9:二人の別れ
二人が訪れたのは寂れた三流冒険者宿だった。
そこで酔いつぶれていた男に山茶花は兵器のことを問い詰める。
しかし、男からはふたりも思いもしない答えが返ってきた。
肩を落とし、自分たちの宿へと戻るふたりだったが――?
世界が薄く闇に染まる頃、壱號と山茶花は裏町近くの路地に立っていた。
生ぬるい風が吹き抜け、それが合図だったようにお互い別の道を歩く。
何歩か歩いた所で、山茶花が足を止めて声を上げた。
「壱號!」
呼ばれた壱號が振り返る。街灯のひとつもないこの場所では、お互いの顔は分からない。
闇の中で、山茶花の明るい声だけが響く。
「楽しかったよ、二週間! どこかで会えたら、また会おう!」
壱號は自分でも知らず、微笑んでいた。
明るい場所であれば、山茶花はさぞ喜んだであろう、彼の初めての微笑み。
しかし、それも闇にかき消されてしまっていた。惜しい事だ。
「あぁ、どこかで会えたら、また」
壱號の平坦な声に、山茶花は笑う。そして、地面を走り去る音だけが響き、壱號は路地にひとり残された。
これまでの人生の殆どを孤独に戦ってきた壱號にとって誰かと共闘したりするという事は稀有で貴重な時間だった。
しかし、それも一瞬の事。
山茶花は自由を愛する冒険者であり、自分は黒の会に所属する暗殺者。
ほんの一時でも共にいた事が奇跡なのだ。
壱號は遠ざかる軽やかな足音を背に、壁へ向かって歩き出す。
ボスにこれまでの事を報告しなくてはならない。
目標は既にこの世から失われていたのだと。
相変わらず、スプリングが飛び出しそうな古いソファに深く腰を掛けていたボスは葉巻を吸いながら壱號からの報告を静かに聞いていた。
壱號が淡々とする報告に嘘偽りはひとつもない。
『焔の道化師』の手を借り、円滑に調査が進んだことも含めて、全てを語り尽くした。
ボスは葉巻をもみ消すと腕を組み、ゆっくり煙を吐き出すと、大きく頷いた。
「そうか、ご苦労だったな。壱號。次の仕事が来るまで自由に過ごすがいい」
「あぁ。現物を持ち帰れなかった事は……」
ボスは腹の前で腕を組んだままで呵々と笑う。
「何も問題はない。お前は偶然にとはいえ、代替品も見つけてくれたのだろう?」
「……何?」
「今頃ルージィが回収に向かっている筈だ。お前は何も気にする事はない。何も、な」
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山茶花が根城にしている冒険者宿の前に、黒い影が立っている事に気がついたのは早かった。
しかし、気にする様子もなくその前を横切り、宿に入ろうとする。
「あーあーあー。そんなあからさまに無視する事はないんじゃないですかね、兵器のお嬢さん?」
黒い影はその長い髪を揺らし、山茶花の肩を掴む。
しかし、今度ばかりは山茶花も軽く抵抗の姿勢をみせた。
その腕を振り払い、半歩下がると槍を構える。
「せっかく放っておいてやろうと思ったのに。先に手を出したのはそっちだからね。……ええと、ルージィとか言ったっけ?」
「名前を覚えていて頂けて光栄ですよ、『焔の道化師』さん。……いや、『生体術式兵器試作機、認証番号102番』さん?」
山茶花はペッと唾を吐き捨てる。そして音楽再生機を右耳だけ外し、首を二度ほど回すと人通りのない路地を顎で指す。
「ここじゃいつ人が来るかわからない。ドンパチやるなら裏まで顔貸しな。私の首はタダじゃやらないよ」
「平和的に来ていただければ、こちらとしては手間もなくてよかったんですがね……。ていうか、俺は武力行使は苦手なんで。お手柔らかにお願いしますよ」
「ハッ……よく言うよ!」
言うが早いか、山茶花は地面を強く蹴って踵を返す。
ルージィはやれやれといった調子で頭を振るとそれを追った。
薄闇の中を走りながら山茶花は詠唱する。
「廻れ風よ、廻れ土よ、彼の者の足を封ぜよ!」
「あっ、足止めの魔術ですか? ずるっこいなぁ!」
顔に笑みを貼り付けたままのルージィに、風気と土気の渦が襲いかかる。
「ですが、無駄」
山茶花の魔術はバチンという音と共に弾かれた。それを見て山茶花は即座に判断する。魔術よけの護符を持っているな、と。
正面を向き直し、山茶花はさらに詠唱を続ける。
「火よ廻れ、水よ廻れ、火炎と水流の渦よ、我が怨敵を撃て!」
山茶花の槍の穂先から炎と水の渦が巻き起こり、周囲にもうもうと霧が舞う。
ルージィが霧に巻かれたのを見ながら、その煙幕に紛れ、山茶花はさらに足を早めた。
「チッ……。小賢しい真似をしてくださる」
ルージィは一度足を止め、周囲を見渡した。石と木で出来た建物に囲まれた路地裏だ。隠れる場所など限られている。
ルージィも目の前で指を立て、小声で詠唱を始めた。
「廻れ風、怨敵を切り裂け!」
山茶花の放った蒸気の煙幕はあっけなくルージィのかまいたちに掻き消された。しかし、ルージィの目の前に山茶花の姿はない。
ルージィは落ち着いた様子で詠唱を続ける。
「廻れ風、廻れ水、我が足となって空を駆けろ」
ルージィの足元から風が立ち上り、上空へとその身を浮かび上がらせた。
古びた家屋の屋根の上を走る影を見ると、ルージィは口元に笑みを浮かべてそのまま空を走った。
しかし、それに気がつかない山茶花でもない。ルージィが風の魔術を得意としているのならば、と再び詠唱を開始する。
「廻れ水よ、廻れ土よ、光の渦よ。壁となりて我を守らん!」
山茶花の周囲に水気と土気から成る見えない壁が作り上げられる。光の壁の中心で、槍を地面に突き立てながら詠唱を開始した。彼女が知る最強の火炎魔術だ。
「廻れ廻れ、火炎の渦よ。毒蛇となって我が怨敵を焼き払わん!」
槍から立ち上る炎が蛇の形に成り、ルージィに食らいつかんと襲いかかる。
しかし、それもルージィの持つ魔術よけの護符に防がれた。だが、山茶花の術の方が一歩上手だったようだ。
火炎の蛇は怯むことなく再びルージィに襲いかかり、ポケットの中の護符を食いつくす。これでもう、護符の効果は得られない。
「あらら、やられた。ですが、遅かったですね」
「遅いのはどっちだ! 廻れ風よ、廻れ水よ、唸れ雷鳴、怨敵……を、」
山茶花の声が、そこで止まった。
歩み寄るルージィが持つ、もう一枚の護符。それは音封じの呪符だった。自分以外の周囲の音を全て掻き消す、詠唱によって魔術を行う対魔術師用の最終手段。
護符は一枚ではなかった。
護符はどんなに安価でも金貨を出さないと買えない。
さすがの山茶花も、一介のエージェントがそんな高価な護符を何枚も持っている訳がないと思っていた。
震える手で、左腕の拘束機を外そうとするが、ルージィの右腕がそれを遮った。
「一流の冒険者も攻撃手段を失っちゃ、ただの女の子ですねぇ? 何をしようとしているか知りませんが、させませんよ」
――なぜ、さわれる。しょうへきを、つくったのに。
山茶花の声にならない声を聞き取ったのか、ルージィはにっこりと微笑み、左の胸ポケットからさらに護符を取り出した。
障壁破りの護符。何枚も金貨を出さないと購入できない高級品だ。
「間諜は、用心に用心を重ねないとやってられないものなんでね。ご心配なく。黒の会の経費で落ちましたから」
ルージィの拳が、山茶花のみぞおちに突き刺さった。
声にならないうめき声を上げ、山茶花の身体から力が抜ける。
薄れゆく意識の中、ルージィの声がぼんやりと聞こえた。
「壱號を憎まないでやってくださいよ。彼に近づいたのは、貴方からだったんですからねぇ」
――あぁ、そうだった。そういえばそうだった。私がおせっかいを焼いたから。
自虐的に山茶花は笑い、今度こそ意識を失った。