物語の外側で。
私の担当している個室は、植野というおじいさんの部屋である。
このおじいさんは、毎日同じ本を読んでいる。黄ばみ具合から、かなりの年代物だというのが見て取れる代物だ。借りてみると、発行年は約五十年前。それの初版を、ずっと読み返しているらしかった。
とはいえ、彼が文字を読めるのは、一日のうちのほんの数十分だろう。まだらボケの彼は、一日の大半を薄れた記憶の中で過ごしている。本を読めるのは、記憶が繋がっている時だけだ。
「やあ、看護士さん。今日も気分がいいよ」
私の顔を見てすぐさま「気分がいい」と言ってくるときは、「俺の話を聴け」という副音声が重なっている。私は笑顔を返すと、彼の持っている本へと目を移した。いつも通り、この本の話をするに違いない。
「……植野さんが今日も元気なのは、『さちこさん』のおかげ?」
「そうじゃ。看護士さんも、『さちこさん』が好きじゃろ?」
満足げかつ大仰にうなずき、おじいさんは本を開いた。
彼は、この本のヒロインである『さちこ』という女性に恋をしているのだ。それはもう、真剣に。
彼には家族がいる。孫までいる。けれど彼は、そのことをほとんど覚えていないのだ。思い出せない、と言うべきなのかもしれない。
自分のことも家族のこともほとんど分からない。だというのに彼は、本の中の『さちこさん』だけは、五十年間ずっと愛し続けているのだ。
「どんな毎日を送ったら、こんな良い子に育つんじゃろうなあ。さちこさん、最後はどうなるんじゃろ」
半年前よりも聞き取りづらくなった声で、おじいさんは呟いた。私は首を傾げる。
「その本に、全部書いてあるんじゃないの?」
「書いてない」
その即答っぷりに、私は再び首を傾げた。
本の内容は知っている。おじいさんに促されるがまま、読んだことがあるからだ。内容は、恋愛ものだった。ただし、子供には見せられないようなあれこれの描写が挟まっているせいで、かなり濃い内容ではあったが。
その本のラストは、かなりのハッピーエンドだった。読了感の悪さを与えない、有無を言わせない幸せな描写。伏線はすべて回収しており、綺麗に纏め上げられた一冊。あの結末なら、もやもやする読者は誰もいないだろうと思っていたのだが。
「最後、読んでないの?」
「読んだ」
「じゃあ、どうなるもこうなるもないじゃない。めでたしめでたし、でしょ?」
「いや」
おじいさんは、それはもう深刻な顔をした。
「小説というのは、『登場人物の生活の一部』しか書いていない。生い立ちもなければ、毎日毎時間毎分の記録があるわけでもない。必要な……おいしい部分だけ抜き取った、かけらのようなもんじゃ」
なるほど、と私がうなずくと、彼は続けた。
「この本の最後だって、主人公やその周囲がどうなったのか、死ぬ瞬間まで書ききっているわけじゃない。『生活の一部』の、収束を書き記しただけ。だからわしは、『さちこさん』がこの後どうなるのか、どう生きてどう死ぬのか、それが知りたいんじゃ」
わしは本当に、さちこさんが好きなんじゃよ。
おじいさんはそう言うと、すがるような目で私を見た。
「なあ看護士さん。看護士さんは、『さちこさん』がどうなったか知らんか?」
私はしばらく考えた。たとえば、この小説の著者本人なら、『さちこさん』のその後を知っているかもしれない。けれど私は、五十年前にこの本を執筆したという著者が、現在生きているのか死んでいるのか――それすらも知らないのだ。
「ごめんね、分からないわ」
私の言葉に、彼は残念そうな顔をした。それはまるで、子供のように。
それからしばらく経った頃、控えめなノックの音が聞こえてきた。一拍遅れて入って来た女性を見て、
おじいさんは頬を緩める。
「おお、介護士さん。こっちこっち」
呼ばれた彼女は、笑いながらおじいさんへと近づいた。彼女ならもう、次の質問は予測できているだろう。
「介護士さん。介護士さんは、『さちこさん』がどうなったか知らんか? 看護士さんは知らないって言うんじゃ。なあ、『さちこさん』は元気か?」
当然のように『さちこさん』を知っている彼女は、うんうんとうなずいた。そうして色とりどりの折り紙を取り出し、
「きっと元気よ。さ、今日は何を折りましょうか」
「鶴がいいのう」
「じゃあ、鶴を折りましょうね。折り方、覚えてるかな?」
介護士の彼女は、何事もなかったかのように鶴を折り始めた。
「……あの本って、実話をもとに書かれてるんですよね?」
帰り際、『介護士』に出会った私は声をかけた。彼女は人懐こい、柔らかな笑みを浮かべて肯定する。そこには、悲しさのかけらも見受けられなかった。
「そうです。あれは、半分以上が実話なんですよ。もう、エッセイと言ってもいいくらい」
「ということは、あの話の登場人物にも、モデルがいるんですね?」
「ええ」
「……だとすれば、『さちこさん』というのはやはり」
私が尋ねると、彼女はやはり嬉しそうな顔を見せた。どうしてそんなに、楽しそうにできるのだろうと思えるくらいに。
彼女――白髪の老婆は、細い目をさらに細める。そうして、私に告げた。
「『介護士』さん。あなたの予想通りですよ。『さちこ』は私です」
――この老人ホームに、『看護士』は存在しない。常在しているのは『介護士』だ。私は介護士として植野さんに携わっているが、この老婆は介護士どころか、うちのスタッフですらない。
だって彼女は、植野さんの奥様なのだから。
けれど、植野さんの薄れた記憶の中では、私は『看護士』、彼女は『介護士』となっている。ここだけは妙に固定されていて、来る日も来る日も、彼は彼女のことを介護士と呼ぶ。彼女はもうそれを否定しない。来る日も来る日も『介護士』として、植野さんと接している。
そう、植野さんの記憶はもう繋がっていないのだ。
彼女との関係も、――自分があの本の著者だということも。
「――あの人、いつも『さちこさん』の話ばかりしているみたいで……。面白くない話でしょう? すみません」
「いえ、そんな。……今日は植野さん、本に書かれていない部分まで気にされていましたよ。物語の前後というか」
私が説明すると、彼女は「ああ」と苦笑した。
「それはもう、分からないかもしれません。『作家としての植野』が今、生きているのか死んでいるのかすら、判断しかねますから……」
けれど私は、きっと『さちこさん』は最後まで幸せだと思います。
そう断言する彼女の強さに、私は息を呑んだ。そして思わず、気になっていた質問をぶつけてしまった。
「……寂しくは、ないですか」
「え?」
「植野さんはもう、あなたを『妻』と認知していません。恐らく、その存在すらも……」
――失言だ。そう思い俯く私に、彼女は優しく微笑みかける。そして、寂しくないですよと言い張った。
その言葉は、強がりでもなんでもなく、『さちこさん』の本心だろう。
そう思えるほどの、笑顔で。
「どんな形であれ、彼は最後まで私のことを覚えてくれている。愛してくれている。――それだけで、私は充分幸せです」