水蛭子(ひるこ)の恋患い 【先天性両腕欠損症候群】
02月18日【先天性両腕欠損症候群】
01
放課後の喧騒も聞こえないほど卜部真由美は必死だった。お世辞にも人並みとは言えない運動神経を総動員しても高が知れている。恐らく無様な姿勢を晒した上、儘ならない足運びで躓かないようにするのが関の山だった。
廊下が長く感じた。放課後なので人の姿は少ないのに何時もより狭く見える。階段は遠く、辿り着いても一段が恐ろしく高かった。バランスを失い、崩れかかった膝に過度の負担を強いつつも駆け上がった卜部は屋上へと転がり込んだ。
「直木ッ!」
卜部は叫び声と言っても差し支えない悲痛な声を上げた。息を切らし、大きく上下に揺らした肩に遮られる呼吸の合間を縫い、出来る限りの声を絞り出した。
「真由美―――」
困惑した様子で振り返った何時も通りの久慈川直木の姿に一先ず卜部はホッとする。だが、隣には生徒会の役員のひとりに数えられる同級生の結城葵衣の姿があった。二人は微妙な距離感を残しつつも、絶妙な間合いを開けたまま、意味深に並んでいる。
あぁ、何てお似合いな二人だろうか。そして何てお誂え向きの場所だろうか。凡そセンスがあるとは言えないものの、結城がチョイスしたであろう場所には柔らかい雰囲気が漂っている。やや傾いた西日に当てられ、少しだけ読み難い二人の表情――日差しの所為か、仄かに赤くなっているようにも見えた。
「な…なに、を、し、てるの?」
慣れない全力疾走で酷使した身体が上手く動かなかった。呼吸と搗ち合うように震える喉から途切れ途切れの言葉を呟きながら卜部は久慈川に詰め寄った。
「何って――」
久慈川が言い掛けた時だった。不意に卜部の膝から力が抜けた。痺れた足が確りと地面を捕まえられず、グニャリと下半身だけが平衡感覚を失ったかのようにつんのめった卜部が、やばい、と頭の中で危機を察した頃には既に目の前は屋上の荒んだコンクリートの床で埋め尽くされていた。
恰も聳え立つ壁が迫ってくるように近付いて来た屋上の床は、襲い掛かって来たのではないかと髣髴させる勢いを卜部に感じさせた。頭から突っ込んでしまうのは避けられそうになかった。派手に転倒するなんて何時以来だろうか。怪我を負ってしまうのは仕方ないとしても顔に傷は付けたくなかった。
「あれ?」
「あれじゃねーよ」
覚悟したつもりが、ただ目を瞑る程度の事しか出来なかった卜部に久慈川の声が掛けられた。
「転びそうになってんじゃんよ」
「ごめん」
腰の辺りに差し出された久慈川の腕によって支えられていた上半身を起こした卜部は小さく謝った。
「どうしたの?卜部さん」
気付くと結城も傍に立っていた。身体を起こした序に下から仰ぐように見返した結城の表情は何故か冷ややかなものだった。
「だ――ぃじょうぶ」
前髪を振り払った卜部は小さな咳払いを間に挟むと、未だ片息の呼吸を誤魔化しながらもう一度「ここで何をしてたの?」と質問した。
「何って」
答えに窮するような相槌を返した久慈川に代わり、結城からやや棘のある言葉が飛び出した。
「卜部さんには関係ないと思うんだけど?」
「関係ない?」
カチンと来た卜部は思わず感情的な言葉で反論した。
「そうかも知れないけど、直木が待ち合わせに遅刻したから訊いているだけでしょ?結城さんには訊いていないッ」
「でも、久慈川と私が一緒だったんだから少しは察したら?」
「何を察しろって言うの?」
卜部が言い上がると、結城は溜息でも零すような口調で嫌々と説明した。
「放課後の屋上。男女が二人っきり。まぁ、自分で言うのもアレだけど、センスはないわ。でも、お誂え向きの場所でしょ?」
「何のッ?」
「告白したの。返事はまだだけど」
飄々と、臆面もなく卜部に告げた結城を久慈川が制した。
「それこそ真由美には関係ないだろ。一々、言わなくても」
「言う。敢えて言わせて貰うわ」
久慈川の進言を退けた結城は逆に聞き返した。
「久慈川は卜部さんの事をどう思ってるの?」
「どう――…って?」
「状況を見なさいよ。鈍感ね―――。好きかどうかを訊いてるに決まってるでしょ?それともボケてるの?」
結城が久慈川を横目に流すと卜部を睨んだ。
「卜部さんも知りたいでしょ?」
「別に」
「別にッ?!」
驚いたように繰り返す結城を卜部は睨み返せなかった。
「何よ、それ、久慈川は自分を見捨てないとか思ってる訳?寝取られる訳ないとか思ってんの?自信?はッ、笑わせてくれるじゃない、彼が何時までもアンタの近くに居てくれると勘違いしちゃってない?久慈川はアンタの家族でも彼氏でもないんだよ?何時まで甘えてるの?それともただの依存?この際、言わせて貰うけど、どうして自分が優しくされているのか考えた事あるの?どうしてみんながアンタに気ぃ遣ってるのか――分からない訳じゃないでしょ!?ただみんな腫れ物に触るみたいに遠慮してるだけなんだからね?みんな仲良くしましょうなんて言われてそう簡単に仲良く出来る訳ないじゃない?平等だなんて建前、無理ッ!差別してるから同情出来るだけ。優しくしてあげてるだけ、そりゃ言いたくないけどね、それが現実、どんなに言い繕ったって、見下してるのよ、だから同情して、優しくしてあげる事に納得してる、社会的な弱者も平等に見ろって?バカじゃないの?平等に扱って欲しかったら甘えるなって話でしょ?アンタもそうよ?!何時までも何時までも苛められっ子みたいな顔してさ、でも、そのくせ強かに彼に甘えてばかりでさッ!直木の将来とか自由とか考えてあげた事あるの?!アンタは甘えてるだけのつもりでしょうけど、それは彼をただ拘束してるだけなのよ?!彼には彼の人生がある、それはアンタと一緒のものじゃない事だってあるの!!恋人だって作りたいかも知れない、顔には出さないけどアンタを煩わしいと思ってる事もあるかも知れないッ、或いは本当に自立して欲しいって真剣に想ってるかも知れないのに、それをアンタは考えないの?何時まで彼を縛るの?自由にしてあげたら?!アンタも自立してあげたら?それともちゃんと彼女にして欲しいんだったら告白すれば?私はした、だからここにいる、分かる?アンタはずっと甘え続ける代わりに彼を束縛してるッ!!」
捲くし立てるように続いた結城の告解も最後にはただの非難になっていた。
「うるさい」
強く噛み締めた奥歯で磨り潰すように、聞き取れないほどの声で卜部は反論したものの、確かに結城の指摘は図星だと言わざるを得なかった。結城に言われるまでもない。誰よりも分かっているのだ。自分が久慈川の優しさに甘え、頼り、依存しているだけの関係に楽観的な淡い希望を抱いている事もだ。
「うるさい」
「何だって?」
結城は詰め寄った。
「そんなの分かってるわよッ!!!」
聴きたくもない事ばかりが耳を打ち、何もかも嫌になってきた卜部が訊いてもいない事まで唾棄し始める。
「分かってる、分かってるわよ、そんな事、そんなの誰よりも分かってるに決まってるじゃない、自分の事だよ?だから何?それの何が悪いの?私は結城さんじゃない、自分が誰よりも劣っている事も知ってる、直木が私に優しいのもそれが理由だなんてとっくに知ってる!分かるもん!!私がどれだけ直木の顔を見てきたと思ってるの?私に優しくすると偶に困ったように笑うときがある、だから知ってる、分かってる、直木は私を時々だけど鬱陶しいと蔑んでるときがあるくらい、でも何?私は誰かに誇れるようなものはない、顔だって良い訳じゃない、スタイルが良い訳じゃない、頭も悪いし、運動神経もない、要領も悪いし、嫉妬深い、独占欲もある、でも私が人よりもダメな事は変わらない、じゃぁ、それを逆に利用して何が悪いの?それで好きな人を束縛して独り占めして他の誰にも目がいかないようにして何が悪いの?好きってそんなもんでしょ?だって結城さんみたいに普通の人と違って他の誰かが居るかも知れないなんて希望が持てないんだからしょうがないでしょ?直木の将来?考えてるわよッ!でも好きな人なんだから私と一緒だったらって考えてもいーじゃない!何が悪いの?!悪い事でもした?!結城さんに分かる?!好きな人の手も握れないッ、抱き締める事も出来ない私の気持ちがッ!!」
「自覚があるんでしょ?だからそうやって訊いてるんじゃないの?」
漸く結城を見返す事の出来た卜部の顔は歪んでいた。瞳には薄らと涙も浮かんでいる。強張ったように固まった表情筋で表しているのが、怒りなのか、悲しみなのか、或いは悔しさなのかも分からないままの卜部に久慈川の冷めた声が突き刺さった。
「止めろ」
卜部はまるで癇癪を起こした子供だった。徐々に整合性を欠いていく結城への嫉妬や久慈川への好意もただの我が儘や駄々にしか聞こえなくなっている。久慈川は聴くに耐え兼ねて卜部を制すると、結城にも同様の言葉を発した。
「葵衣も止めろ」
鼻先に溜息を零した久慈川のウンザリしたような面持ちを受け、結城が如何にも渋々と云った様子で返事した。
「…………分かった」
だが、卜部の方から思わぬ疑問の声が上がる。
「あおい?」
「何よ?」
「どうして葵衣?」
「どーして?」
卜部の言わんとする所に何となく察したが付いた結城は小さく「あぁ」と閃いた。
「そう言えばさっき結城さん…直木の事を最初は苗字で呼んでたけど、途中から名前で呼び捨てだった。直木もそうだよ。何時から結城さんの事を名前で呼んでるの?」
「そりゃそうでしょ」
久慈川が何かを言おうとするのを遮るように結城が空かさず言い返した。
「アンタは知らなかっ――…いいえ、気付かなかったでしょうけど、私と直木は一昨年から付き合ってるから」
知らないでしょう、と言おうとして、気付かなかったでしょう、と言い直した結城の物言いには、まるで卜部を鈍感だと謗るような棘があった。
「葵衣ッ」
声を荒げた久慈川が結城を咎める。二人の間に卜部の知らない共通の理解があるように見えた。思わず僻みだけが口を衝いて出そうな中、しかしながら結城の言い様に感情以外の何もぶつけられそうになかった卜部は、その代わりとばかりに気付けば出したくても出せない腕ではなく、鋭い蹴りを繰り出した。
「腕がないからって蹴るんじゃないわよッ!!」
事のほか強かった一撃に危うくバランスを崩しそうになった結城に、卜部は腕のないただの袖だけの制服を大きく揺らしながら悲鳴に似た声で「障害者で悪かったわねッ!!」と自らを蔑んだ。
02-1
卜部真由美がトイレから出ると、同い年の男子がニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべて何故か出口の辺りで待機していた。不思議そうに観察したのもを束の間、何処からと自然に沸いて出てきた警戒心に卜部の身体は少しだけ硬直する。
「な…何?」
何もしてこないならさっさと遠くに行こうとする卜部に立ちふさがるように数人の男子達が囲んでいる。
「聞きたいんだけどさ、お前、ウンコした後はどーやって穴を拭いてるの?」
下品な内容ながらも恐らく純粋に興味を持って訊いているだけだろう男子達の、しかしながら侮蔑するような、見下すような、差別するだけに向けられた視線を受け止めつつ、卜部は「そんなの知らないッ」と返答した。
「知らない訳ないじゃん。あ、若しかして拭いてないの?」
「うわ、きったねーなぁ」
鼻を摘んだひとりの男子が言った。臭くないか、匂わないか、とまるで囃し立てるように繰り返す男子達は何時の間にか唱和し、煽るように手を敲き始める。
廊下には他の同級生もいた。遠くには教師らしき大きな人影もある。だが、誰も卜部を助けるような素振りも見せていなかった。寧ろ居ない物のように眺めている。
「どいてッ」
男子達の立つ間に肩を押し込むようにして卜部はその場からの脱出を試みる。
「待てよッ!」
逃げる卜部を男子達は捕まえた。後ろから肩を引っ張られ、上手く姿勢を保てなかった卜部の身体がお尻から廊下に落下する。
「痛ッ」
身体を支える事も出来ずに背中を打ち付けるほど卜部は派手に転んだ。その上に男子が跨り、卜部は身動きを封じられた。見下ろす男子の顔に深い影が重なり、表情は無邪気を通り越し、卜部には邪悪にさえ感じられるものとなっていた。
ふと少しだけ足元に冷たい風が入り込んだ。転んだ拍子にスカートの裾が捲くれていた。跨る男子の足が邪魔しており、スカートの乱れは太ももを摺り合わせて直すほかなかった。
「げぇパンツ見えてら」
その一言に卜部の顔が紅潮する。
「ウンコついてるか見てみよーぜ」
誰かがスカートを捲った。悪戯に類するようなものではなく、もっと粗雑な遣り方だった。衣服を剥がすような勢いで捲くられたスカートは腰の辺りまで大きく引っ張られる。
「っぅわ、エロいパンツぅ!」
卜部は赤くなった。だが、男子が言うような下着を履いている訳でもなかった。淡い紫にシンボリックにデフォルメされた蝶がプリントされただけだったものの、男子達の目には白以外の下着は大人びて見えるのかも知れなかった。
周りで傍観者を気取り、無関心を装っていた他の男子達の一部が色めき立った。気配が急に騒ぎ始める。数人の男子が新たに集団へ加わり、興味で見開かれた視線を差し向けてきた。
誰かがスカートを持ち、誰かが蹴るようにして卜部を転がした。廊下にうつ伏せとなった卜部の足を誰かが捕まえ、誰かが下着に手を掛ける。自分ではない誰かの体温が肌を触り、全身に鳥肌が走った。
「た、」
助けて、の一言が喉に引っかかった。
「何してるの?」
静寂が訪れた。
顔を上げた卜部の頭の上に別の男子が跨っていた。と思った矢先、その男子から切り裂くように鋭い蹴りが放たれる。卜部の衣服に手を掛ける男子の腕が跳ね上げられ、同時に痛みを逃がすような小さな呻き声が廊下に響き渡った。
再び蹴りが繰り出される。今度はスカートを握っていた男子の腕が飛ばされた。次いで三回目の蹴りも飛び出したものの、空振りに終わった。男子達が卜部から離れ、距離を取ったからである。
「ほら、立てよ。さっさと」
卜部の上から退いた男子が腰を下ろした。目の前にはきちんと閉じられていないままのズボンのチャックが口を開いており、そこからしゃべってるような声が続けた。
「パンツ、見えてるけど、卜部」
スカートを正してから、久慈川が卜部の腰を抱くようにして立ち上がらせる。続け取り囲む男子達を睨み付けると、卜部と共にその場を後にした。男子達からは引き止めると云うよりは久慈川を非難するような声音で「待てよ!」の一言が投げ掛けられた。
「先生に言うなよッ!」
「言うよ。死ね。バーカ」
早くこの場から立ち去るように促した久慈川は卜部の腰に手を宛がった。何か言いたげに向けられる視線を背中に受けながら久慈川は卜部を連れ立ち、男子達や野次馬の人垣を押し分けて行った。
02-2
ドラマは最終回のラストシーンを迎えようとしていた。よくあるラブストーリーだった。内容こそ他作品と違うものの、同じような主要な登場人物のキャスティングは放送開始の当時から凡そのドラマを想像させるものだった。案の定、予想の範囲内に落ち着いたカップリングの結末は、やっぱりな、の感想を呟かせる程度のものだった。
物憂げながら幸せを歌うドラマの主題歌でもあるバラードがテレビから流れている。俳優達の台詞は聞こえないまま、親族や親友を僅かに列席させた教会で粛々と進む結婚式の映像は続き、指輪の交換、誓いの口付けが行われ、ヒロインの涙に濡れた笑顔が写る。それを迎えるように朗らかで一際な笑顔を向けると、画面はフェードアウトし、スタッフロールが始まった。
「やっぱりなぁ」
ドラマ好きとブログの上では公言出来る母が予定調和の結末を迎えたドラマを味気ない一言で評した。一方でドラマは趣味に合わないらしい父は新聞紙越しに耳だけを傾けている様子だった。
「結局、この二人だったわねぇ」
そう呟く母を無視し、何時の間にかテレビのリモコンを手にした父がチャンネルを報道番組へと変えた。
「お母さん―――」
「なぁに?」
冷めたお茶の入った急須を手に取ろうとした母が間の抜けた声で聞き返した。
「私、結婚、できる?」
「どうして?」
小首を傾げた母は急須から手を離すと、何かを察したように真剣な面持ちで振り返る。
「指輪って左手の薬指に嵌めるでしょ?」
「そうね」
母は頷いた。気付けば父は途中だった筈の新聞紙を畳み、膝の上に乗せている。
「運命の赤い糸は小指に繋がってるって聞いた」
「都市伝説だろ」
無骨な父の声がまるで不安か疑惑を払拭するように、迷信だ、世迷言だと鼻で笑った。
「ねぇ」
「なぁに?」
再び呼び掛けられ、同じように間の抜けた返事を送りながらも何処かしら優しさの増えた母の声が聞き返した。
「私、好きな人ができたよ」
卜部真由美は初恋を自覚したと両親に報告した。
02-3
生徒指導室に呼び出された久慈川直木の前には担任と教頭の二人が並んでいた。隣は母親の三咲である。用件は先日の卜部に対するイジメ問題についてだった。
卜部に悪戯しようとしていた男子達を蹴り付けた事、その場から立ち去ろうとした際に飛び掛って来た男子を返り討ちにした事で、結果的に相手側にのみ怪我を負わせてしまった久慈川への苦言から始まった担任の他人事のような報告は、直木の母の度重なる謝罪を教頭が制止する形で終わった。
怪我を負わせた相手の主張は久慈川にとって納得の出来るものではなかった。たまたまトイレから出た先で起きていた現場を流石に見過ごせなかったと言う久慈川の訴えは担任も充分に理解してくれていたものの、怪我を負わせた事実へのフォローは難しいのだとも告白した。
謝るしかない。ただ一方で目撃者も多かった卜部へのイジメは関係した男子達全員に責任を問えるだろうと教頭は言った。だが、同時に学校の対応は注意するだけに止まってしまう可能性が高い事も説明した。
「久慈川君にはほんとうにすまないと思う」
禿頭に脂を浮かせた教頭が謝罪した。担任も教頭に倣い、すまないと頭こそ下げていたものの、本音は、問題を大きくしないで欲しい、公にしないで欲しい、取り敢えず負傷させてしまった生徒達には謝って事無きを得て欲しいと言っていた。
久慈川には理解出来ない大人の都合も直木の母には理解出来るものだった。とは言え息子から事の成り行きを聞いていた手前、担任や教頭を含む学校側の対応には不満が残る。ただ被害者である卜部真由美や彼女の両親の事を考えれば、不満が残ると曲がりなりにも言えてしまうのは、所詮は他人事だからなのかも知れなかった。
生徒指導室を後にした久慈川と直木の母の二人は、互いに異なる理由で表情を暗くしていた。授業中の学校の廊下は静かである。僅かに解放された扉から控えめな喧騒が聞こえる中、ふと階段の踊り場で三咲が立ち止まった。
「どうしたの?」
何事かと尋ねてきた久慈川に三咲は神妙な面持ちで向き合った。
「直木…」
膝を折り、息子と同じ視線に立った三咲が訊いた。
「卜部さんの事―――どう思う?」
「どうって?」
母が知りたい事に検討の及ばなかった久慈川は聞き返した。
「どうして卜部さんが苛められたのか、分かってる?」
「分かるよ。だって、卜部には腕がないんだもん。しょーがいしゃ?って奴だからでしょ?」
そうね、と頷いた三咲は続けて質問する。
「卜部さんの事、どう思う?」
「どうって?」
「可哀想だとか思う?」
「かわいそう――…?」
怪訝そうに繰り返した久慈川はほんの数秒ほど唸ると搾り出すように言った。
「あぁ、でも、面倒くさいかな。腕がなくて色々と大変かなって」
「面倒くさい…」
思わぬ答えに三咲はクスリと微笑んだ。
「そうね。優しくてあげてね、卜部さんに」
「うん」
然して深刻に受け止める様子もなく頷いた久慈川は、母と別れると教室に向かった。既にクラスメイトは図工室へ移動していた。誰も居ない教室に何処か寂しさを感じながら必要な道具を揃えた久慈川は教室を後にした。
「久慈川君」
廊下を進み、階段を上ろうとした久慈川はクラスの委員長と出くわした。どうしたのかと訊ねると、担当の先生が休みで急遽自習になったと説明した。自分はそれを後から来る久慈川に伝えに来たのだと付け加える。
「あーそうなの」
手に持った道具が不要になった久慈川は一旦教室に戻ろうと踵を返した。
「ねぇ」
久慈川の背中に委員長が声を掛けた。
「何?」
「どうして卜部ちゃんを助けれたの?」
「は?だってトイレから出たら目の前でやってるんだよ?無視する方が難しいっしょ?」
「でも、みんな無視してた」
「僕もあそこにいなきゃ無視してたよ」
「勇気があるよね」
「ないないっ!ないよ!」
委員長の言葉を真っ向から否定した久慈川が言った。
「僕からすれば無視する方がすごいよ。逆に勇気がある」
久慈川がぼそりと付け加えた、ゆうきだけに、の皮肉に委員長は「笑えないから」と苦笑した。その表情はぎこちなく、困ったような憂いを含んでいた。
「じゃぁ、図書室だからね、自習室は」
「うん、分かった」
返事した久慈川が荷物を置きに教室へと戻って行った。どうせなら待っていようかと思いつつも、遠ざかる久慈川の背中を見送った委員長はその場に止まる事が出来なかった。
気持ち急ぐように図書室へ戻った委員長は、胸元に宛がった拳を強く握り締めると、委員長なんて肩書きに見合うほどの器量をまるで持ち合わせていなかった自分に落胆した。
「何が委員長だ…何も出来てないじゃん、私―――確りしなさいよ、結城葵衣ッ」
03-1
屋上に乾いた音が鳴り響いた。
卜部真由美から繰り出された蹴りへの報復とばかりに結城葵衣は平手打ちを返した。卜部は叩かれた頬をそのままに顔を背け、足元を見ている。綺麗に整えていた筈の髪は大きく乱れ、表情を窺い知る事は出来そうになかった。
「帰る」
ぼそりと卜部が呟いた。
「逃げるの?」
挑発するように問い質す結城を無視し、卜部は振り返る事無く屋上を後にした。
「真由美――」
「ダメよ」
卜部を追い駆けようとした久慈川直木の腕を結城が掴んだ。制止すると云うよりは強く非難するような力強さがあった。
「追い駆けても誰の得にもならないよ。言ったでしょ?卜部さんの事を思うなら多少は突き放すべきだって」
先ほどまでの態度とは打って変わり、結城は如何にも優等生らしい落ち着いた声音で久慈川を諭した。
分かってる、とは言わずやや乱暴に結城の腕を振り払った久慈川は訊いた。
「どうして嘘を吐いたんだよ?」
「嘘?別に彼氏彼女の関係だ、なんて言ったつもりはないけど」
白々しくもそう屁理屈を返した結城は補足するように続ける。
「でも、私達が多少なりとも深い付き合いになってたのを卜部さんは知らなかったんだから、全くの嘘でもないんじゃない?」
それに、と結城は付け加えた。
「告白の返事は聞いてないから強ち嘘にならないかもしれないでしょ?」
頬を少しだけ朱に染める結城は自分で言っておいて恥ずかしいようだ。
「分かってる。でも、言っただろ?即答は出来ないって」
「分かってる。卜部さんにも悪いしね」
「本当にそう思ってる?」
卜部に当たるような先の態度を思い出した久慈川が疑った。
「言ったでしょ。私は障害者だからって気は遣わないって」
「そうかい」
本音か建前か、何れにせよ結城なりの主張を察した久慈川は頷いた。
「で、結局の所、どうなのよ?」
「何が?」
「卜部さんの事が好きなの?」
「直球だな?」
「回りくどいのは嫌いだしね。だから、教えてよ、正直な所をさ」
「嫌いじゃない」
久慈川は言った。
だが、空かさず結城が詰め寄った。
「そんな言い方は嫌いだな。卑怯だよ。ハッキリしてよ、好きか、嫌いか。どっち?」
「好きだよ」
語尾に被せるように即答した久慈川に、結城は言葉を詰まらせる。だが、不思議と久慈川の表情に臆面もなく告白しているような眼差しを見付ける事は出来なかった。
「……そ、ぅなんだ。振られたか。だったら、即答出来ないなんて期待は持たせないで欲しいなぁ」
大きな溜息が結城の口から溢れ出る。
「それはアレ?やっぱり同情してるから?」
不躾だと思いつつも結城は僅かな期待を望み、また向ける矛先のない遣る瀬無さを吐き出したくて久慈川に問い掛ける。
「多分…。だから、これは好きとかじゃないんだろうな、きっと」
適当な言葉が思い浮かばなかった久慈川は、出任せながら曖昧に説明しようと試みる。
「好きなの?」
言い訳がましい久慈川を遮り、結城が再び問い質すと、今度は中途半端な答えが返ってきた。
「どうなんだろ―――?」
「どうなんだろうって…」
追求すれば追及するたびに変わる久慈川の言葉に結城は呆れた。
「その程度なのかもしれない」
「その程度って?」
「即答出来ても自信が持てない」
遠くの空をふと望だ久慈川が「その程度の気持ちなのかも知れない」と呟く横に並んだ結城も屋上の欄干から少しだけ身を乗り出した。暫くすると不恰好な姿勢で走り去って行く卜部の姿が目に入った。
「追い駆けないの?」
「追い駆けない」
去って行く卜部から目を背けるように振り返った久慈川は言った。
「葵衣の言う所も尤もだしな。少し、距離を置くべきだと思うよ。俺も、真由美も、」
03-2
まるで西日を目指すように校門から抜け出した。それでも耐え切れずに学校を振り返ると、屋上の欄干に並び、重なるようなふたつの人影が確認出来た。
あぁ、直木と結城さんはまだ一緒にいるのかと思うと、もやもやとした言葉にならない気持ちが湧き上がってきた。走っている所為もあったが、動機は早まり、呼吸も短くなっていた。今まで味わった事のないような息苦しさが胸を締め付けている。
失恋したと云う事だろうか。いや、そもそも告白さえしていなかったのである。結城の挑発に遣り返す形で一応は言葉にしたものの、秘めていた片思いがただ終わっただけの事である。
校門を過ぎ、直ぐに道を曲がった。学校を囲う塀に後ろの風景が見えなくなるった所で卜部は漸くペースを落とした。そのまま海岸通に下りると、傾いた西日を映す海原が、卜部の沈んだ気持ちとは対照的にキラキラと輝いているのが目に入った。決して強くないのに吹き荒んでいるように感じた冷たい北風がひどく痛かった。鼻が赤いのは、頬が赤いのは、きっと寒いからだと内々に呟きつつ、何かが零れてしまいそうな気持ちを落ち着かせようと鼻を啜った。
暫く海岸通の防波堤の上を当て所なく歩き続けた。眩しかった太陽は既に水平線に沈み、赤かった空は紫色を映し始めていた。辺りは静寂と云うよりは孤独な雰囲気が漂い、気温をより一層と下げていた。
まさか自分が振られただけでこんなにも気を落とすとは意外だった。イコール直木にどれだけ依存していたのかが窺えた。ただ直木の事だ。仮に結城との関係が露呈したとしても今までと同じように面倒を見てくれるだろう事も容易に想像出来た。
一方で以前と同じように直木に頼れるのかは疑問だった。直木と結城の事を考えれば身を引くのが正解だからである。否、距離を取るべきだった。徐々に直木から離れ、行く行くは自立する。今まで甘えが過ぎたのだ。これは迎えるべくして訪れた通過儀礼なのだと卜部は感じた。
とは言え、気持ちに一区切り付ける事が出来たのか分からないまま、茫洋と時間を空費していたらしい卜部は、ふとバスの最終便が近い事を思い出した。全く感傷に浸る暇もないのかとも思ったが、暮れるまで充分な時間もあった。愚痴を呟けるのも少なからず立ち直っている証拠かも知れなかった。
卜部は海岸通から国道へと戻り、バス停に向かった。車の往来も少ない、薄暗い通りを横断する。抜け道として地元民が通るような二車線には足らない道路は街灯が殆どなく、遠くを見る事は叶わなかった。若しかしたら既に行ってしまったのではないかと少しだけ不安になる。
時折、車のヘッドライトが暗闇に浮かんでは目の前を通り過ぎて行った。地元民が多いのでスピードは全体的に早かった。緩やかにカーブしている辺りでは路側帯に乗り上げるほど膨らむ車も多かった。
未だ来ないバスを待つしかない卜部は変に持て余してしまった時間の所為でまた色々と考えてしまった。直木が、結城が、将来は…と思い付くままに出てくる不安に塞ぎ込みそうになった卜部の視界に車のヘッドライトが入ってきた。
「ぇ?」
暗闇の落ちた足元の影が伸びていた。前から近付いてくるやや左右に広いヘッドライトの輝きはバスかトラックのものだと分かる。でも、影は前へ伸びていた。後ろからも車が来ているのかと、用心を期した卜部は半歩ほど下がり、路側帯の内側へと入った。
だが、近付いてくる車のクラクションが鳴った。もっと下がれと言う事だろうか。細い道なのだからそっちが安全運転しろと思いながら気持ち睨み付けるように振り返った卜部は、目の前に迫り来るそれが暴走した車の前面だと気付く事さえ出来ぬまま、襲い掛かってきた衝撃に身体を吹き飛ばされた。
04 エピローグ
三日後、酩酊の上、危険運転に及んだとされる十九歳の藤沢英明が逮捕された。通行人を撥ね、現場から逃走、負傷者の救護義務も放棄した藤沢は、少なくとも十年以上が求刑されると伝えたのは、事故後にも聴取を聞きに来た警察の山之辺小百合だった。
不幸な事故とは言え、一先ず決着した旨を山之辺から知らされた卜部真由美は改めて久慈川直木の下を訪れる決心が付いた。ただ病院へと向かおうとする足取りは重く、想像以上に時間を要してしまった。直木を事故に巻き込んでしまった負い目から久慈川の両親に会いたくないと思う疚しさが足取りを重くさせているようだった。
失恋した勢いで普段よりも遅くなってしまった報告を聞き、探してくれていたらしい久慈川を含め、巻き込まれたと云う他ない事故の被害者家族となってしまった久慈川の両親が今どのような想いなのか、卜部は想像する事も叶わなかった。
バスの最終便に乗る前、暴走する車が突っ込んで来るのを久慈川に目撃され、卜部は九死に一生を得た。明らかなスピード違反の車に代わって撥ねられた久慈川は近くの電信柱に下半身を挟まれるような形で負傷した。加害者は逃走、しかしながら近隣の住民の通報により救急車と警察は直ぐに現場へ到着し、久慈川は病院へ搬送された。数時間の手術の末、約一日の昏睡を経て、昨日の昼に目を覚ましたそうだ。
病院に到着した卜部は受付の案内に従い、久慈川の病室に向かった。良かった、彼の両親には会わずに済みそうだ。不謹慎にもそう安堵した矢先、卜部は久慈川の母親である三咲に出くわした。事故後から付き添っていたらしいと、山之辺経由で耳にしていた通り、草臥れた様子の彼女は気持ちやつれていた。
視線が合った。だが、卜部は何も言えそうになかった。ごめんなさい?ありがとう?どちらも正しそうで間違っているように思えた。ほんの数秒、若しかしたら瞬きほどの間の躊躇いの後、卜部は戸惑いつつも「おはようございます」と場違いにも普通の挨拶で向かい合った。
「直木のお見舞い?」
「あ、はい…」
思わず、すみません、の一言を付け足したものの、三咲には聞こえないほど小さかった。
「さっきまで起きてたけど…疲れてるみたいだから、また寝ちゃうかも。ご免なさいね」
「あのッ」
以前と何ら変わらない三咲の態度に卜部は苦しいほどの罪悪感に駆られる。
「無事で良かったわね、卜部さん」
「ごめんなさい―――ごめんなさいッ!」
頭を下げた卜部は母親である三咲の顔が見られなかった。罵って欲しいとさえ思えてくる。非難されず、況してや気遣うように優しく…同情されるように相手されるのはどうしようもなく心苦しかった。
「謝る事なんてないでしょ。寧ろ、私は直木の事を誇りに思うわ」
卜部の肩を抱いた三咲が呟いた。
「でもッ…わ、たしがちゃんとしてれば、直木――くんは、事故に遭わなかったんですよ?」
涙が零れた。
「誰かである事は関係ないんじゃない?危険な目に遭いそうな人を助けてあげた。ただそれだけの事よ。だから、卜部さんも気しないで、大丈夫だから―――ほら、泣かない?」
微笑みながら卜部の頬を濡らす涙を拭うと、三咲は「またね」と明るい声を最後にその場から立ち去った。暫く呆然と立ち竦んだ卜部は、目元の熱いものが消え去るのを確認してから再び久慈川の病室を目指した。
階段を上り、目的の病室に到着した。相部屋ではあったものの、久慈川の他に同室の者はいなかった。だが、部屋には人の気配が感じられた。ノック出来なかった為、仕方なく無作法に入室すると、結城葵衣の姿が見付けられた。
「結城…さん」
卜部に呼び掛けられ、振り返った結城が言った。
「座ったら?」
組み立て式の簡易の椅子を差し出した結城に従い、卜部は腰掛けた。
「直木―――」
痛々しい姿の久慈川がベッドの上で寝息を立てていた。
「ごめんなさい」
謝るしかなかった。他に何も出来なかった。してはいけなかった。そのような出所の不確かな、衝動にも似た直感をただ表した卜部に結城から声が掛けられう。
「足には後遺症が残るかもって。最悪、下半身不随の可能性もまだ残ってるって話…―――は、もう聞いた?」
久慈川に振り返った卜部は喉を詰まらせた。見れば久慈川の下半身はギブスなどに覆われている事が容易に分かるほど不自然な盛り上がりを見せていた。山之辺の話に拠れば、腰椎の骨折、大腿骨の粉砕だそうだ。手術も数回は重ねないと完治も難しいと聞き及んでいたものの、後遺症の有無は知らなかった。
「大丈夫なの?」
「大丈夫だと思う?」
皮肉の籠った返しが結城から突き付けられる。
「卜部さんを助けようとして、直木は後遺症が残るかも知れない大怪我を負った」
視線を横に流した結城が唾棄するように卜部から顔を背け、ベッドの上の久慈川の様子を窺った。
「後腐れないように今の内に言っておくけど…」
後頭部を向けたままの結城が言った。
「私、別に直木の彼女じゃないから」
「は?」
意味が分からなかった。どうしてこんなタイミングなのだろうか。否、結城は何を告白しているのか、まるで耳慣れない外国語を聞かされたかのようにその意図も意味も、況してや真意も理解出来なかった。
「私、帰るから。またね」
脈絡がなかった。若しかしたら気が動転した自分は結城の語った言葉の前後を聞き逃しているのだろうか。そんな疑念さえ起きる不自然な会話が一方的に切り上げられたかと思えば、結城は本当に病室を後にした。
「どう―――しろって言うの?」
取り残されるような形で病室にひとりとなった卜部は呟いた。無事とは言えないまでも存命の久慈川に謝りたい、出来れば姿を見たい、感謝の言葉を送りたいなどと考えていた筈なのに、いざ誰の視線もない場所に置かれると、不思議と何も思い浮かんでは来なかった。
代わりに思い出したのは昔の事だった。小学生の頃、両親に運命の赤い糸や婚約指輪の仕方を尋ねた事があった。腕のない自分はそのようなものがないのだろうか。指輪は何処に嵌めればいいのか分からないと訊いた時、両親から明白な返答がないまま、久慈川に恋をしたのだと自覚した報告した当時の事である。
「そう言えば直木にもそんな事を訊いたっけ」
好きな人だから訊きたかった。バカにされるとか、否定されるとか、慰めて欲しいとか、答えが欲しいとか、特に何かを求めていた訳ではなかったように思い出せる。ただ相手の考えを少しでも知りたい程度の気持ちだった。
「……助けてくれてありがとう」
漸くその一言を告げる事の出来た卜部は少しだけ薬品の臭いがこびり付いたようにも見える久慈川の頬にキスすると呟いた。
「指輪の交換が出来なくても、誓いの口付けは出来るんだよね、確か」
誓いと云うよりは宣誓のように、やっと告白出来たような気がした卜部は、腕がない分くらいには軽くなかった足取りで病室を後にした。