷を運び直しながら文句も言わない。
その後、彼らと反対に集落のほうからやってきたのは、なぜか汚れた麻袋をぶらさげているチャイカだった。
女の子は魔物よろしく空を飛んでくると、エセルたちの頭にあやうくぶつかりそうな場所で、急に手を離した。
麻袋が地面に落ち、中身が飛び出してくる。一瞬がらくたのように見えたそれらは、数足の女性用の靴だった。
姫君が歩けないのではないかと気にしたルイサが、チャイカに持たせてよこしたらしい。
ありがたく靴をにらみつけながら、これをはくのは勇気が必要かもしれないとエセルは思った。どれも使用済みで、それなりの代物だったからだ。
だが、ラキスがチャイカにかけた言葉で、はっとした。
「ルイサ、いま、はだしじゃないのか?」
「あい」
貧しい農家に、あまった靴などそうそうあるものではない。使用済みではなく使用中だったのだ。サイズもわからないから、とりあえず手近にあるものを集めてくれたのだろう。
絹の靴の上から選んだ靴をはいてみると、足元がぐっと安定して地面を踏みしめやすくなった。
思わず姿勢を正して放牧場のほうに目を向けると、遠くにいたはずの牛やロバが、いつのまにやらずいぶん近くまで寄ってきている。
その景色を眺めながら、エセルシータ姫は遠のいていったパイプオルガンの響きを思い返した。
先ほど聞いた恐ろしい話の対極にあるのは、聖堂ではなく、いま自分が立っているこの場所のほうかもしれない……。
ふっと、そんなふうに思った。




