その10
夜の帳が下りた後宮では、仕事を終えた多くの女官たちが夕食を楽しんでいた。
「おいしい! ちゃんと味がする!」
「そりゃね、味付けしてるもの」
病室の味気ないご飯に心底飽きていた六花は、食堂の料理の味付けに感動する。五日間も健康食ばかりを食べさせられ、塩分と糖分と油分が恋しくて仕方がなかったのだ。
「でも確かにここの食事は豪華よね。陛下と比べたら大したことないのだろうけど」
そんな何気無い呟きに、六花の心臓はドクンと跳ねた。
紫季はもう部屋に戻っているだろうか。病み上がりなのに無理をしていないだろうか。渋いお茶ばかり飲んでいないだろうか。紫季に自分など必要ないとわかっていても、そんな事ばかりを考えてしまう。
何を今更。
自分から逃げておいて未練がましいにも程がある。相手は皇帝で自分は一介の女官。そばに置いて貰えた事自体が奇跡なのだと思わなければならない。そのくらい、六花と紫季の間には絶対的な距離があるのだ。
胸がつかえるような感覚をどうにかしてしまいたくて、六花は目の前のご飯を掻き込んだ。
「椿、そんなに食べて大丈夫?」
「大丈夫! もうすっかり元気だから!」
桃と一緒に食事をするのは久々だなとしみじみ思う。皇帝付きになってから食事の時間が合わず、一人寂しく食べる日々が続いていたのだ。他人と過ごすことでこんなに穏やかな気持ちになったのも、随分と久々な気がする。
「おかえり、椿!」
「明日からまたこき使ってやるわよ~!」
「もー、先輩ったら! 椿は病み上がりなんですよ!」
未だに六花の事を悪く言う者もいるが、殆どの女官は出戻り娘に興味をなくしたらしく気になるほどでもない。六花に火傷を負わせた張本人は大人しくなっていて、何かを悟ったらしい女官長が釘を刺したなんて噂もちらほら。
中には桃のように六花の復帰を喜ぶ人もたくさんいて、やっぱり自分にはこっちの方が合っていたんだと実感する。女官仲間の和気藹々とした雰囲気が懐かしく、六花は幸せな気分に浸っていた。
と、その時。
静かだった食堂がいきなり騒がしくなる。女官たちが注目している扉の方には、蒼士が困ったような表情で立っていた。男子禁制のはずなのに、と首を傾げていると、蒼士はきょよきょろと中を見渡して言う。
「いきなりごめんね。椿ちゃんはいるかな?」
女官の視線がザッと蒼士から六花へと移動する。
絶対に怒られる。
そんな予感がして声を出せないでいると、蒼士は女官たちの視線を辿って六花を見つけたようだった。
「あ、いたいた。少し用があってね、こっちへ……って、陛下!!」
蒼士を押し退けて乗り込んできたのは、明らかに不機嫌な表情の紫季。その瞬間、騒がしかった食堂は水を打ったように静まり返った。
女官たちは冷たい空気を纏う麗人を目にして、驚愕に目を見開く。紫季が女官宿舎に顔を出すのは即位以来初めてのことなのだ。ましてや女官の前に滅多に姿を見せない紫季が、こんなにも堂々と食堂の扉の前に立っている。驚くなと言う方が無茶というもの。
人より先に我に返った女官長が頭を垂れようとすれば、紫季はそれを片手を上げて制した。あくまで目的は六花ということらしい。
張り詰めた雰囲気の食堂の床を硬い長靴でコツコツ鳴らし、紫季は真っ直ぐに六花のもとへと歩みを進める。
寝起きの数倍不機嫌な目つきは、悲鳴をあげたくなる程怖い。そう、例えるならば猛禽類の目だ。しかし無駄の無いしなやかな動きは肉食獣のそれである。紫季が野生動物だったなら、食物連鎖の頂点に君臨しているに違いない。…要するに、紫季が物凄く怖い。
逃げたい。今から扉まで走れば逃げ切れるだろうか。
しかし扉の前には蒼士が曖昧な笑みで傍観しているため、逃亡は不可能。なら窓はどうだろう?
そんな現実逃避を繰り返す六花だが、紫季が近づくのは永遠のようで、一瞬だった。
座ったまま縮こまる六花に大きな影が落ち、ゾクリと悪寒が走る。六花は紫季のもとから逃げたのだ。今さら会わせる顔などない。俯いたまま顔を上げられずにいると、置いてきた手紙を眼前に突き付けられた。
「なんだこれは」
冷ややかな声がそう問う。
「異動願です」
「認めた憶えはないが?」
六花には紫季が怒る理由がわからない。
「…勝手なことをするな。戻るぞ」
勝手なことをしているのは一体どっちだ。
六花の気持ちをずたずたに踏みにじっておいて、紫季は六花を勝手だと言う。あれだけ嫌疑をかけておきながら、いざ離れようとすると怖い顔で繋ぎ止めようとする。紫季の方が余程勝手ではないか。
「異動は許可しない。余の命に従え」
あんまりな紫季の言い草に、六花の中で何かがプツンと切れた。
「私のことを疑ってらっしゃるのに、どうしてお側に置こうとするのです」
突きつけられた異動願を紫季の方へ押し戻す。不敬罪でも何でも良いから言い返してやろうと、半ばやけくそだった。
「いっそのこと、解雇してくだされば良かったのに!」
そう叫んで睨み上げると、目を見開いて驚いた表情をする紫季。仕返しがしたいのに。これではまるで、紫季が信じてくれなかったと拗ねているよう。こんな女々しいことを言うつもりはなかったのに、一度決壊してしまえば感情を抑えることができない。
いつの間にか涙がぼろぼろこぼれ落ち、情けなさに逃げ出したくなる。紫季の前で泣かないように、みっともない姿を見せないように置き手紙を残してきたというのに、何もかも台無しだ。
「私には貴方の気持ちがわからない…!」
泣き顔を隠すために俯いて、絞り出すようにそう言えば、紫季が息を飲むような音がした。
「言いたいことはそれだけか?」
酷く冷たい台詞が六花に突き刺さる。紫季の事が知りたいという六花の気持ちは、紫季にとって『それだけ』のものだったということ。紫季にとって六花は、『それだけ』の存在だったのだ。
「気が済んだなら早く来い」
「嫌です!」
これ以上傷付きたくなくて紫季を拒絶すれば、彼は怒りに目の色を変える。怒気と殺気が入り混じった殺伐とした気配に、女官たちは息を飲んだ。涙も引っ込むほどの恐ろしさから、六花は爪先に力を入れ逃亡を謀るが、それをを阻止するように腕が伸びてくる。
「なっ!」
「陛下!」
六花と蒼士が叫んだのは同時だった。
ぐるんと視界が反転し、磨き上げられた食堂の床が目に飛び込んでくる。紫季の肩に担がれたことを理解するのに、まるまる十秒はかかったことだろう。
「は、離してくださいよ!」
「うるさい」
じたばたと動いて抵抗を試みるものの、がっちりと腰を掴まれて抜け出せない。
「陛下、さすがに無理矢理すぎるでしょう!」
「黙れ。これは燃やしておけ」
蒼士の救いの言葉にも耳を貸さず、挙句六花の異動願を押し付ける始末。
あっという間に食べかけの食事から遠ざかってゆくのを、無力な六花にはただ呆然と見ているしかなかった。




