10
エセルはちゃんと歩けると言い張ったのだが、それが無理であるのは誰の目にも一目瞭然だった。
聖堂の床を歩くためだけにつくられた靴は、衣装の一部のように白い絹製だ。石ころだらけの田舎道に踏み出したりすれば、すぐに薄底に穴があいてしまうだろう。
「もう一度、これに乗ってったらどうですかい?」
と、ジンクが押し出してきたのは、反転を解いて女の子の姿に戻っているチャイカだった。エセルは、罪もなく笑っているチャイカにほほえみかえしたものの、親切な提案のほうは丁重な言葉でおことわりした。
チャイカに代わる乗り物として頭領が次に選んだのは、干し草や切り落とした枝などをつんだ荷車だった。
荷を引く途中でここに寄り道した村人がいたので、それを借りて急ごしらえの席をつくることに決まる。枝や農具などが多数の手でたちまちおろされ、干し草だけが分厚くしきつめられた。
準備がととのいエセルが荷台に乗り込むと、一同はようやく家々が建ち並ぶ方向にむけて進みはじめた。
日焼けした肌と濃い色の髪に、黒い翼までつけた集団が、ほっそりと色白な金髪の姫君をとりまきながら、ぞろぞろと移動していく。
もしも都の人々が通りかかったら、仰天して討伐隊を呼んでしまいそうな光景だ。都ではなくマリスタークの住人であったとしても、きっと似たような反応をするにちがいない。
だがドーミエの田舎道は、そういった場所ではないのだった。一行の姿はあたりの風景とすんなり調和して、のどかでありながらどこか幻想的な、ふしぎな雰囲気をかもし出している。
姫が草上に横たわっていたときとはちがうものの、これはこれで、ある種のおとぎ話めいた情景といえるかもしれない。
とはいえ、荷台で揺られているエセル姫の気分のほうは、もちろんのどかでも幻想的でもなかった。
先ほどから彼女は、ひとことも口をきかず視線だけをあたりにさまよわせている。たずねたいことはたくさんあるのだが、口をひらくと舌をかんでしまいそうで、だまっているしかない状態なのだ。
わざわざ積み荷をおろして席をつくってくれたことには、本当に感謝していたが、馬車の乗り心地とはやはり大違いだった。
いまはいったい何時ごろなのかしら、と、荷台の柵につかまってでこぼこ道を乗り切りながら、エセルは考えた。まだ日が高いから、本当ならいまごろはマリスターク城でひらかれる祝いの宴の真っ最中だったにちがいない。
今朝のわたしは、星の神様に誓いをたてるとしっかり覚悟を決めていた。それがまさか、こんな成り行きになるなんて。
いきなり花嫁を奪いとられて、コンラート様はどんなに驚かれたことだろう。お母様やお姉様がたも、どんなに心配していらっしゃるだろう。
ことの重大さが身に沁みてきて、エセルは柵を強く握りしめた。
王城に返すというラキスの言葉を聞いたときは、目がくらむほど腹が立ったけれど……。王城ではない。マリスタークに返してちょうだいと、わたしは彼に言わなければいけなかったのだ。
ラキスはエセルのほうを見ずに、荷車から少し離れたななめ前あたりを歩いていた。
王城で見慣れたはずの背中を、いますっぽりと覆っているのは、こうもりを思わせる飛膜を持った漆黒の両翼だ。
あたりにいる村人たちのそれとくらべてみても、彼の翼は艶をおびたように黒く、のびやかで大きめに見える。まるで闇夜の中から生まれ出たばかりの、若い魔物のように……。
いつのまにそんな翼が生えたの? 急に、それとも少しづつ?
視線を感じたのか、ラキスがふと振り向いてこちらを見た。エセルの気持ちを見透かしたように、少し笑った。
「ずいぶん姿が変わったから、びっくりしただろ」
「……ええ」
「はっきり言ってかまわないよ。こわい?」
「こわくなんかないわ」
かたい声でエセルが応じた。
「わたしは、いまよりはるかにひどい姿のあなたにだって会ったことがあるのよ。あのときにくらべれば、ずいぶんおとなしい変化だと思うわ」
過ぎた日の出来事をエセルが思い出させると、彼は軽く目をみはってから苦笑した。
「たしかにね」
エセルは、自分が舌をかまずに話したことに気づき、荷車がまったく進んでいないことにも気がついた。車を引いていたゼムが──このときの彼女は、まだ個々の名前を知らなかったが──気をきかせて止まってくれているのだ。
ラキスが進んでもいいとゼムに告げたが、それはエセルとの会話を打ち切るという意味もふくんでいるらしかった。エセルもさからわず、ふたたび荷車の揺れに身をまかせはじめた。
ななめ前の位置を行くラキスと、その左右にいる人々のかわす会話が、わだちの音の合間からエセルのほうにまで聞こえてくる。村人たちの声がすっとんきょうに大きかったので、内容もだいたい聞きとることができた。
「変な夢をみて外に出たら、地面から瘴気が出てきたって?」
「なんだそりゃ。そんなの聞いたことないぜ。翼ってのは、生まれたときからちゃあんと背中にくっついてるもんだ」
「チャイカ、ほんとかよ、いまの」
「いないよ。先に飛んで帰っちまった」
男たちの声はのんきだったが、マージやルイサのどことなく不安そうな声が、ときどき入り混じってくる。
「なんだか気味が悪いね……瘴気なんて森のうんと奥のほうだけかと思ってたのに」
エセルの耳は、半分呟きのようなラキスの声も拾い上げた。
「おれの翼は、あんたたちのものよりヴィーヴルに近いんじゃないかな。瘴気がかたちになったようなものだからさ」
瘴気がかたちに……そんなことが本当にあるものかしら。そんなふうに思えるものを背中に背負ったりして、つらい気持ちにならないかしら……。
ラキスの様子を見る限り、気に病んでいる感じはなかったが、彼が見た目で判断できる人ではないことを、エセルはよく承知していた。こんなときに元気そうに見えることのほうが、むしろ問題なのだ。
最後に彼と話をしたのはいつだったかしらと、エセルは考えてみた。
マリスタークの庭園では会話するどころじゃなかったから、それよりも前だ。たしか最後に王城の木立でいっしょにすわって……そう、わたしが持ってきたレモンジュースをふたりで飲んだのだった。そして……。
ふいにエセルは赤面した。最後の場面、すなわちジュースを彼の頭にそそいだうえに容器を投げつけたというすばらしい場面が、ありありとよみがえってくる。
くわえて、つい先ほど彼の頬を思いきりひっぱたいたときの感覚も、同時によみがえってきた。
わたしときたら、本当になんという姫君だろう。
エセルはがっくりうなだれたが、視線を落としたとたんに自分の着ているドレスの色が目に入ってきた。
重ね着していたほうのドレスは、たたんで干し草の上においてあったが、どちらも神の御前で永遠の誓いをたてるにふさわしい純白だ。
真っ白の布地はめったに手に入らない貴重品なので、たとえ王族であっても婚儀のときくらいしか身につけたりしない。
婚儀──。
本当にラキス以外の人と結婚するつもりだったのだと、夢からさめたようにエセルは思った。
でも、たしかに本気だった。本気で、もう二度とラキスに会うことはないだろうと思っていた。ほかの誰よりも、この花嫁衣装を彼に見られたくなかった──。
「お姫様」
と、マージが心配そうな声をあげた。
「大丈夫? もしかして酔っちゃった?」
エセルは膝をかかえてうずくまり、顔を伏せてしまっていた。伏せた下から小さな声で呟いた。
「マリスタークに帰して」
「え?」
「わたし、マリスタークに帰らないと……」
荷車がふたたび進むのをやめた。ラキスがそばに歩み寄り、姫君の細い肩をじっと見下ろしていたが、やがて静かな声で皆に言った。
「ちょっとふたりだけにしてもらえるかな。話したいことがあるんだ」




